“彼は私をブランチと呼んでいた。”
2008年 06月 06日★ 本稿を書いた当時気づいていなかった、鷲谷のこの文章の、事実の歪曲と反動性については次に記した。
http://kaorusz.exblog.jp/14384401
http://kaorusz.exblog.jp/14384463/
某所でやおいについてちょっとだけ「話題提供」する予定があるのだけれど、鷲谷花さんのこの論文、参加者にあらかじめ読んでおいてもらう参考資料に指定しておこうか……。
クライマックスでは(…)ふたりの美男が、吹き荒れる吹雪の中で、長い黒髪を振り乱し、顔には幾つも血の筋をひきつつ延々と切り結ぶという、まことに「お耽美」な剣戟場面が延々と繰りひろげられます。一方、ふたりの男が共に狂おしい思いを寄せる「傾城傾国の美女」のはずのチャン・ツーイーは、胸にナイフが刺さって気絶しているうちに雪の下に埋まって姿が見えなくなってしまっているという、いやしくも恋愛映画のクライマックスにおいて、かくもいい加減な扱いをうけた「ファム・ファタール」がいただろうかという有様で放置されています。(鷲谷、前出)
これはチャン・イーモウの『LOVERS』について。だが、そういう扱いを受けた「ファム・ファタール」なら、確かに他にも見た覚えがある。CGなどの最新の「複製技術」から突然サイレントに遡ってよければ、『肉体と悪魔』のグレタ・ガルボなど、自分に「狂おしい思いを寄せ」ているはずの二人の男の決闘を止めに急ぐ途中、足元の氷が割れて水中に落ち込んでしまう。一方、少年の日に永遠の絆を誓いあった男たちの胸には、現在を押しのけて甦るかつての友情の日々の映像が次々と繰りひろげられ(映画だからそれは当然私たちの目にもそのまま見えて)、それが彼らの周囲をぐるぐる周ってもう完全に二人の世界。ついに彼らは武器を投げ捨てひしと抱き合う。一方、ガルボはあわれ氷の下に消えてしまう……。
鷲谷さんの論考は次のように結ばれている。
しかし、こうした新しいタイプのメインストリームの映画においては、男性同士の絆のみが重要で本質的な人間関係であるとみなし、そうした真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)が公然と息を吹きかえしているようにも思われます。ホモソーシャルな体制は、ホモエロティックなリビドーをアリバイに、女性観客を共犯者として取り込みつつ生き延び、みずからを増幅強化しているのである。などと、ついつい野暮ないちゃもんをつけたくなるのは、もしかしたらわたしがいつもスクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主で、最近はめっきりそんな期待を裏切られ、淋しく映画館をあとにする機会が増えたからかもしれませんが。
私も以前、《ここに出てくるのは男ばかりだけど、男が本当にカッコよくて価値があって男同士の関係こそが最高だなんて、夢にも思ってくれるなよ》とか、 《私自身はネタとわかって書いているわけだけど。「男への愛」からやおい書いてるわけじゃないんだけど。 でも、ベタで教育装置としても機能しうるわけで……。時々心配になる。ミソジニーに加担してしまっているんじゃないかってことに。》とか書いたっけ。
鷲谷さんが上記の論文で「やおいリビドーを誘発するような男二人の結びつき」と呼んでいるものは、ホモソーシャルをホモエロティックに変換した結果見えてくるわけではなく、最初からあるものなのに、ホモフォビアに曇らされたストレートの男の目には映らなくて、最近では、それが可視的になったときは「女のせいにする」。つまり腐女子の妄想に。あまっさえ、それによってゲイ男性の存在を抹消しているとさえ中傷される。
しかし、「岩波講座 文学」に収められた「ゲイ文学」と題する論考(以前、「やおいはヘテロ女の玩具じゃねえ!」というエントリで触れたことがある)で大橋洋一さんが述べているように、この「最初からある」ものこそ、「父権性」であり「ホモソーシャル連続体」であり「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」なのだ。「ホモソーシャル連続体」の偏在性ゆえに、「ストレートフィクションの読み直しは、ゲイ文学研究の周辺的いとなみではなく、中心的なそれかもしれない」。そう言って大橋さんが「読み直す」のは「ストレートフィクション」としてパッシングしてきたテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』だ(註)。ヒロインの誇り高いブランチが、最後には妹の夫である野卑で暴力的なスタンレーにレイプされ精神に異常をきたすという筋書について、
貴族的で高慢な女性の真相にひそむ獣欲をあばきレイプする卑劣な暴行魔のファンタジーと、汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい女性的ゲイ男性の、またそれに加えてヘテロと言う名のゲイ社会に生きる隠れゲイのファンタジーが交錯するのだ
と大橋さんは述べる。
よく見ればわかるように、ここには女性に由来するファンタジーはひとつもない。「貴族的で高慢な女性の真相にひそむ獣欲」というのはそれ自体が男(“卑劣な暴行魔”)の空想であり、現実の女性がそういうものを具えているという裏づけはない。「汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい」と願っているのは、女ではなく、「ゲイ男性」だ。そしてその基盤にあるのは「ホモソーシャル連続体」すなわち「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」であるのだから、ブランチという女が主人公と見えた異性愛ドラマから、実は女はあらかじめ排除されていたのだ。つまり、ブランチと名づけられたこの女性表象は、ゲイの男性作家によって、召喚され、利用され、抹消された。
〈女〉はこれにどのように対抗/応できるか? 三つの可能性を考えてみる。
(1)フェミ的
これをゲイの男性作家による女性表象の横奪であり、女の植民地化であり、女にステレオタイプを押しつけるものであり、女性差別的であると告発すること。いうまでもないがそこに快楽はない。
(2)女性的
《「貴族的で高慢な女性」が自分の「獣欲」をあばき出されるというファンタジー》をマゾヒスティックに楽しむこと。
(3)やおい的
《汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい女性的ゲイ男性のファンタジー》を流用して楽しむこと。
やおいは女性性の忌避ではない。(3)は(2)とは別様に(あるいはそれ以上に)「女性性」を享楽することを可能にする形式だ。
(…)この理論によれば、すべての文学がゲイ文学でもある。ストレートフィクションの読み直しは、ゲイ文学研究の周辺的ないとなみではなく、中心的なそれかもしれない。(大橋、前出)
(必要な変更を加えれば)やおいについても同様のことが言えよう。
註 タイトルは、昔読んだテネシー・ウィリアムズの自伝で、『欲望という名の電車』をルキノ・ヴィスコンティ演出で上演した際の作家と演出家が一緒に写っているスナップにウィリアムズ自身がつけていたキャプション。