回転するレストランで生物学談義する
2006年 01月 31日一度上ってみたいと思っていた、最上階の青いライトで縁取られた回転する円形レストランで食事。回転レストランなら、ホテルオークラと、それからいきなり規模が落ちるが 、今はない王子・飛鳥山の回転展望台に次ぎ三箇所目。行ってきたという事実に満足し、味は目をつぶらざるを得ないレヴェル*。昼間来てお茶とケーキの方がよかったかも。
行政の仕事に加えて非常勤講師としてジェンダーについても教えるYさん、有楽町を見下ろしつつ、デモの集合場所があの辺で、あそこで機動隊から逃げたと語る年代だ。一つ前の記事で「迷いつつ」と書いたが、あれもまたイメージの一面化であり、「自信に満ちて」といれなきゃと思うくらい、地元で、DV被害者や性別違和を持つ当事者のための活動にかかわる一方、一般女子(比較的高年齢層)を相手に啓蒙活動もバリバリやっている。他の自治体の人が見にきて驚くそうで、それだけよそではフェミニズム活動に対する縛りがきつくなっている実態があるらしい。例の仙台の女の生物学者(以前理系研究者と書いたが、生物学者でよさそう)が、インターセックスは少数の例外的な人々であり、大部分の人間は二極に集まる、だから男女間は連続的でないと書いていることについて、数の大小が連続性を否定する根拠になるのだろうかとメールで以前問い合わせたとき、その人の考えは間違っていますと返事をもらっていたのだが、あれは男女は明らかに違っているはずというイデオロギーが目をくもらせているのでしょうか、と問うと、たんにその人が生物学を知らないのだと断言する。生物学者なのに? 生物学は非常に細分化されており、他の研究については無知な場合が多い、自分は生物学についてなら日本のどこでどんな研究をやっているか知っているが仙台で人類遺伝学をやっている人はいないはず、と言う。恐れ入りました。(しかし、まあ、例の人の場合、やはりイデオロギーが先行しているのだと思うけど。)
鳥だってオスとメスの違いははっきりしている(だから人間も)という自民党議員に、Yさん、鳥には、オスメス[外見が]はっきり分かれているのと分かれてないのがいるんです、と言ってやったという。ニワトリとかキジ、孔雀あたりを想定したんだろうね、その議員。私は生物学が専門です、という科白はそういうとき利くそうだ。相手がたじたじとなるのが目に見えるよう。(しかし、スズメを考えるだけで素人にもわかるよ、それ。もともと、生物学的比喩は非常に安易。)Y染色体は相手の女性のX染色体と接合する段階ですでにもとのものではなくなるとは前にも聞いた話。まあ、ああいうのは、三種の神器がY染色体に代わったようなもので、男だけが代々引き継ぐ何ものか(という幻想)をそう名づけているだけだが。
それにしても、降臨した天孫は誰の子だったんだっけ? アマテラスに夫はいなくて、どこか洗ったり息吹きかけたりするだけで子が生まれていたのだと思うけど、そのときY染色体はどこから湧いてきた?
敬宮を、将来、男系男子と結婚させるのがいいと公然と言う人がいるのには驚くと言うと、
―さも、うやまっているようなことを言って、本当はそうじゃないのよね、とYさん。
―いったいそれって、誰のため? なんのため? 当事者はたまったもんじゃないよね。
―人権問題よ。
―でもあの人たち、もともと人権ないわけでしょう。
まったく、もう一度人間宣言したほうがいいんじゃないか。われわれは人間であって、かけあわせの対象になる絶滅危惧種じゃないって。
*値段はサーヴィス料つき高レヴェル!
その飛鳥山の展望台は、話に聞いただけで、見れなかったです..
残念です..長崎にもあったのですが..今はどうなっているかなぁ
銀座四丁目の三愛ドリームセンター階上から交差点を覗いてきました
レンズ経由だと高所恐怖が和らぐ事を発見済みです..(微笑)
飛鳥山の上り口というか、飲み屋街のあたりに、お堂だかお寺だかの廃墟(?)がありますね。あれ、被写体として面白いと思いますが、今でもあるのでしょうか。展望台がなくなってからは一度も足を向けていません。
飛鳥山の展望台が僅かですか、形をなしてきました..想像の世界ですが
飲み屋街の手前に、廃墟らしいのがありました..胸像が転がっていたのが
印象に残っていますが..実際に撮ったのは、この地蔵さん?だけです..
(もしかしたら、場所が違うかもしれませんね..)
懐かしい話をありがとうございます!!!
http://humsum.cool.ne.jp/UPUP/asuka.jpg
飛鳥山 お堂、飛鳥山 廃墟で、緊急グーグル調査したところ、
下記三つのサイトを発見。写真も載っています。それでも全貌は見えてきません。
地蔵さんて、他サイトの写真の中にある、洋風のアレでしょうか。
私、昔、ここの写真撮っています。写真サイトやるときはアップしますね!
展望台は残念ながら撮った覚えがありません。東京交通会館のレストランは屋上に乗っかった 巨大なUFOのようですが、飛鳥山の展望台は心棒にドーナツを突き刺した形でした。
http://www41.tok2.com/home/kanihei5/ooji.html
http://www.asahi-net.or.jp/~gr4t-yhr/wagamachi03.htm
http://otsubo.info/contents/wtemple/wtem0p67.html
座布団、一枚!(笑)。
過日、朝日新聞の記事にはジェンダー(社会的性差)との文言を発見しましたので、この業界の通り相場になっているのかもしれまないのですね?
しかしこの責任の一端は、ジェンダーの解説を「性差」という文言を用いている学者にもあるわけだ。例えば『岩波哲学思想辞典』の江原由美子の解説を短縮すると、「社会的・文化的性差」となるわけだから。
いや、ほんとに、黒猫さんのブログではこのペアを取り違えたけど、他の場所でも、固有名詞が思い出せない症候群のヴァリエーションとして、間違った固有名詞を思い出しているのに自分だけ気がつかないまま語ってはいやしなかったかと冷や汗。
さて、性差についてですが、一般に言葉の意味というのは、あくまでコンテクストによるわけです。
辞書に厳密な定義があろうとも、実際の運用ではじめて生きる。たとえば今なら微妙という言葉、そこから“ビミョー”にずれて流通している。
(そうでない、決まった定義から少しでもはみ出さずに言葉を使おうとする頭からは、硬直した考えしか出てこない。)
その岩波の本は知らないけれど、ある程度全般的な説明がされている中で「性差」という言葉が出てくる場合と、新聞記事の中に、突然、「文化的・社会的性差」とだけ出てくる場合は違うわけです。何の予備知識もない人は、それを実体のある、固定されたものとして取るでしょう。そこだけ切り取ってくる人(記者)は、だからいっそう注意を払わなくては(といったって無理だろうけどね)。
しかし、それが役に立つ場合があるのだだったら、どんどん使えばよいと思う。
定義を固めてからじゃないと使えないなんてことはない。ありあわせのものをブリコラージュ的に使うべき。
それによって、性別役割を押しつけようとする同僚教師とかを撃退できるなら使えばいい。
(たぶん戦後まもなくは、男女同権とか男女平等とか、民主主義の世の中といった言葉が、こうした力を持っていたのでしょう。)
今、こうして書いている言葉だって、考えそのものだって、ありあわせです。
もちろん、ジェンダーという言葉も。
(これは、東大のジェンダー・コロキアムでの話です。次にあります。http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gencolre1.htm
一つ前の記事で、あとで示しますとなっているソースの一つ)