「同性愛者」は存在するか
2004年 09月 22日(石塚浩司訳・法政大学出版局)
邦題の同性愛とギリシア的愛はどんな関係にあるのか。後者は少年愛だという指摘がありえよう。なるほど本書には、『イリアス』の英雄たちが後代のアテナイ人の目には少年愛の関係にあると映った次第も述べられている。だが、その際、彼らの常識ではアキレウスとパトロクロスの役割は明確に定まっていたはずで、この点では意見が分かれたらしい(まるでやおい少女のように、どちらがウケかが気になった訳だ)。著者によればこのカップルは、ギリシア世界よりむしろギルガメシュ神話やダビデ物語の傍に置くのがふさわしい。
自分たちの概念を前の時代に適用しようとした彼らの錯誤は、現代の概念、例えば「同性愛」が普遍的なものでありどの時代にも見出せると信じるときわれわれが陥るものでもある。どの時代、どの地域にも同性との性的接触を求める人間はいたが、それは「同性愛者」という本質がどこか(例えば遺伝子の中)にあって、社会によって違う発現をするということではない。「異性愛」と同様、それはたかだか百年前の西欧の発明なのだ。
著者はM・フーコーの仕事を高く評価し、彼の方法に一章を割いてもいるが、ヨナタンの愛が女の愛にまさっていたと語ったダビデには性的動機があった訳ではない、女性の性は生殖と切り離せない特質を持つというギリシア人(に限らないが)の考えは「女性性」を女に押しつけるいつもながらのやり方で、実は生殖とオーガズムを切り離せないのは男の方なのだ、といった逆説の鮮やかさはむしろロラン・バルトを思い起こさせる。基本的に古典学者の専門論文集である本書だが、「一般読者をも引き込まずにはおかぬほど面白いものがあると思う」という著者の言葉はいかにも控え目に聞こえる。
(初出『季刊幻想文学』1995)