読書会準備中
2007年 01月 16日以下はそこから横すべりしてのメモ 。
小学校へ上がる直前、買ってもらった運動靴を日記帳のページに言葉で再現しようとして、靴の内側に印刷された文字や数字をも日記に書きうつした経験をそこで私は引き合いに出している。また、話題になっているブローティガンの詩は、その一部が、電球に印刷された文字を写したものであった。
こうした文字の増殖を保証するものこそ、正しく複製(技術)と呼ばれるものである。ベンヤミンは例の有名な論文のはじめの方で、絵画はもともと複製されるものだったと書いている。つまり、今でこそ複製といえば寸分違わぬフォトコピーだけれど、それはもちろん手描きで、本物をまねて描くものだ。当然、オリジナルとコピーの別はある。絵画が、発明されて間もない写真に撮られてフレームに入れられたとき、それは藝術かという問題が起こった(現代では考えられないことだが)。あるいは、藝術的な、美しい、あるいは幻想的な対象を撮れば、卑しい写真術も藝術に昇格するのかという問いが生まれた。
もう一つ、非常に重要なことがある。(たとえば)靴を、言葉で描写するとして、その言葉は靴に全く似ていない。だが、文字を書き写すとき、その文字はもとの文字に似ているのだ(どんなに拙かろうと、また、美しかろうと、意味は伝達されるのだから、コピーのし間違いはありうるものの、伝達されるものは劣化しない)。つまり、オリジナルとコピーの別は文字にはない(そうでなければ、反復されるものが同じであると認識できない)。
茂木健一郎の次のような発言は、どこが顛倒しているのだろう? この、媒介されないピュアネスへの信頼はどこから来るのだろう?
彼は、漱石の生原稿より活字のほうが純粋に文学が味わえると、(文字でなく)言葉そのものがもともと「複製技術」だったと言うのだ。(だが、漱石の生原稿とて、一回目がすでにコピーなのだから、それははじめて写された写しに過ぎない。)
例えば「意識」という言葉を、文字で読んでも「意識」だし、声で聞いても「意識」だし、点字で読んでも「意識」です。具体的な感覚のモダリティから一段抽象のレベルがあがったところで、言葉の意味は成立している。文章を読むという純粋体験は、まさにそこに立ち上がります。
最終的には脳の中に何かを残し、それを持ち歩くために私たちは本を読んでいる。その、脳の中に残る何かは、どのような形で文字が入ってきたかということとは関係がない、より抽象度の高いピュアなものだと僕は思います。(インタヴュー 知のゆくえ)
来る土曜日の「きままな読書会」では、そういったことも話題にされることになるだろう。