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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

スカル、スズメガ、スカラビウスーーエドガー・ポーの『スフィンクス』考(1)

◆強調は引用者による



死の影の下で

 ここで扱うのは1843年の『黄金虫』と『黒猫』、『盗まれた手紙』(45)、『アルンハイムの地所』(47)と『ランダーの別荘』(48~49) 、そして49年の『スフィンクス』(1849年とはポーの短い生涯の最後の年でもある)といった作品である。また、書いているうちに、さらに十年前の『アッシャー家の崩壊』(39)と『赤死病の仮面』(42)とが予定外に召喚されてもきた。


 この中で圧倒的に知名度の低いのが『スフィンクス』であろう。しかし不幸な偶然によって、今日これを読む人は、自分と全く無関係の大昔の出来事と読み捨てるわけには行かなくなっている。このごく短い物語はこうはじまるのだから。


ニュー・ヨークでコレラが猖獗を極めたのは、ちょうどぼくが或る親戚から、ハドソン河の岸辺にある美しい別荘 [コタージュ・オルネ]で二週間、世間と没交渉に一緒に暮そうという招待を受け、その厚情に甘えていた間であった。


「人口稠密な都会から」は「恐ろしい情報」が毎朝伝えられ、「知人の死の報せを耳にすることなしには、一日たりとも経過することがなかったのである」。今はこれよりも酷くないと思える者は幸いである。しかし私はアクチュアルな事象について語ろうというわけではないので、この小品の主人公がこのように死に脅やかされる状況下にあったと示すにとどめよう。


 いま引用した部分で、そこがニューヨーク市から遠くない、ハドソン川の流域にあるcottageだということは知らされているが、これは『ランダーの別荘』(Landor's Cottage)の語り手が不思議な谷間に別荘を発見したのは「ニューヨーク州の川沿いの一、二の郡を踏破する徒歩旅行」の途上であり、谷間の湖から流れ出る小川が「切り立った崖をまっさかさまに流れ落ちて、ここからは見えない曲りくねった進路をたどって、ついにハドソン川に合する」であったのと符号する。『アルンハイムの地所』の本文に地名は出てこず、「その場所がどこだったかは、もちろん言うまでもあるまい。最近友人エリソンが逝去して、彼の所有地が一部の来館者に公開されるようなことになったので」云々と形式的には伏せているが、「普通アルンハイムにゆくには河を利用する。訪問者は朝早く市を出る」と抽象化されたこの市と河が何と呼ばれるべきかは明白だ。『アルンハイムの地所』は、私見では、朝がた町を出てハドソン川を遡った舟が日の暮れに死の国に至る道行を描いたものだが、『スフィンクス』の主人公が疫病を避けて閉じこもる親戚の「別荘」もそのあたりにあると見てよかろう

 

 今回、『黄金虫』『黒猫』『盗まれた手紙』等を再読したあとで『スフィンクス』をあらためて読むと、この小品は、ポーの後期のこれらの傑作と少なからぬ細部を共有する、結節点とでも言うべきものであった。以下はこのようにして気づいたことの覚書である。


両手に顔を埋める

 epidemic による心の弱りは、語り手の〈ぼく〉をしてこう言わしめる。


南部から吹いて来る風は、死の匂いにみちているように思われたし、実際その、心をしびれさせる想念はぼくにとり憑いてしまい、話すことも、思うことも、夢みることも、みなそのことのみであったのだ。別荘の主人もかなり参ってはいたけれども、ぼくほど興奮しやすい気質ではなかったため、ぼくの気分を引立てようといろいろ骨折ってくれた。


 語り手の「興奮しやすい気質」は、『黄金虫』の主人公レグランドを思わせずにはいない。『黄金虫』の語り手は彼を「発狂しやすい精神」とさえ言った。むろんレグランドは理由があって、つまり暗号文を解読できて興奮していたのであるが。


「豊かな哲学的知性」の持主である、『スフィンクス』の、語り手の友人でもある親戚の男ーー〈ぼく〉への濃やかな愛情が感じられることがレグランドの友人とはかなり違うーーさえ、〈ぼく〉が何を見たかを打ち明けると、「ぼくが疑う余地もなく発狂したのだと判断したのであろう、奇妙に生々しい態度に変った」のだった。再び現れた幻を〈ぼく〉が指摘しても、「彼は熱心に見まもりーーしかし何も見えないと主張した」。


ぼくはこのとき、甚だしい不安に襲われた。この幻はぼくの死の前兆ではないか、あるいは、もっと不幸なことには、躁狂の先駆症状ではないかと恐れたのである。ぼくは激しい勢いで椅子の背によりかかり、ややしばらくのあいだ両手に顔を埋めた。眼をあげたとき、幻はもはや見えなかった。


 これを読んで連想したのは、「興奮しやすい気質」なら一番に挙げるべきロデリック・アッシャーが、呼び寄せた友人〈私〉に「僕は死ぬのだ」と告げるうち、妹のマデリン嬢が「ゆっくりと部屋の遠くの方を通り」、〈私〉のいるのにも気づかず姿を消してしまうくだりである。


とうとう彼女の姿が見えなくなると、私の視線は本能的に熱心にその兄の顔の方に向けられた、ーーが彼は顔を両手の中に埋めていた


 彼らはいづれも両手に顔を埋めるという同じ仕草で、幻をやりすごしている。それlは死の前兆と感じられ、だからこそ彼らはそれを否認するのだ。


 もちろんマデリン嬢は幻ではない。〈私〉の眼はその去りゆく歩みをじっと見まもっている。しかし、冗談小説と受け取られるのかもしれない『スフィンクス』ーー私はそうは思わないがーーでは、語り手の見る幻は夢遊病の女ではなく、地すべりで樹木が流されむき出しになった山の斜面を、すばやく降りてゆく怪物である。


本から眼をあげると、視線は山のあらわな表面に、一つの物体にーー恐ろしい形をした生ける怪物へと注がれた。それは山頂から麓へとあわただしく降り、ついには下方の鬱蒼たる森林へと姿を消した。


 続く怪物の描写は、最初主人が「腹をかかえて笑った」のも無理はないと思われるものだ。地すべりを免れた大木と比較するとその動物は、「定期航路の船」よりも大きく、形もそれに似ていた。


 ラヴクラフトの読者なら(ポーとラヴクラフトの関係は誰知らぬ者もないが、それにしても)これはあんまりだとあっけにとられよう。読み返した『黒猫』の幕切れの壁の中から響く声、「ただ地獄からのみ聞こえ得る」号泣は、『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』でウィレット医師が降りていった地下の生き物たちの挙げる叫びやハーバート・ウェストを壁の向うへ連れ去った者たちはみなこの声から出てきたのだと納得させるものだったとはいえ。


『ダンウィッチの怪』に紛れ込ませても境目が分らないのではと思われるような描写はなおも続く。


「二本の光り輝く牙が垂直に突き出ている」が、「これは純粋な水晶で出来ているらしく、形は完全なプリズムを成しーー落日の光をこの上なく豪奢に反映していた。胴体は、大地に尖端を突きつけた杭のような形をしている。」そして翼ーー二対の翼は、「すべて金属の鱗でおおわれている」。さらに「上段、下段の翼が強靭な鎖で連結してあることをぼくは認めた。」


 しかし『黒猫』と『黄金虫』の読者にとって、真に驚くべきは次の描写であろう。


しかしこの恐ろしい怪物の主たる特徴は、ほぼ胸全体を覆っている髑髏(されこうべ)の絵であった。それは体の黒地の上に、まるで画家が入念に描きあげたかのように正確に、眩ゆいで描かれてあったのだ。


猫』では火事のあと焼け残った白壁に、語り手の殺した「巨大な猫の姿が焼きついて」いたのだった。


それは実に驚くべき正確さで描き出されていた。


 そして二代目の黒猫は胸に白い毛の斑点を持ち、「形こそ大きけれ、もともとはっきりしない形の」それは、やがて明確に絞首台の形をとる。


 黒と白は、『メエルシュトレエムに呑まれて』では、「一日前までは大鴉のようにまっ黒だった髪が、ごらんのようにまっ白になって」いたという形で、また、『ヴァルドマアル氏の病症の真相』では、催眠術にかけられて生きながらえるヴァルドマアル氏は「頬髯が真白で、黒い髪の毛と著しい対照を示し」ており、いずれも生と死の境界およびその(恐るべき)混交を表すものだろう。


参照先

『黄金虫』では、レグランドがその場にはない虫の形を伝えるために紙にインクでスケッチを描く。実はそれは海岸で拾って黄金虫を包んだ羊皮紙であり、それを受け取った語り手の眼に映ったのは、暖炉の火に暖められて紙の反対側に浮き上がった髑髏の絵であった。


 しかし『スフィンクス』の主人公は『黒猫』も『黄金虫』も読んでいないし(たぶん)、ラヴクラフトなど名前も知らないので(確実に)、そんなことなど夢にも思わず、「理性によってはどのようにしても追いやりがたい不吉の到来の予感をいだきながら」「この恐ろしい動物、特に胸のあたりの様子」を見まもっていると、奇怪な動物の「鼻の尖端にある巨大な顎が突然ひろがり、哀愁にみちた轟然たる響がそこから発せられて」、「それはまるで葬いの鐘のようにぼくの心を打ちのめし」たので、そのまま気を失って床へ倒れてしまう。


 何日も経って、ようやく彼は別荘の主人であり友人でもある親戚の男に、異常な出来事を物語る。夕べの同時刻、「ぼくは同じ窓際、同じ椅子に座を占め、彼はすぐかたわらのソファーによりかかって」いた。前述の通り主人は「ぼく」の狂気を疑い、しかもその直後に再び怪物が現れて、「ぼくは恐怖にみちた叫びをあげて、彼の注意を促した」。


 にもかかわらず、友人には怪物は見えない。しかし彼は相手を狂人と、その見たものを幻覚と決めつけることなく、「幻の野獣がどのような形のものか、執拗に問い質した」結果、集めたデータから答えを得る。この「哲学的知性」の持主は正しく「探偵」なのである。


「昆虫綱[インセクタ](つまり虫なんですよ)」と彼は言う。書棚から取り出した博物学の本を、その細かな活字がよく見えるように、語り手と交代した窓際の椅子で開きながら。


「髑髏[されこうべ]スフィンクスは、その憂鬱な叫び声および胴鎧にある死の紋章によって、これまでときどき、俗間に恐怖をもたらした。」


 探偵は本を閉じ、「椅子に腰かけたまま体を前にかがめ、先程ぼくが「怪物」を見たときとまったく同じ位置に身を置いた」。


「ああ、ここだ」と、やがて彼は叫んだ。「山肌を降りてゆく。とても目立つ姿だ。でも、君が想像したほどは決して大きくないし、遠くへだたっているわけでもない」


 窓辺の至近距離にいる髑髏スフィンクスが、遠くの山肌と重なりあったので 、前者がべらぼうに拡大されて感じられたというのだ。


 そんなことが実際にありうるかどうか、昆虫綱[インセクタ]、鱗翅目[レピドプテラ]、薄暮族[クレプスクラリア]、スフィンクス種なる虫が実在するかは 、さしあたって問題ではない。私たちがメタレヴェルで理想的な探偵–読者であったとしたら、怪物の胴に髑髏が見えたところで「虫」と判定すべきであった。なぜなら『黄金虫』の語り手が羊皮紙に髑髏を見たとき、その裏には黄金虫の絵が背中合せになっていたのだし、そもそも大きさの全く違う頭蓋骨と甲虫が同じ輪郭で出現したという事態には、言うまでもなくパースペクティヴの混乱があったからで、それは、暗号文を解いたレグランドが実際の土地にそれと符号するものを探しに行った際、「悪魔の岩棚」と呼ぶ場所に腰かけて彼方に聳える百合の木に向けた望遠鏡の筒の中に、葉むらの中の白い髑髏が収まるのにも通じるからだ。


 それは大きいものを小さく、小さいものを大きくして、サイズの違うものたちを同じ空間に共存させる。髑髏と甲虫の互の大きさが適正になるのは、虫を持った從僕のジュピターが百合の木に登って、枝の先に釘付けにされた髑髏と黄金虫が最大限に近づけられ、髑髏の眼窩の空洞を通して紐で吊るした黄金虫がおろされる時でしかない。


江戸川乱歩は『黄金虫』の暗号解読部分ばかりをほめるが(「探偵作家としてのエドガア・ポオ」)、『押絵と旅する男』の浅草公園で取り出された遠めがねは、ホフマンにも増して、『黄金虫』の望遠鏡から直接影響を受けたのではなかろうか。


 ベクトルは逆だが、怪物を見るためには、別荘の主人がしたように、語り手と同じ椅子にかけて「まったく同じ位置に身を置」く必要があった。これは「悪魔の岩棚」が、「ある一定の姿勢でなければそこに腰かけることができ」ず、そこ以外からは葉むらの中の頭蓋骨が見えないのとそっくりだ。メタレヴェルで書棚から取り出して参照すべき書物とは、「博物学の概論書」ではなく、『ポー小説集』に他なるまい。






by kaoruSZ | 2024-02-29 21:31 | 批評 | Comments(0)