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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

『舞姫』ノート(1) 分身と母殺し 2022.9.29−10.23

『鷗外追想』という同時代の知己の回想を集めた本を読んでおり、身内をなくしたばかりの時に読むものではなかったとすぐに気づいたがそれは別にして、家族や著名な文人はもとより、さほどあるいは全く知られぬ人、博物館や図書(づしよ)寮で部下だった人、観潮楼裏門前に父の代から店があって一家に親しく接し鷗外の遺体の顔剃りもした床屋さんの文章まであり、興味深い。

 それがきっかけで『舞姫』のことを少し調べたら、エリスの身許について私は二十年位前に出た研究書(未読だが、新聞の書評欄などで大きく取り上げられた)の存在くらいしか知らなかったが、数年前にもっと決定的な本を出した女性がいたらしい。現在どう読まれているのか興味が湧き、検索して見つけた筑摩書房のサイトの元教師の男性の論考が、主人公の母が「諫死」(つまり自殺)したと内容を解説していたのでちょっと驚いて、そんな話だったろうかと訝しみつつ該当箇所を見ると、太田豊太郎の母から息子への手紙が着くのと時を同じくして、その死の報せも届いている(自死ではない)。「この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某(なにがし)が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運(はこび)を妨ぐればなり」。フィクションに偶然はないので、これは手紙の内容には触れずに済まし、その後の悲劇を母のせいにしないための仕掛けであろうと私は考えた。豊太郎は周知の通り、親友の「相澤」に感謝しつつ恨み、一切を彼のせいにして責任放棄している、現代の読者には共感し難い主人公だが、作者はここで周到に母を死なせて物語から母を消し去り、母をもあらかじめ免罪しているのだろうと考えた。それからすぐに別の考えが浮んだ。

 これに先立って私は、『鷗外追想』中の小金井喜美子「森於菟へ」を読みかけながら、甥への手紙の形を取った分別くさいオバサンの説教にうんざりして途中でページを閉じていた。於菟の『父親としての森鷗外』を読んだのはずいぶん前のことだが、『舞姫』についての文章は、若かりし日の父の(現実の)恋へのシンパシーが基調だったと記憶する。それが『舞姫』にモデルのあったことを世に知らしめた初めとは今回ネット検索していて知ったが、どうやら小金井喜美子にはこれがてんから気に入らなかったらしく、新聞に載った甥の文章をあげつらう公開書簡である。独逸時代のお父様に「こがね髪ゆらぎし少女」と同棲した事実はなく、誰もが知る通り仕事ぶりは真面目で悪い評判などなかった、誰にそんな話を聞きました、と詰問口調で畳みかける。それはそうだろう、讒言によって免官され、相手の踊り子と同棲し、復帰できると知って彼女を裏切り、高熱で意識不明の間に親友の相澤からそれを聞いた娘は発狂、胎内の子とともに女を捨てて帰国したのは、太田豊太郎であって森林太郎ではない。事実は、エリス(のモデル)があとを追ってきたのを――高校の国語教師が「エリスが横浜まで追いかけて来ちゃって」と言ったとき、驚きに教室がざわめいたのを覚えている――弟(篤次郎)や喜美子の夫・小金井良精が説得してそのまま返したとは、『舞姫』のメロドラマからは想像もつかない。

 小説中で母を死なせている点に戻ると、「書中の言を反覆するに堪えず」という口実で、ここで語り手は母の言を封殺している。実際には逆らえなかった母の影響を、鷗外は小説の中ではすっぱり廃している。彼はここでこういう形で、あっさり母を殺している。たとえ意識に上ることがなかったとしても、これは母殺しではないのか。

 けれども母は死なない。これ以後母の意思は「相澤」が代行することになり、女を切り捨てることに成功するのだから。だが鷗外は『舞姫』を書くことで、彼らがそれしか知らない、金で解決可能な情事とは別なものがあることを、不器用ながら敢然と示してみせたわけで、これ自体が母に対する叛逆だろう。

 これは母殺しでは。そこまで考えたところで、私は読みさした小金井喜美子の文章に戻った。驚いたことに、『舞姫』は書き上げられるとただちに鷗外自身の希望で、篤次郎によって家族の前で(本人と父親――存命なのだが影の薄い父親――は不在)朗読され、読み手も聞き手も涙するという、想像を越えた展開だった。恋など生涯無縁でも近松には心を揺さぶられるようなものだろうか。「暫く沈黙の続いた後、『ほんとによく書けて居ますね』といひ出したのは私[喜美子]でした。お祖母様はうなづきながら、『賀古さんは何と御言ひになるだらう』」と言ったとある。相澤のモデルの賀古鶴所(かこつるど)が自分の罪もかぶったのを、母の峰はわかっていたのだ。

 篤次郎の伝える「何昨夜見えたので読んで聞せたら、己れ[おれ]の親分気分がよく出て居るとひどく喜んで」云々という賀古の反応も理解し難いが、母親諌死説を主張する最初に引いた元高校教師“舞姫先生“は、「鴎外が豊太郎の母親を「諌死」させた理由は、峰子を満足させるために、毅然たる母親像を描きたかったからではないでしょうか」と言い(鈴原一生「舞姫先生は語る」(https://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho/tsuushin/rensai/maihime-sensei/004-02.html)、賀古同様、母もこの扱いに満足したろうと言っている(作品による「隠された母殺し」は完璧だった訳だ!)

 ともかく『舞姫』は発表されて評判もよく、「今までの何か心の底にあつたこだはりがとれて、皆ほんとに喜んだのでした」というのが喜美子の結論で、それを今頃になって余計なことをと甥に言ってやっている訳だ。すでに述べたように私は於菟の回想は読んだが喜美子のこの文章は初見であり、それでも“エリス”に向けた聞くに堪えない物言いは引用で知っていた。しかしこの中の、帰国後のエリスについての鷗外からの情報として、エリスが「帽子会社の意匠部」に勤めることになったという話は覚えがなかった。鷗外のイニシャルを縫い取った(「空色の繻子とリボンを巧につかつて、金糸でエムとアアルのモノグラムを刺繍した」)ハンカチ入れのことがその直前に出てくるが(これは何かで読んでいた)、そういう手芸の達者な人なら、当時の装飾的な女物の帽子のデザインを手がけるのにはなるほど向いていよう。そしてこのあとネットで六草いちか氏の労作『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(もう十一年も前に出ていたのだった)について調べ、著者が見つけた後年のエリスの写真も、発見を報じる新聞記事の画像で見たが、そこには帰国後、エリス(のモデルと目される人)が帽子製造をしていたとあった。間違いなくこの人だ!(いや、事実は逆で、六草氏はその情報を手がかりに調査を進めたのに違いない)。どうしてもこの本を読まなければ。

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 その前に肝心の『舞姫』を読み返した。通読するのは高校の教科書以来かもしれなかった。当時私は古文より漢文が好きで文語動詞の活用を覚えるのなどは特に嫌いだったから、不思議なことにすらすら読めて苦もなく理解できる文語文に出会って喜んだものだ(文の構造も語彙も内容も“古文“ではないからだとはすぐに気づいたが)。今読むとこの短篇は全くのお伽噺ではないか。「森鷗外の『舞姫』」という文字の並びくらいは以前から目にしていたが、この典雅な「舞姫」なる語が要するにダンサー、それもたやすく娼婦に身を落す境遇の踊り子を指すと知って当時はまず驚いたと思う。しかし今、この物語の背後には作者の実体験があると知った上で“普通に”読んで、主人公の恋人のモデルが本当に“舞姫”だったとはとても思えない。「或る日の夕暮」、父をなくし葬りの金もなく教会の門に倚って啜り泣く少女という例の出会いも、どう見ても嘘っぱちだろう。むろん嘘というのは「本当にあったこと」に対してであり、物語としてはよく出来ている。金のために劇場の抱え主に身をまかせるしかない、しかも母にまでそれを強いられようとして道端で声を殺して泣くよるべない美少女との、絵に描いたような――いや、まるで“小説のような“――出会い。エリスにとってはあやういところを救ってくれた王子様との出会いであり、豊太郎にとっては、西洋の作物で読んだことしかない恋のはじまりだ。社会の底辺の踊り子と新興国家のエリート留学生との“清らかな“交流は、しかし「色を舞姫の群に漁する」と日本人仲間から誤解され、「芝居に出入りして女優と交る」と讒言されて、豊太郎は任を解かれる。

 お伽噺というのは、綺麗事という意味ではなく、単純化、寓意化されているということだ。娘を食い物にする実母を持つシンデレラと王子様の身分違いの恋もそうだが、豊太郎の係累も、母ひとり子ひとりの境遇にまで絞られている(実際の森家は元藩医の父も健在で十歳だった林太郎と二人でいち早く津和野から出てきており、下に二男一女があり、神童と呼ばれた林太郎は一家の希望の星だった)。母の死というフィクションも、お伽噺化でなくて何であろう。悲劇性は強められ、しかも実はこの「母殺し」で豊太郎は自由になったはずなのだ。実際、公費で帰国する機会を捨てて豊太郎はエリス母子の家に転がり込み、貧しくとも幸福な“愛の生活“がはじまる(スキャンダルによる奨学金打ち切りも同棲も喜美子によって否定されているところだ)。この時日本から救いの手を差し伸べ、新聞社の通信員の仕事を世話して、ベルリン生活の継続を可能にした友人として登場するのが相澤謙吉である。これに続く、豊太郎が備え付けの新聞を次々読んでメモを取るカフェの様子や、劇場での稽古の帰りにエリスが顔を出して一緒に帰宅するところなど、「よく書けて居」るのに全く覚えがなく、高校生が読むには早過ぎたか(形式や内容でなく細部を読み味わうという点で)と思うばかりだ。

「エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ」というこの「月日」はどのくらい続いたのだろう。わからない。公費で送り返されるか、それとも独りドイツに留まるかの決断に「一週日の猶予を請ひて」思い惑ううちに母と親族からの書状が届くが、考えてみたらこの不名誉を母が知って手紙をよこすには(航空便ではないのだし)、相当の時間がかかるはずだ。とすればこの時点で母の「諫死」など全くありえないではないか。それとも、豊太郎の醜聞は免官以前から、日本にいる母の耳にまで達していたのだろうか(そうだとしても、免官という決定的な事件なしに「諫死」するとも思えない)。「この二通は殆ど同時にいだしゝもの」という、その「時」とはいつなのか。母の最後の手紙は、エリスの件とは無関係ということもありうるのでは。エリスと出会った「或る日の夕暮」がいつのことかも、季節の推移も、その後どれくらいの月日が経ったのかについても記述はない。留学の徒についたのは五年前(ごとせまへ)で、三年ほど過ぎてエリスを知ったという枠は一応あるのだが、「楽しき月日」は常世で過した年月のように無時間的で、実はほんの僅かな間かもしれないとも思わせる(ついに事態が動きはじめる時――相澤から呼び出しが来た時――「政治社会に出でんとの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを」と豊太郎が言っているので、年単位で時が過ぎたようであるが、感覚的にはとてもそうは思えない)。はっきりしているのは、「明治廿一年の冬は来にけり」、つまり現実には秋に鷗外が帰国しエリスが来朝した年である一八八八年の冬のはじまりを告げる一句ばかりだ。

 エリスが鷗外を追って日本まで来たと国語の教師から聞いたとは前に書いたが、その時期を私はずっと『舞姫』発表の後とばかり思っていた。事実関係についてそれ以上聞かされた覚えはないが、昔ヨーロッパで関係があった女と東京で索漠たる再会をする『普請中』のコピーを配って読ませてくれた(茂吉の「死にたまふ母」の抜粋が教科書にあれば全篇のコピーが、賢治の「永訣の朝」一篇に対してはとし子の死を主題とする他の詩篇のコピーが配られ、Kの死のみを載せる『こころ』の場合は、全篇に加えて『吾輩は猫である』も読んでおくことが夏休みの宿題として課せられる、といった具合だった)。実際には『舞姫』は八九年暮れに書き上げられ、九〇年一月号の雑誌に載る。思えば鷗外ゆかりのと聞く「水月ホテル鷗外荘」は高校の近所だったのだが、当時は古びた看板を掲げていたのがすっかり綺麗になって、と思ううちに先頃廃業してしまったけれど、そういえばそこで『舞姫』を書いた「舞姫の間」というのを売りにしていた。鷗外旧居といっても鷗外は千駄木だけで住居とした地が二つある訳で、今一つぴんと来なかったが、今回『舞姫』は上野花園町の(新婚の)家で書かれ、そこは赤松家の所有だったと知ってようやく(私の中では)繋がった。あとで調べると八八年九月八日鷗外帰朝、十二日エリーゼ・ヴィーゲルト横浜着、十月十七日エリーゼ横浜出航、翌八九年三月、赤松登志子と結婚、九〇年一月『舞姫』発表、九一年九月於菟出生、十月鷗外家出、十一月登志子離縁という流れだったのだ。

 一八八八年(から翌年にかけて)の冬のベルリンに戻ると、そこに至るまでのお伽噺的無時間性に対して、これが冬でなければならなかった理由ははっきりしている。エリスに対する決定的な裏切り――天方伯に与えた、随行して帰国することを「承りはべり」という返事――による主人公の内面の惑乱に釣り合うだけの天地の恐るべき変容が、雪の降りしきるなか何時間もベンチで眠り込み、肩にも「帽子の庇」にも雪が積もった状態で立ち上がり、さらに一時間歩いて雪と泥にまみれて家に辿りつくという、ほとんど自殺行為に等しい行動で、エリスに直接向き合い真実を話さなければならなくなる状況を回避、目が醒めた時には残らず片がついている――とは言わぬまでも、もはや自分ではどうしようもなくなるまで事態が進展するあいだ人事不省でいられるだけの、厳しい気候が必要だったのだ。

「明治廿一年の冬」は、「朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり」という、「室(へや)を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿つ北欧羅巴の寒さ」の記述からはじまる――野生の鳥に本当にそんなことがあるものかどうか知らないが、かかる寒さの中、決定的な裏切りのあと、夜に入って戸外のベンチで「灼くが如く熱し、椎(つち)にて打たるる如く響く頭(かしら)」をもたせかけ、「死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は」云々に至って省みれば、「落ちて死にたる雀」とは、ベンチから転げ落ちてそうなっていたかもしれない豊太郎自身なのだ(このあたりの細部も――雀以外は――昔読んだことを全く覚えていなかった)。

 エリスに妊娠の徴候があり「若し真(まこと)なりせばいかにせまし」と豊太郎が思う中、大臣の天方伯に随行して当地に来た相澤からの書状が届く。母の手紙の出された時が気になったのでこの手紙も、逆になぜあらかじめ日本からベルリン行きを知らせておかなかったのかという気がしたが、要するに不意打ちであることと、ここで話を劇的に進ませることの必要からだろう。実際、豊太郎は、「伯の汝を見まほしとのたまふに疾く来よ。汝が名誉を恢復するも此時にあるべきぞ」という文面に応えて「急ぐといへば今よりこそ」と日曜の朝の炉辺から立ち上がる。エリスは体調の悪さを押して手づから一張羅を着せ、「これにて見苦しとは誰れも得言はじ」と言う。「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず」。そうか、これは“逆蝶々夫人“なのだと気がついた。男はいつか本来の姿をあらわして(これでは“逆鶴女房“か)、故国へ帰ってしまうのだ。「われも諸共に行かまほしきを。」というエリスの何気ない一言は、実は彼女と恋人との認識の残酷な隔たりを示すものだ。豊太郎には彼女を、日本人仲間に伴侶として紹介するつもりなど毛頭ないからだ。

「縦令(よしや)富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ」というエリスに微笑して、「何、富貴。」「政治社会に出でんとの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」という豊太郎の言葉は、それでも嘘ではあるまい。彼がそのような善良な心の持主だというのではない、この時点では本気でそう言ってしまう人物としてこの主人公が設定されているという意味だ。「エリスが母の呼びし一等『ドロシュケ』」が、雪道に車輪をきしらせながら窓の下に横づけされる。良き未来に通じると期待される――実は別れのはじまりである――門出のために、(馬の引く)ハイヤーが呼ばれたのである。

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 相澤謙吉とは何者だろう。ともに大学にあったとき「余が品行の方正なるを激賞」した相澤が今の自分をどんな顔で迎えるかと思う豊太郎だが、現れた友は変らぬ「快活の気象」で、「我失行をもさまで意に介せざりき」と見える。大臣に拝謁しドイツ語の文書の翻訳を依頼された後、豊太郎は相澤と昼餉をともにして「不幸なる閲歴」を語るが、この時も相手は驚きはしても「なかなかに余を譴(せ)めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき」。 明らかに豊太郎は、相澤にどう思われるか、自分が非難されないかをひどく気にしており、相手の寛大な態度に安堵しているのだ。「学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的なき生活(なりはひ)をなすべき」と説く相澤は、自らが有能であることを天方伯に示して信用を得よ、「彼(かの)少女との関係は(…)意を決して断て」と豊太郎に言う。前者の実現を覚束なく思いながら、後者について反論もせずに、「貧きが中にも楽しきはいまの生活(なりはひ)、棄て難きはエリスが愛」とわかっていながら「この情縁を断たんと約し」てしまうのも、いろいろ理由をつけてはいるが、要するに相澤によく思われたいからだろう。

 相澤が「旧に比ぶれば肥えて逞ましくなりた」る姿を実際に読者の前に現すのは、一篇のうちでこのくだりだけである。次第に心やすく言葉をかけてくれるようになった伯から、明日、ロシアに向けて出発するがと不意に同行を求められた時は、豊太郎は公務に忙しい相澤を数日間見ていない。エリスの妊娠が疑われ相澤と再会してからロシア行きまではひと月、ペテルブルクには二十日以上滞在しベルリンに戻ったのは年が明けた元日の朝と、冬に入ってからの時間経過はそれまでと比べはっきりしている(破局まではもはや数日しかない)。姿を現さぬ相澤は、しかし、「余が軽率にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たむといひしを早く大臣に告げ」ていたのだし、大臣が(相澤の思惑通り)、ドイツ語の翻訳者、またペテルブルクでのフランス語の使い手としての豊太郎の才を認め、気に入って連れ帰りたいと思うようになったのを本人に先んじて承知していたのだ。

 大臣が「滞留の余りに久しければ、様々の係累もやあらんと、相澤に問ひしに、さることなしと聞きて落居(おちゐ)たりと宣ふ」のを、豊太郎は否定することもできずに随行を承諾する。そしてその夜(あの雪の夜)から数週間、意識不明だったあいだに、相澤は訪ねてきて、豊太郎を看病するエリスに、彼の隠していたことを洗いざらい話してしまう。彼女とは別れると約束したことも、天方伯に従っての帰国も。豊太郎が(本当にそれが望みなら)はっきり自分で言うべきことを、相澤は、彼の知らないところで、彼の代りに言っているのだ。

 そして相澤は今も彼のそばにいる。天方大臣の秘書官で随行員、つまりともに帰国するのだから当然であるが、そして冒頭で、サイゴンで石炭が積み込まれる宵、仲間は上陸してホテルに泊り「舟に残れるは余一人」とあるので、実際にはやはり読者の前には姿を見せないのであるが。そしてこの相澤の不在が豊太郎に「日記(にき)ものせむとて」求めたものの白紙のままだった冊子に、思いのたけを綴った手記、すなわちこの『舞姫』のテクストを書くことを可能にしたのである。相澤謙吉とは何者だろう。

「この間余はエリスを忘れざりき」。ペテルブルク滞在について豊太郎はそう記す。「巴里(パリー)絶頂の驕奢を、氷雪の裡に移したる王城の粧飾(さうしよく)」、ことさらに点した「黄蠟の燭」を反射する「幾星の勲章、幾枝の『エポレット』」、「宮女の扇の閃きなど」に囲まれた日々(豊太郎はまるで舞踏会に拉し去られたシンデレラのようだ)、「この間仏蘭西語を最も円滑に使ふはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき」と水を得た魚のように才を発揮しながらも、エリスを忘れることはなかったというのだ。

「否、彼は日毎に書(ふみ)を寄せしかばえ忘れざりき。」離れてみて豊太郎への自らの思いの深さを今こそ知ったというエリスの纏綿たる書(ふみ)は、あるいは鷗外が実際にエリーゼから受け取ったり、直接言われたりしたことの反映かもしれない。ここではあの啜り泣いていた物語の薄幸の少女は影を潜め、自我のある一人の女がものを言っているのが感じられるからだ。すでにエリスはいざとなれば豊太郎について日本へ行く決心までしている。「大臣の君」の覚えがめでたいことを豊太郎の手紙から知った彼女は、自分の渡航費も工面できようとの希望を持つ。反対していた母もそこまでエリスの心が固いのを見て、「わが東(ひんがし)に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる」というのにも、娘に寄生する悪い母ではない、子を思う母のリアルな心情がのぞく。

 ところが豊太郎の方はこの手紙を見てはじめて自分の置かれた立場を「明視し得た」と言うのだから、読者はクズ男とか男の身勝手とか呼ぶ前に、この、頭脳明晰な才ある男の、本人も言っている異常なまでの「鈍さ」に注目すべきだろう。彼は大臣が自らをすでに厚遇するようになっているのに気づいていながら、その信用を「やや得た」という程度の認識で、「これに未来の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想(おもひ)至らざりき」とまで言うのである。この「鈍き心」を補うものこそ、事態を見透している相澤の“明視“に他ならない。豊太郎に欠けている、というかわざと欠けさせられた部分を、この「親友」(あるいは「親分」)は一手に引き受けている。すでに述べたように豊太郎を帰朝に同行させこれからも用いたいとの大臣の意向を、相澤はいち早く知り(これを明言せず匂わせるだけだったことは、「大臣のかく宣ひしを、友ながらも公事なれば明(あきらか)には告げざりしか」と合理化されている)、また、大臣のこの判断は、相澤が、太田は女とは別れると言っています(実際そう言ったのだ)、と大臣に注進したのであろうことに少なからず基づいている。相澤とは豊太郎の「鈍さ」を補完する、欠くべからざるパートなのだ。

 元旦の静まり返った凍れる道を馬車が彼らの住むクロステル街に至って、「家の入口に駐まりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁に「カバン」持たせて梯を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一声叫びて我頸(うなじ)を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やら髭のうちにて云ひしが聞えず」というあたりも「よく書けて居」よう。この場面は、最初に天方伯の滞在するホテルに向けて出発する時、エリスに接吻して外階段を降りた豊太郎を、上階で窓を開けたエリスが、「乱れし髪を朔風に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ」に対応しているのだ。ロシアへ行く時はエリスを他所へやって豊太郎が「旅装整えて戸を鎖(とざ)し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けぬ」としたのは、繰り返しを避けるためだったと分る。「幾階へか持ちて行くべき」と、カバンを持った馭者は階段を先に上がって叫ぶ。吹雪の中を豊太郎がボロボロになって帰りつく来るべき夜、中にエリスを容れたこの四階の屋根裏の窓は闇の中に一つだけ明りをともし、降りしきる雪に見えかくれして「風に弄ばるるに似たり」となるだろう。鷗外のこの処女作は本当に「よく書けて居」る。

「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを」と首に腕を絡ませたエリスに言われ、手を引かれて部屋に入って「白き木綿、白き『レエス』」を堆く積んで子の誕生に備えるさまを見せられた数日後には、しかし豊太郎は大臣に招かれて参上し、帰国を承諾してしまう。そして半ば意図的な遭難、相澤の訪問、エリスの発狂。これはやはり、形式化、単純化された、「黄なる面」「黒き瞳子(ひとみ)」の日本男児が、茜さす乳色の肌、「こがね色の髪」、「青く清ら」な目(まみ)の少女(をとめ)に熱愛される、「蝶々さん」や「お菊さん」の向うを張った(ロラン・バルトがピエール・ロチの『アジヤデ』について書いている、作者(筆名であるが)と同名の若い海軍士官が異国の美女との恋の果てに死ぬ、しかし作者の方は生きのびて作家/軍人としてのキャリアを全うするとは、主人公が死なず、名前に少し細工していることを除けば、鷗外の場合にそっくりではないか)、ロマンティックでエキゾティックな悲恋としてのお伽噺なのだ。豊太郎が(人事不省で)知らないあいだに、相澤は件の部屋にやって来る。これは彼の秘密に、その隠していた部分にずかずか入り込んできたということだ。そして相澤は、あろうことか豊太郎がエリスに言わなかった(言えなかった)ことをぺらぺら喋って、エリスを「精神的に殺し」てしまう。豊太郎の意識がないとき最も傍若無人にふるまい、彼とエリスの運命を不可逆的に変えてしまったこの悪魔は、実のところ彼の分身だろう。

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「此時余を助けしは今我同行の一人なる相澤謙吉なり」。相澤謙吉の名はこれが初出である。「此時」とは、むろん免職された時だが、当時相澤は東京にいて「余が免官の官報に出でしを見」、「某(なにがし)新聞の編輯長」に口を利いてくれたのだ。その後伯に従ってベルリンに来るのもすでに見た通りだが、はじめ読む時は記憶に残らないであろう「今我同行の一人なる」という何気ない一句は、読み返すと相当不気味ではないか。物語のはじめで「微恙にことよせて室の裡にのみ籠りて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨(うらみ)に頭(かしら)のみ悩ましたればなり」とあった、「同行の人々」の中に相澤はいたのだ。しかもその「恨」とは、「同行の一人なる」相澤に向けられた怨みで(も)あった――この事実を読者が知るのはようやく最終行に至ってでしかない。

 むろん「恨」とは「悔恨」を指しもするのだろう。後に残してきた「生ける屍(かばね)」、「あはれなる狂女」、「精神の作用は殆(ほとんど)全く廃して、その痴なること赤子の如く」と呼ばれるエリスをめぐる思いこそが、「瑞西の山色」も「伊太利の古蹟」も豊太郎をして楽しませず、「世を厭ひ、身をはかなみて、腸(はらわた)日ごとに九廻すともいふべき惨痛を」彼に負わせ、それがいくらか収まって「一点の翳とのみ」なっても、「文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度(いくたび)となく」彼の心を苦しませるのだ。エリスの「胎内に遺しゝ子」も生まれていない時点であろうに「懐旧の情」はまだ早過ぎる気がするが、それほどまでに、もはや全てが取り戻しようもなく――エリスへの「パラノイア」という診断は今日の目からは首をかしげさせようが、一時的な錯乱ではなく「治癒の見込なし」と言い渡されている――悔恨の種へと変じてしまっている。そして最後に残るのが、相澤への一点の「憎しみ」だ。

 周知の通り『舞姫』は次の文で終っている。「嗚呼、相澤謙吉の如き良友は世にまた得がたがるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」。エリスへの「愛」ではなく、相澤への「憎しみ」で幕を閉じるラヴ・ストーリー(しかも苦しみはなお日々あたらしく、もっと憎んでもよさそうなのにただ「一点」であるのだから、基本的に豊太郎は相澤を許しているのだろう)。「今日までも残れりけり」の「今日」を、昔読んだ時は「後年」と思った(と記憶する)のも、この「一点」のせいだが、これはむろん船室でこの文章を書いている「現在」である。「ああ、いかにしてかこの恨を銷(せう)せむ」と豊太郎は初めに嘆じていた。「他の恨であれば詩に詠じ歌によめる後は心地すがすがしくもなりなむ」。この和漢洋の教養を身につけた明治二十年代の青年にとって、漢詩や和歌とはそのようなメディアであったのだ。しかし、「これのみはあまりに深く我心に彫(ゑ)りつけられたればさはあらじと」思われた。けれども今宵は一人になれたので「その概略を文に綴りてみむ」。要するに彼は、「本当にあったこと」(少なくともそう称されること)を語り手が叙述する、しかもあえてそうしなければ他人にはうかがい知ることのできない(「我心に彫(ゑ)りつけられた」)「内面」の告白、つまり一人称の小説を書きはじめたのである。

 もちろん太田豊太郎は『舞姫』の作者、森林太郎ではない。しかし彼は「某省」より派遣されて実務をこなしつつ法学を学ぶ身で「欧羅巴の新大都」の新鮮なる息吹と「自由なる大学の風」に触れ、自分は政治家にも法律家にも向かないと思うようになり、それまで父の遺志、母の願いに添わんとのみして、与えられたレールの上を走っていた――「人のたどらせたる道を、唯だ一絛(ひとすぢ)にたどりしのみ」――のが、「歴史文学に心を寄せ」「漸く蔗を嚙む境に至りぬ」――つまり味わうことができるようになった。「奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり」。船室でもの書き綴る我とは、明らかにこちらの我なのである。

 権威に従うばかりの優等生のいい子ちゃんだった豊太郎に、こうしてはじめて葛藤が生まれる。一方、「官長」からは有能で従順な使い勝手のよい部下だったのが、自分の意見を主張するようになったせいで疎まれる。エリスとの関係も、はじめて知ったこの自由の延長上に、生まれるべくして生まれたものであるのはいうまでもない。しかし、もともと同輩とのつきあいが悪く、今また(金で買える女ではない)素人娘が下宿に出入りする豊太郎の生活は、ホモソーシャルな「同郷人」の反感を買うことになって「官長」に告げ口するものが現れ、劇場に出入りし女優と交わると讒訴される。

 もちろんこれは濡衣だが、しかし豊太郎の“分裂“はたとえエリス問題が収まったとしても厳然としてあり、後年の森林太郎の職業の二重性にまで繋がるものだ。この“分裂“は、だが「奥深く潜みたりしまことの我」が「きのふまでの我ならぬ我を攻むる」形で起こるのではない。相澤謙吉を太田豊太郎の分身と仮定する時、驚くべきは彼らが“分身に見えない“ことだ。豊太郎はジキルとハイドのような二重人格ではなく、相澤も彼の第二人格ではない――ではないが、すでに見たように、相澤は豊太郎がすべきでありながらためらっていることを代りに片付けてくれる“相棒“なのである。

 また、豊太郎と相澤はウィリアム・ウィルスンと、同名のもう一人の男のように、互いの見た目が似ている訳ではない。しかし相澤は分身の方のウィルスンのように、豊太郎の行為を批判し、否定してくる。これはポーの小説におけるような、善と悪という単純な二分法に基づく行動ではない。自己の内部にあるものを排除して自己の一部を外在化する――これは投影と呼ばれるものだ。豊太郎は非難されるべき自己を、もっぱら相澤に投影している。しかも相澤が敵ではなく友であるがゆえに――「余は(…)おのれに敵するものには抵抗すれども、友に対して否とは対(こた)へぬが常なり」――豊太郎は逆らえないのである。

 この友は、すでに見たように豊太郎に寛容だ。彼はウィルスンの分身のような「超自我」ではないが、それでもオーソリティーであり、賀古鶴戸が自称した通り「親分気分」、つまり磊落で面倒見の良い「快活な気象」の“親“なのだ。母親はあらかじめ退場させたが、こうして“親“は、豊太郎が早くなくしたはずの“父親“として回帰してくる。

 ところで、この短い物語にもう一人“父“が登場していたのを読者は覚えていよう。他ならぬ豊太郎とエリスの出会いの原因となった父、彼が通された最上階の住まいで、半ば開いたドアの向うに見えた「白布を掩(おほ)へる臥床(ふしど)」に横たわっていた父である。もう一つのドアをエリスが開けて豊太郎を導き入れたのは、「所謂(いはゆる)マンサルドの街に面した一間」で、読み返すと、エリスが北風に髪をなびかせて見送ったのも、下の通りに馬車が停ったのに気づいて見おろしたのも、豊太郎が見上げた時、吹雪の中で見え隠れしていたのも、通りに開いたその窓だと分る(つまり、この時の豊太郎には思いもつかなかった「憂きがなかにも楽しき月日」を送ることになる場所である)。屋根裏部屋の斜めの梁の下の「立たば頭(かしら)の支(つか)ふべき処に臥床あり」。これはエリスの寝台で、「中央には美しき氈(かも)を掛けて(…)こゝには似合はしからぬ価(あたひ)高き花束を生けたり」とあるのは、例の劇場の抱え主(「座頭(ざがしら)」)からの供花(くげ)ならむと教科書で読んだ時も思った(と記憶する)が、“舞姫先生“鈴原氏は、エリスの母が最初エリスのみを家に入れて、豊太郎の鼻先で荒々しく入口の戸を閉めたのは、座頭シヤウムベルヒを迎えに行ったはずの娘が見知らぬ東洋人を連れて帰ったのに当てがはずれたからで、それ自体が座頭の贈物である花束を飾った部屋の臥床ではエリスの身売りが行われようとしていたと読む。父の遺骸が同じ屋根の下にある部屋で、その埋葬代の工面に娘をというのはおぞまし過ぎてリアリズム的には無いと私は思うが、別室には死せる父が横たわり、ベッドを置いた部屋の高価なる花の飾られた机の「傍に少女は羞(はぢ)を帯びて立てり」という構図は、そう読ませるだけのなかなか象徴的な絵をかたちづくっていよう。花束は父の枕頭ではなく「少女」と並べて置かれることで彼女の換喩となり、シヤウムベルヒの(少女を買う)“花代“の一部にもなる。「人の憂に附けこみて、身勝手なるいひ掛け」した座頭とそれに従わないからと自分を叩いた母の仕打ちを訴え、借金を申し入れる少女に、豊太郎は懐中時計を外して渡し、受け出しには質屋の使いをよこすようにと住所と身許を告げる。

 こうして娘は「耻なき人」となるところだったのを彼に救われるが、そもそも「賤しき限りなる業に堕ちぬは稀なりとぞいふなる」“舞姫“として働きながらエリスがそうならずにすんでいたのは、「おとなしき性質と、剛気ある父の守護と」があってこそであった。臥床に横たわっていた“父“と入れ替りに豊太郎は娘の「守護者」になるが、「剛気ある父」では結局ありえなかった。それどころか、帰国時は「相澤と議(はか)りてエリスが母に微かなる生計(たつき)を営むに足るほどの資金を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ」なのだから、人並みの“父“になることすらできなかったのである

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 豊太郎の醜聞と免官という「失行」の原因は、テクストに明瞭にかつ繰り返し書き込まれている。それはエリスの父の「剛気」、相澤の「快活な気象」やそのモデルの「親分気分」のまさに反対物である、「弱き心」に他ならない。相澤曰く「この一段のことは素(も)と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし」。この「弱き心」が、そもそもエリスと知り合う以前に「留学生の中(うち)にて、或る勢力ある一群(ひとむれ)」と自分との間に「面白からぬ関係」を生じさせ、ついにエリスの件での讒誣に至ったのだと先に豊太郎は述べていた。「されどこれとても其(その)故なくてやは」。要するに「余が倶に麦酒(ビイル)の杯をも挙げず、球突きの棒(キユウ)をも取ら」ず、女遊びもしないのを、「かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且(かつ)は嘲り且は嫉(ねた)みたりけむ」。事実はそうではなかったのだと豊太郎は主張する。「わが心はかの合歓といふ木の葉に似て、物触(さや)れば縮みて避けんとす。我心は処女に似たり」。あるいは、「舟の横浜を離るるまでは、天晴(あつぱれ)豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾(しゆきん)を濡らしつるを我れ乍(なが)ら怪しと思ひしが、これぞなかなかに我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん」

 自らの「心の弱さ」ゆえに、毅然として周囲の圧力をはねのけエリスと子供を守り切ることができなかったと言いたいのかと思うとそうではない。それ以前に、男たちのホモソーシャルな集団に入れなかったのは勇気のなさからだったのに、それを、誤解されたと言い、「彼(かの)人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや、この弱くふびんなる心を」と自分を不憫がっていたのだ。この“たをやめぶり“は異常ではないか? しかしここに至ってみれば、「時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ」「歴史文学に心を寄せ」云々と語られていた「奥深くひそみしまことのわれ」とは、実はこのfemininityと不可分だったと分る。普段は「骨牌(カルタ)仲間」が集ひ来るまさしくホモソーシャルな男たちの牙城である船室で、「日記(にき)ものせむとて」買った冊子の日々の記録は空白のまま、ひとりになった太田豊太郎は、その女々しく、センチメンタルで、弱く、ふびんな心を、男も「文に綴りてみむ」とて記しはじめるのだ。

 だから太田豊太郎が森林太郎でなくとも、彼がこの船室で、「熾熱燈」のまばゆい光の下で書きはじめたのは、原理的には「小説」であると考えられる。士大夫が志を述べる漢詩でも、コミュニケーションの手段であり歌会の場で共有される和歌でもない、書いたからといって「心地すがすがしく」なりそうもなく、おまけに読者にもすがすがしくない読後感を残す(書かれた時点での森家の人々及び“相澤“にはそうではなかったようだが)小説。相澤には「縦令(よしや)彼に誠ありとも」、「縦令情交は深くなりぬとも」、所詮「一少女の情」に「かかずりあ」ふことでしかなかったエリスとの関係が、ここであらためて焦点化される。

 病床の豊太郎を相澤が尋ねるくだりを、私たちはこの当時はまだ存在しなかった初期の映画として、アナクロニックに想像することもできよう。豊太郎がこの友人には隠していた「秘密の小部屋」に押し入って(実際にはエリスの母に案内されて)、相澤は高熱を発して横たわる豊太郎と、付ききりで看取るエリス、傍の卓に積まれた出産準備、つまりは「かれに余が隠せる顚末」を目のあたりにすることになる。ここで相澤は悪の分身としての正体をあらわして(相澤役の俳優は豊太郎にそっくりの服装、髪型、メーキャップをするのがよかろう)エリスに迫り、彼が彼女に隠していた顚末――「余が相澤に与へし約束、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾」――をエリスに告げ、彼女は「俄に座より躍り上がり」、豊太郎への怨嗟の叫びとともに床に倒れる。目覚めたエリスの、恐らく鷗外が当時の精神医学の症例記録から持ってきたと思われる狂人の振舞いまで併せて、身振りの誇張された無声映画として表現されるのにふさわしいのではないか。ところで、この間、騒ぎを知らずに「眠り男」のように身を横たえていた豊太郎は、事件後、エリスと入れ替るように正気に戻ったのだから、豊太郎の「秘密の小部屋」に踏み入った相澤がそこで見出した彼の秘密、彼の隠していた〈女〉とは、ある意味、豊太郎その人の女性性でもあろう。

 豊太郎の秘密の小部屋と呼んだのは、『舞姫』と同時代のある中編小説を扱ったエレイン・ショウォールターの論文のタイトル――「ジキル博士の秘密の小部屋」――が頭にあってのことだった。ジキルの友人アタスンと執事のブールは、最後にそこに力づくで押し入ってハイドの死体と姿見を見つける。ジキルの姿はどこにもない。ショウォールターによれば、姿見は、「ジキルの、男にあるまじきナルシシズムを明らかにするばかりでなく、同性愛を扱った文学において鏡をその強迫的な象徴としてきた、仮面と「他者」の意味をも明らかにしている」という。詳しくは原典(『性のアナーキー 世紀末のジェンダーと文化』)にあたって頂くとして、豊太郎の部屋にも鏡はあった。相澤に会う彼に、母のように念入りに身なりを整えさせた時、エリスが「我鏡に向きて見玉へ」と言った鏡である。そこに映る姿を、「かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず」と彼女は言ったのである。あれが、エリスから豊太郎が離れるはじめであった。「エリスが母の呼びし一等ドロシュケ」とは、やはり、豊太郎をロシアの“舞踏会“へ運び去るかぼちゃの馬車の先駈けであったのだ。この錯綜したシンデレラ譚でこうしてエリスは王子様を失うことになるが、そのはじまりは彼女の鏡に映った豊太郎の見なれぬ影だった。

 相澤や天方伯には、醜聞の種となった女と後腐れなく別れ、天晴“舞踏会“で活躍すると見えた豊太郎の仮面は、ベルリンの街中での“遭難“で剝がれることになる――「一月上旬の夜なれば、ウンテル、デル、リンデンの酒家、茶店は猶(な)ほ人の出入盛んにて賑はしかりしならめど、ふつに覚えず。我脳中には唯々我は免(ゆる)すべからざる罪人なりと思ふこころのみ満ち満ちたりき」。見なれた街路が別のものへと変貌し、帽子をなくし、髪は乱れ、つまづき倒れて服は泥まじりの雪に汚れてところどころ裂けるという状態でエリスの下に戻った豊太郎は、あの日の鏡のなかの彼のまさに反対物だ。しかしこの“良心“が眠り込んでいるあいだに、忠実な悪の分身により、仕事は全てなされてしまった。「余が病は全く癒えぬ」と豊太郎は言う。代りに、「治癒の見込なしといふ」病人にエリスがなったのだ。その「エリスの生ける屍(かばね)を抱きて千行(ちすぢ)の涙を濺(そゝ)ぎしは幾度ぞ」とは、豊太郎は悲劇のヒロインの役まで簒奪しようというのだろうか。

「あはれなる狂女の胎内に」なぜ子が残っているのか、なぜ流産したという結末ではないのかとは、思いかえすとはじめて読んだ時から微かな疑問としてあったようだ。多分それは物語が綺麗に完結しない一種の座りの悪さを感じたからだろう。しかし今回読み返して――読み終えて最初に戻って――なぜ子が宿ったままなのか分った気がする。豊太郎の相澤への「今日までも残る」「一点の」憎しみは、エリスの「胎内に遺しゝ」子に相当するのだ。エリスに遺した「愛」と、相澤への「憎むこゝろ」は同じもので、これがあるために「今日」豊太郎は、骨牌仲間との交際から離れて内心の記録を綴りはじめたのであり、多分それはこの日にとどまらず日々育って彼の真のキャリアをかたちづくるのだろう。

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 鷗外の有名な遺言は「我ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と宣言している。これは言うまでもなく生あるうちはただの「石見出身の森林太郎」にはなれなかったからだ。「宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス」とは、死によってしかこのしがらみから脱け出せなかった者の言である。もし鷗外に軍医を辞めて両親の期待を裏切る勇気があれば、明治廿一年でもエリーゼとの結婚は可能であった。しかし、その年の九月八日鷗外帰朝、十二日エリーゼ横浜着、十月十七日エリーゼ横浜出航であるから、『舞姫』のドラマが繰り広げられる「明治廿一年の冬」には、本当は全て終っていたのだ。それにしても鷗外とエリーゼの到着日がかくも踵を接しているとは。「追いかけて来た」どころか、これでは船が違うだけで、一緒に(帰って)来たようなものではないか。

 エリスのモデル問題についての新たな研究(多分、ニ〇〇〇年の植木哲『新説 鷗外の恋人』)を伝える新聞の書評(か記事)で、母の峰や妹の喜美子が、はるばるやって来た異国の若い女に同情するどころか、鷗外に会わせずに帰国させることに熱心だったと知って私は驚いたものだ。豊太郎の母と違って峰は健在で、息子の帰朝前から赤松家との縁談を進めていた。「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった。お前を母のない子にした責任は私達にある」と祖母から言われたとは於菟が書いていた。「父もこの間に苦しんで非常に痩せ、大事な父を病人にしてまでこの結婚生活をつづけさせる考えも祖父母にはなかった」とも。思えば於菟は、ありえたかもしれないエリーゼとの子の代りに、大人の都合で生まれて来てしまった取り替え子のようなものだから、父(と退けられた母の代理のエリーゼ)に同情的なのは当然かもしれない。

 一方で峰は、登志子を離縁したのち再婚せずに、つまり女に接しないでいる息子(の“健康“)を心配して、自分で選んだ妾をあてがい、妾宅にそろそろ行ったらどうだと自ら勧めている(鷗外の死後の話だが、三男の類に精通があったと知ると、母の志けと姉の杏奴がそろって勧めて女を買いに行かせたのと同種の心配である)。鷗外はけっしてそこに泊らず、用が済むと母親の待つ家に戻った。完全に用済みになった時、女は美しい奥様の嫁入りを道端で陰ながら見送った。後に晩年の落魄した姿を人に見られている。こうした話は最初茉莉の書いたもので読んだのだったと思うが、この酷薄さも、エリーゼとの仲を裂かれた反動と見ればいくらか腑に落ちる(共感はしないが)気がする。

 鷗外の遺言は賀古鶴所が代筆した。すでに自らは筆を執れない死の三日前の鷗外に、今日は気分がいいからと呼ばれて口述するのを書き取ったのだ。鷗外が「潜みたりしまことの我」にようやく追いついたのは死の刻でしかなかったのかもしれない。三十余年前、ただの森林太郎となることができれば、鷗外の運命は変っていた。“相澤“はそれを思い出したろうか。それとも、「少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切ノ秘密無ク交際シタル友」(遺言書の冒頭に鷗外が置いた文句)は、分身としての最後の務めに満足して、もはや手を切らせた女のことなど記憶の彼方にしかなかったろうか。


by kaoruSZ | 2022-10-24 16:51 | 文学 | Comments(0)