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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ
『舞姫』を読み返しての感想を書くだけのつもりが、書きはじめる前には考えていなかった内容と長さになってしまったが、これでようやく六草いちか著『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(単行本二〇一一年、文庫(改訂)版二〇二〇年)の話ができる。まずは、これ自体六草氏の本を読んで気づいた、拙文「『舞姫』ノート(上)」中の事実関係の誤りを一つ、急いで指摘しておきたい。小泉喜美子の「森於菟に」と、その宛先とされた於菟の文章についてである。

 於菟の文章が「『舞姫』にモデルのあったことを世に知らしめた初めとは今回ネット検索していて知ったが、どうやら小金井喜美子にはこれがてんから気に入らなかったらしく」云々と私は書いた。この話は、同書の六十五頁に早速出てきた――「鷗外とその恋人について触れたものは、鷗外の長男森於菟が書いた「時時の父鷗外」が最初という」(出典は山崎国紀『森鷗外〈恨〉に生きる』)。これは昭和八年『中央公論』に掲載されたもので、その十年後の文章で於菟はこう書いている。「叔母は初め私が中央公論に発表した『時時の父鷗外』を読んで、私に寄せた形の『森於菟に』一篇を、昭和十年冬柏第六巻に連載」……ん? 中央公論? 冬柏? 「森於菟に」は『鷗外追想』で読んだばかりだったので、初出は昭和十一年と覚えていた。載ったのも「冬柏」ではない、「文学」だ。しかも於菟の記事について喜美子は「高千穂丸のサロンでお書きになったものを新聞で拝見しました」と書いているのだから、喜美子があげつらっているのは「中央公論」に載った文章ではない……

 読み進んで、九十三ページ先で謎が解けた。六草氏も、抜粋のみを目にしていた「文学」版のつもりで、同題とは知らず、最初、もう一つの方を入手して内容の違いに当惑していたのだ。

「まさか二種類あるとは思いもしなかった」(一五八頁)。全くである。

 エリスのモデルについてはじめて公に筆にしたのが於菟だったというのは間違っていないが、喜美子が「文学」版の「森於菟に」で対象としている文章は於菟が「高千穂丸のサロンで」書いて「」に載ったものであり、「時時の森鷗外」ではなかったのでここに訂正しておく。

✳︎

 さて、喜美子の回想(「文学」掲載版)の抜粋をあらためて読んだ六草氏は、私がそうではないかと思った通り、まさしく、帰国したエリスの消息として鷗外から伝えられたという「帽子会社の意匠部に勤める約束」に注目していた。「(…)実際とは異なる内容を綴ってしまう喜美子だけれども、その中に事実が点在していることも確かだ。(…)帽子会社に勤めることになったと虚偽の公表をすることが、森家に有利に働くとは思えないだけに、あながち嘘でもないかもしれない。『ヴィクトリア座の踊り子にまた戻った』などと書かれていたなら眉唾モノだけれども、帽子会社の意匠部とは、意表を突かれはするものの、手先の器用さに関連する職業だけに真実味を感じる」(一六一頁)。

 このあと紆余曲折の末(これは是非実際に読んで頂きたい)、著者は、喜美子の証言に一致するエリーゼ、すなわち(会社勤めではないが)婦人帽製作者を名乗るエリーゼ・ヴィーゲルトが「少なくとも一八九八年から一九〇四年のあいだベルリンに在住していたこと」を確認している。

 六草氏によれば、一八八八年の九月十二日に横浜に来航したエリーゼ・ヴィーゲルト(この名前が、当時横浜で発行されていた英字新聞「ジャパン・ウィークリー・メイル」掲載の、海外航路の乗船者名簿にあることが一九八一年になって発見されたのは私も知っていたが、六草氏の著書には、これについても、件の名簿の写真を添えて詳細が書かれている)については、於菟の「時時の父鷗外」以降、「森家の人々による回想合戦が繰り広げられ」、「私がざっと数えただけでも」「三年の間に実に七本も立て続けに公表されている」(六十五頁)。具体的には昭和九年(一dw九三四年)から十一年四月まで、書き手は於菟、杏奴、喜美子である。

 なぜこの時期なのか。志げ(一九三六年没)の目にもはや触れる心配がなくなっていたのだろうか。死ぬ前に鷗外が“エリス“からの手紙や写真を焼き捨てさせた話は、杏奴が母の志げ自身から聞いたものでこれは読んだことがあったが、杏奴の著作は他の子供たちのとは違って単行本で通読してはいないので、何かに収録されていたのを見たのだと思う。

 いかに私がこれまでこの件について無知であったかに触れつつ進める次第になるけれど、於菟と杏奴二人の回想について六草氏が言う、「どちらも、鷗外を諦め切れなかった恋人が鷗外の帰国後、後を追って横浜までやって来たというもの。鷗外は恋人に会うこともなく、於菟によると鷗外の弟の篤次郎と親戚の某博士が、於菟によると鷗外の友人が、鷗外に代わって横浜港外に停泊中の船に出向き、恋人を船から降ろすことなく説き伏せて、金を与えて帰らせたという内容である」という程度の認識が、結構長く続いたと思う。於菟の本を読んだのも後年なので、やはりもう覚えていない何かで見たのだろうが、このヴァージョンが本当なら、周囲の男どももたいがいだが、なんといっても日本まで追って来た女を上陸もさせず、親族や友人に対応させて自分では会わなかったという鷗外がひど過ぎると誰もが感じるだろう。『舞姫』の相澤による代行を、何やらなぞったような、とその時は思いもしなかったが、前にも書いたように当時は『舞姫』を書いたあとに起きたこととばかり思いちがいしていたので、「あはれなる狂女」にして(少なくとも作品中では)片付けたはずの相手が、生きた人間として突如海の向うからやって来た、という印象を持っていた(現実にはしかし、何も終っていなかったのである)。

“エリス“が実は船を降りて「築地の精養軒」に滞在し、説得を受け入れて円満に日本を離れたという話をその後知ったが、喜美子が二番目の兄篤次郎について書いた「次ぎの兄」という文章を読んだことはないので、やはり何か他のところで見たものだろう。六草氏の引用を借りれば、喜美子は「兄篤次郎の生涯を振り返ったその文の中に、『あわただしく日を送る中、九月二十四日の早朝に千住からお母あ様がお出になつて、お兄い様があちらで心安くなすった女が追って来て、築地の精養軒にいるというのです。私は目を見張って驚きました』と、いきなり鷗外の恋人来日騒動の顚末を持ち出した。//(前略)八日お帰りの晩に、お兄い様はすぐその話をお父う様になすったそうです」(七十一頁)。鷗外の父も母も当時千住にいたのだが、八日とは九月八日、帰国当日の父への報告ではないか。やはり“エリス“は一方的に追いかけて来たのではない、百歩譲って示し合わせてではないとしても、彼女が今にも横浜に到着することを、鷗外は知っていたのだ。

「目を見張って驚いた」という喜美子は、続けて自分ヴァージョンの『舞姫』を熱心に語りはじめる。太田豊太郎と違って健在だった父に、鷗外がしたという釈明は、「ただ普通の関係の女だけれど、自分はそんな人を扱う事は極不得手なのに、留学生の多い中では、面白ずくに家の生活が豊かなように噂して唆かす者があるので、根が正直の婦人だから真に受けて、『日本に往く』といったそうです。踊もするけど手芸が上手なので、日本で自活して見る気で、『お世話にならなければ好いでしょう』というから、『手先が器用なくらいでどうしてやれるものか』というと、『まあ考えてみましょう』といって別れたのだそうです。」

 この中で注目すべきは(帽子作りとの関係で)「手芸が上手」「手先が器用」くらいだろう。「心安く」する(「森於菟に」にも「エリスという女とは心安くもしたでせう」とあった)も、「普通の関係」も、正式な妻にする必要のない女と性的関係を持つことの婉曲表現なのか。エリスが金目当てだったという印象は、エリスに会った夫の小金井良精が、どんな様子の人かと妻に訊かれて言ったとされる、「何小柄な美しい人だよ。ちっとも悪気の無さそうな。どんなにか富豪の子のように思い詰めているのだから。随分罪なことをする人もあるものだ」という、“ちっとも悪気の無さそうな“台詞で増幅される。しかし、毎日ホテルに通って説得した結果(向うも話相手が欲しくて待っていたと主張される)、ついにエリスが諦めて、帰る日も決まり、「忙しいので二、三日間を置いて、また精養軒へ行って見ましたら、至って機嫌よく、お兄いさん[篤次郎のこと]と一緒に買物したとて、何かこまこました土産物を並べて嬉しそうに見せたそうです。(…)その無邪気な様子を見て来て、 /「エリスは全く善人だね。むしろ足りないぐらいに思われる。どうしてあんな人と馴染になったのだろう。」/「どうせ路頭の花と思ったからでしょう。」という会話に至ると、もはや無邪気さの衣からのぞく悪意が隠しようもなく、「どんな人にせよ遠く来た若い女が、望とちがって帰国するというのはまことに気の毒に思われるのに」と書いたところで、気の毒だなどと毫も思っていないのが見え見えだ(傍目にも気の毒な状況なのに「舷でハンカチイフを振って別れていったエリスの顔に、少しの憂いも見えなかったのは不思議」だったと、「足りない子」扱いを重ねてするためのレトリックである)。

 極め付けは、「エリスはおだやかに帰りました。人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けている、哀れな女の行末をつくづく考えさせられました。」「誰も誰も大切に思っているお兄い様にさしたる障りもなく済んだのは家内中の喜びでした。」こんなことを書いて、未来永劫反感を買わないと信じられたのが不思議である!

 かくして「小柄で美しく善良そうで、本職は踊り子だが手芸も得意な、『舞姫』のヒロインと同じ「エリス」という名の女性は、無理やり日本に押しかけた挙句、喜美子に「路頭の花」との烙印を押された。/こうして、人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けた哀れな女「鷗外の恋人エリス像」が誕生した」(七十五頁)。

「誰も誰も大切に思っているお兄い様にさしたる障りもなく済んだのは家内中の喜びでした」とは、この一年余り後の一八九〇年一月に『舞姫』が発表されて好評を取り、「今までの何か心の底にあつたこだはりがとれて、皆ほんとに喜んだのでした」という、先に引いたこれも喜美子による一行を思い出させる。

 しかし一八八八年の九月十二日に横浜に来て十月十六日に去ったドイツ人女性が、本当に喜美子の描いて見せたような人物であり、鷗外との関係がそれだけのものだったなら、於菟が祖母から言われたような「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった」とか、当時鴎外が苦しんで非常に痩せ、大切な息子に万一のことがあってはと、「祖母は、自ら勧めた結婚ではあったけれど、今度は率先して、離婚を望むようになった」とか(杏奴が母から聞いた話)は、起らなかったろう。しかし喜美子は、甥の書いたものを否定しても、大切な「お兄い様」のイメージを守りたかったようだ。

「ところが喜美子の築き上げた虚構が音を立てて崩れる日がやってきた」(七七頁)。「そのきっかけとなったのは、一九七四年に星新一氏が発表した『祖父・小金井良精の記』(河出書房新社)だ」。

 これは知らなかった。本の存在と星新一の血筋は承知していたのだが。六草氏によれば、一九五六年に出した『鷗外の思ひ出』で、喜美子は「再びエリス来日の顛末を回想している」。そこでは「夫、小金井の日記も引用しつつ」、「恋人は『エリス』という名だったこと、鷗外は会いに行かなかったこと、夫が日参し説得に当たったことを改めて強調していた」という(七八頁)。「ところが星氏によって良精の日記には恋人の名が「エリス」であるとはどこにも書かれていないことや、鷗外は恋人の滞在中、頻繁に会っていたことが露呈した」(!) 夫の日記を参照しながら、それでもそう書いたのなら、これは記憶違いなどではありえず、完全な虚構、いや虚言ではないか。「説得」についても、「小金井が日参したのは最初の三日だけで、その後は四日も間を空け、一度訪ねてまた一日空け、次に訪ねた折には『こと敗る。ただちに帰宅』の事態に陥り、その後は日参どころではなくなっていく様子が明らかになった」(七八頁)。「毎日主人は精養軒に通いました。あちらも話相手が欲しいので待っています」(「次ぎの兄」)とは何だったのか。

 だいたい「エリスが来た」という話で一番引っかかるというか、納得がいかなかったのは、はるばる海を渡って見知らぬ異国へやって来ながら、“エリス“が鷗外に会わずに帰ったというところだった。船から降りてホテルに滞在したというヴァージョンでさえ、「鷗外自身は彼女が帰国を決心するまで会おうともせず、帰国の交渉から旅費の調達や旅券手配に至るまでを喜美子の夫一人に奔走させ、遂に滞在を断念した彼女を喜美子の夫と連れだって横浜の港まで送って行った」(七四頁)とされていたのだ。

 六草氏も言っている。「エリスが帰国を口にするまで鷗外は会いに行かなかったと言うが、そんなことが可能だろうか。鷗外本人は姿を見せることなく、『弟の篤次郎です』、『妹の夫の小金井です』と、入れ代わり立ち代わりやってくる見知らぬ男たちを前に、エリスはそれらの人々が鷗外の家族や親族であると、どのようにして知ったのだろう。『根が正直の婦人』ゆえ、言われるままに真に受けてしまったというのか」(七十七頁)

 その昔、エリスが鷗外を追って来たと聞いて、高校生の私はなぜ驚いたのだろう。シンデレラが身籠った「生ける屍」と化して王子様から千行(ちすぢ)の涙を濺(そゝ)がれるアンハッピーエンドの彼方から、その前のペテルブルクへの手紙に見る、豊太郎への強い愛と強い意志とを併せ持った「現実の女」が現れたのをを感じ取ったからではないか。

 小金井良精はいったい何に敗れたのか。「『こと敗る』のすぐ前には『林太郎氏の手紙を持参す』と書かれている」(七八頁)。六草氏の記述によれば、どうも小金井が小細工を弄して、エリスを怒らせたらしい。「星氏によると、小金井自身も留学中に女性と関係があったが自分で結末をつけて帰国しており、後輩たちの女性問題に口をきくことが何度もあったという。その解決方法は金銭しかないとも言い切っている」(八〇頁)。要するにこれが、女との「普通の関係」だったのだ。

「森於菟に」(「文学」版)の中で喜美子は、「エリスという人」についてこうも言っている。「快よく帰国したのは、主人が一二度行つて話す中(うち)に、家庭の偽らぬ様子がわかつてあきらめたのです。其頃はまだあちらの人達に日本の国情がよくわからず、幾分生活状態を買ひ被つて居たのだと聞きました。そんな例はいくらもあつたさうで」。これは鷗外が父に言ったと喜美子が伝える「家の生活が豊かなように噂して唆かす者がある」や、良精の「どんなにか富豪の子のように思い詰めている」と同様、美しいが少し足りないくらいの女が、 誤解から軽はずみにも財産目当てで押しかけて来たというのと同工だが、それはまた、「解決方法は金銭しかない」(金で解決できる)という男たちの認識の反映でもあろう。もしエリーゼがのちに彼女をモデルに書かれるエリスのように「君は故里(ふるさと)に頼もしき族(やから)なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めでは止まじ」と考える人だったら、金の話ばかりする“やから“どもには怒りと絶望しかなかったろう――「頻繁に会っていた」という、恋人からの言葉がなければ――しかしその恋人は、太田豊太郎のモデルなのである!

 六草氏によれば「『こと敗る』の内実は定かではない。けれども『こと敗る』の事件の後、小金井はこの件を避けるかのような日々を過ごし、一週間ほど経ってから、鷗外の親友、賀古鶴戸の訪問を受け、鷗外のことについて話があったと、再び本件が浮上する」。(!)

「後述の石黒日記には、同日、石黒が賀古に鷗外のことについて相談したとも書かれている。『林太郎氏の手紙』が引き起こした何かのために、代わって賀古が奔走していたのかもしれない」(八〇頁)。まるで『舞姫』をなぞるような“相澤“の影がここにも――いや、むろん話は逆であって、この時期に起ったことがやがて『舞姫』の材料となったのだ。

「エリスを帰国させるために一人奔走したという、あの森家の英雄」(六草氏の皮肉)小金井良精の実態が明らかになった翌年には、鷗外の上司石黒忠悳の日記の抜粋が鷗外全集月報に公開されたそうだ。「この日記によって、鷗外と石黒が帰国すべくベルリンの駅を出発した直後に、鷗外が石黒に恋人の来日予定を報告していること、その後、日本に辿り着くまでの鷗外の挙動に変化が起きていること、抱えた思いを漢詩にしたためていることなどが明らかになった」(八二頁) やはり「詩に詠じ」ても「心地すがすがしく」はならなかったようだ。そして「エリスが来る」ことは、晴天の霹靂ではなく、完全に予定の行動だったのだ。

 それにしても喜美子はなぜそこまで喜美子版『舞姫』のでっち上げに熱心だったのか(“大切な「お兄い様」のイメージ“と書きながらも、一体どんなイメージ?と考えていた)。嘘で固めてまで、何を守りたかったのか。エリスが「路頭の花」(これはstreet girlの意味なのだろう。なお以前の引用時に路頭を路傍と打ち間違えていた)などではなく、鷗外の愛に値する人で、結婚の約束をして日本に来たという話ではなぜ駄目なのか。もともと私は、小金井喜美子の名は、エリス追い返しに女たちが熱心だったと読むまでは、『於母影』の共訳者で鷗外の妹の才媛としてしか知らなかった。「分別くさいオバサン」などとは、間違っても書くはずがなかった。

 鷗外の「次の兄」の下に生まれた妹なら、喜美子は“エリス“来訪時、二十一歳だったエリーゼ・ヴィーゲルト(この年齢は六草氏の調査で確定した)とあまり変らぬ歳だったのではないか。生年を確かめたところ、エリーゼより四つ下である。留学時の女性関係を金で始末して帰国した年長の医師の後妻になったばかりだった。新婚の喜美子の目に、といっても夫に聞いた話から想像するだけで直接見てはいないのだが、恋人を追って他に誰ひとり知る者のない国まで波濤を越えてやって来た「常ならず軽き掌上の舞をもなしえつべき少女」(『舞姫』中の文句だが、小柄な美しい人だと夫に聞いたと回想しながら、『舞姫』にそうあるのも頷けると喜美子は書いている)はどう映ったのだろう。喜美子は、会うことのついになかった、この異国の女に何を感じたのだろう。まずは嫉妬だろうが(自分で選んだ愛する男を持つことと、「お兄い様」を取られることへの)、それだけではあるまい。十七歳の喜美子は本当に、「人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けている、哀れな女の行末をつくづく考え」たのだろうか。その時点で、失うもののあまりの大きさに“森一族“総出でエリーゼを追い返したのはまだ分る。だが、「お兄い様」の死後十年も経って甥に説教するのは何を守ろうとしたものか、やっぱり分らない。

 先に良精がエリスに渡した「林太郎氏の手紙」について、「どうも小金井が小細工を弄してエリスを怒らせたらしい」と委細を省略して書いたが、そこで六草氏が参照していたのは,、林尚孝著『仮面の人・森鷗外―「エリーゼ来日」三日間の謎』であった。実は右のツイートをしたその日に、林氏のサイト《森鷗外と舞姫事件研究》  http://ntk884.blue.coocan.jp/index.html を見つけた。サイト主はすでに二年前、故人となられていたが、そこには多くの論文や講演記録が残されており、小金井日記も石黒日記も十分な翻刻が出ていなかった当時に、原典を精査して幾つもの発見をしていると知った。六草氏は、件の「林太郎氏の手紙」と鷗外作の短歌との関連を主張するくだりを、同書から次のように引用していた。

「林尚孝氏はこの手紙に関して(…)『護謨をもて消したるままの文(ふみ)くるるむくつけ人と返ししてけり』の一首を挙げ、まさしくこの件を詠ったのではないかと指摘する。氏はこの歌を『消しゴムで消した跡のある手紙を寄こした無作法な人にそれを突き返しました』と訳し、消しゴムの跡さえ見える鉛筆の下書きのようなものを鷗外からの手紙として差し出し、エリーゼを怒らせたのではないかと推測している。」

《森鷗外と舞姫事件研究》にも同じ内容が読めた。さらに、これより前、良精が三日連続で築地精養軒に通った(そして続く四日間中断した)その最終日である九月二十七日の小金井日記について、林氏は面白いことを書いている。この日、良精は「午後四時ヨリ集談會出席、医学會ハ欠席ス」と記している(原文ハコノ通リ片仮名デアル)。「研究を重視する小金井が学会出席を取り止めてまで精養軒に赴いたわけで、(…)一方、鴎外は、小金井の医学会出席を予想して、この時間帯にエリーゼを訪ねたのではないか」と林氏は言うのだ(「鴎外の帰国からエリーゼの離日まで─ 「舞姫事件」考(その八)」http://ntk884.blue.coocan.jp/ougai8.html ) 日記は、「五時半過/出テ/築地西洋(ママ)軒ニ到ル、林太郎子既ニ来テ在リ暫時ニシテ去ル」と続く。「良精は、思いがけず鴎外と顔をあわせたため、『暫時ニシテ去』った」と、林氏は推測するのである。「森家代表として交渉に当たっていた小金井は、林太郎がエリーゼと密かに会っていることを知り、彼が交渉の不成立を図っていると考えたものであろう」

 喜美子の書き方では、現地で心安くしただけなのに身の程知らずにも押しかけて来たお騒がせ女にともかく本人を会わせまいとして、義弟(良精が年長なので兄?)や実弟が矢面に立って奮闘したかのようであった。だが、実はこの時、“森一族“は大きな問題を抱えていた。林氏の文章で正確な時期をはじめて知ったが、「九月一八日に、鴎外の祖母於清が西周に対して赤松登志子との婚約につき「承諾」の返事を行い、森家と赤松家の婚約が成立していた事実」があったのだ。

 まさにエリーゼの日本滞在中、来るべき結婚準備は着々と進んでいたのである。

 林氏は、九月二十四日――(「早朝に千住からお母あ様がお出になつて、お兄い様があちらで心安くなすった女が追って来て、築地の精養軒にいるというので」喜美子が目を見張って驚いた日――の小金井日記の、「夕景千住ニ到リ相談時ヲ移シ十二時半帰宅」の一文に注目する(六草氏の本で読んだ、この朝、「同じ頃に弟篤次郎は喜美子の夫小金井を大学に訪ねて、鷗外の恋人の来日を報告した。それを受けて小金井は、その日の夕方に森家に立ち寄り、エリーゼを穏便に国へと追い返す役目を引き受けた」(頁)のもとになる記述が、これとその一つ前の「今朝篤次郎子教室ニ来リ林子事件云々ノ談話アリ」だった)。この時肝心の鷗外はどこにいたのか、私の視野からはすっぽり抜けていたけれど、彼もまたこの家族会議の場にいたようだ。さぞ針の蓆だったに違いない。

「仮に鴎外がこの時点でエリーゼの帰国に同意していたならば、相談は短時間で終わったはずである。十二時半帰宅ということは、議論が紛糾したからに相違ない。「長時間の議論の末、こうした既成事実[婚約成立]をつきつけられた鴎外は、エリーゼとの離別を心ならずも認めさせられたのであろう。帰国交渉を任せておきながら、良精に無断で鴎外がエリーゼと密会している事実を知り、小金井は交渉を中断したと推測される。/小金井の三日間の熱心な精養軒通いと、その後四日間の交渉中断の事実は、鴎外が、森家一族に対し面従腹背の態度を取っていたと考えて、はじめて理解することができる」(林)

 先に「金の話ばかりする“やから“」と書いたけれど、エリーゼが金目当てでないとすれば、鷗外との仲をあきらめさせるには、結婚ができない理由を具体的に提示するしかなかったろう。しかし「頼もしき族(やから)」がどんな理由を出してみせようと、もし鷗外が、それでもエリーゼと結婚するという決断をするなら、全てが崩れ去る。「林太郎氏の手紙」(日記原文では「林子ノ手紙」)は、その可能性を断つべく、十月四日、良精によって築地精養軒へ持ち込まれたのであろう。結果は、「午十二時教室ヲ出テ/築地西洋軒ニ到ル林子ノ手紙ヲ持参ス事敗ル/直ニ帰宅」であった。ちなみに、四日空いた訪問が再開された十月二日には、「『築地西洋軒ニ到ル模様宜シ六時帰宅』の文言からみて、帰国交渉は順調に進んでいたかに見える」と林氏は書いている。

「『舞姫』ノート(上)」で作品の内在的な構造の分析を試みた者としては、ここで小金井が“相澤“の役をやっていることに注目しない訳にはいかない。本来自分で言うべきことを、鷗外は義理の兄弟に――まさしく妹を介したホモソーシャルな絆で結ばれた相手に代行させている。小金井もかつて留学時にしたように、最終的には金で片づく話のはずだった。ところが、この“分身“が三日目に女を訪ねてみると、なんと不在のはずの“兄弟“がそこにいて、彼の努力を台なしにしているではないか。“分身“が、ショックのあまり、四日間姿を見せなかったのも無理はない。本当に、こうして明らかになった現実は、なんと未来の作品に奇妙な仕方で似ていることだろう。

 林尚孝サイト《森鷗外舞姫事件の考察》を少し読みすすみ、ツイートの下書きをしたところで誤って後半分を削除してしまった(それで昨日の分はない)が、気を取り直して本屋に寄り、『現代語訳 舞姫』(井上靖訳)を買った。先日見かけて手に取る気もしなかった本だが、「資料篇」として星新一の「資料・エリス」と未読の喜美子による回想文の一つ「兄の帰朝」、あと前田愛の文章(これは『舞姫のトポグラフィー』とか宣って『外的空間から内的空間に入り込んだ異邦人の豊太郎が、最終的にはエリスを破滅させ、ふたたび外的空間に帰還して行く、ほとんど神話的と呼んでもいい構図である』とか、本ッ当にどうでもいいんだが)が入っている。星は小金井日記原文の片仮名を平仮名に変え句読点を加えいわゆる「読みやすく」しており、(これに限らないが)こういうのを見ていると、林氏が現物を見たいと思った(尋ねあててしまうのがすごいが)のもよく分る。

 例の、峰が喜美子に急を告げるより十日前、良精は千住を訪ねて、林太郎の帰国後はじめて対面している。「いまや良精は、林太郎の義弟という関係になっている。もっとも、良精の方が年長であるが」。前に「義弟」と書いて(兄?)とカッコ書きしたが、そのあと、やはりこれは自分の身内を基準に呼ぶのであろうと思っていたところ、おととい図書館で、あまりゆっくり読めなかった鷗外の短篇集の中で『大発見』というのに、「僕の弟にも一人土器を掘り出して歩くのがある」という一行を発見、註に小金井良精を指すとあった。掘り出していたのはアイヌの骨ばかりじゃなかったのか。(ちなみに良精に喜美子を取り持ったのは賀古である。)この短篇の、鷗外と完全に同一視されうる、『舞姫』とはうってかわって愉快な語り手が、「僕は椋鳥として輸出せられて、伯林の間中に放された。ドロシュケに乗って公使に会いに行く」と言っている、その在ベルリン日本公使は妻がドイツ人だったそうで(貴族の娘とはいえ)、陸軍武官でさえなかったらほんとに国際結婚できたんじゃないか。閑話休題。星は喜美子の「次ぎの兄」から引用しており、私が読んでいなかった、エリーゼ来朝時の次兄の様子を綴った部分も引いていた。

「お兄いさん(篤次郎)は町の案内などします。気軽な人ですから、エリスともすぐ親しくなったのでしょう。私が『どんなようすですか』と、お兄いさんに聞きますと『僕は毎日、語学の勉強をしているよ』と笑って平気なので、人がこんなに心配しているのにと、ほんとににくらしく思いました」と、兄同様、医者でもあり、のちに歌舞伎評論の三木竹二になる、気の毒な最期を『鷗外追想』中の誰かの回想で読んだ記憶が新しい篤次郎の、さもあらんという様子が生きいきと書かれている。先に引いたようにこの人が“エリス“をエスコートして、街で彼女が日本の袋物などをいろいろ買ったというのも頷けて、そこは作り話でなかろうと思わせる。「何かこまこました土産物を並べて嬉しそうに見せ」る「無邪気な様子」を、「エリスは全く善人だね。むしろ足りないぐらいに思われる」と、「足りない子」のレッテル貼りに利用されてしまうのだが(ちなみにエリーゼの妹の孫を探しあてた六草いちか氏は、そういう品物の有無を尋ねているが、彼女が日本へ行ったことがあることは皆知っていたものの、袋物は覚えがないという返事だったそうである)。

 星は祖母の文章をすっかり信用して、「女は少し足りないぐらい気がよく、軽く考えてやって来たとも考えられる」と書いている。この直前の文章は、“エリス“の旅費について、「林太郎からもらった手切金ではなかったろうか。林太郎はこういうことに不器用で、金を渡したはいいが、話をはっきりつけなかった」と臆測しているもので、これが、喜美子が帰国当日の「お兄い様」から「お父う様」への言葉として残している、「ただ普通の関係の女だけれど、自分はそんな人を扱う事は極不得手なのに」云々に基づいているのは明らかだ。それにしても鷗外からの手切金で“エリス“が日本へ来たという珍説ははじめて見た。

 良精がエリーゼを二度目に訪ねた九月二十六日、「三時半、出でて築地西洋軒に至る。いよいよ帰国云々」というのを、星は「それにしても、良精の説得はみごとである。二日目の面会で、彼女を翻意させ、帰国する気にさせてしまっている」と誤読している。これが誤読なのはすでに林氏の文章でも触れられているのを見たたが、その後の経過を知らなくても、二日目でいよいよ本題に入った意味であると普通に読めよう。結婚するつもりで来たのにホテルで待たされたあげくの帰国話に、エリーゼの驚きはいかばかりであったろう。星曰く「ドイツの大学教授風の身ぶりと、ゆっくりした口調とで話すと、相手は従わなければならない気分になってしまうのだろう。そして、解決法は金銭しかない。ほかに方法はないのである」。

 祖父の説得で二日目に早くも金額の折り合いがついたと星は見たようだ。これが全くの空想でしかないことは言うまでもない。実際、「かくして、この件も解決と思われたが、そううまく進展はしなかった」。エリーゼは、「その結末を自分でつけている」良精のドイツでのお相手や、彼が「女性問題の解決に口をきいた」「後輩たち」の場合とは違ったのか。それ以上に、金の話など出る段階では全くなかったという方がありそうだ。交渉二日目、いよいよ帰国云々。翌日は言うまでもなく、良精が大事な医学会を休んでまでエリーゼを訪ねた日である。

「五時半過/出テ/築地西洋軒ニ到ル、林太郎子既ニ来テ在リ暫時ニシテ去ル」(この後半の文意については、星が「良精の日記は、自己の行動をしめくくって終るのが特徴で、この場合、暫時にして帰ったのは良精のほうである」と保証してくれている)。林氏が「良精は、思いがけず鴎外と顔をあわせたため、『暫時ニシテ去』った」と言っている、「暫時ニシテ去ル」である。

 良精の人のよい孫は、「当事者の林太郎は顔を出すべきでないのに、彼女に会いに行っている。なつかしさのあまりの行動なのだろうか。良精のすすめ、あるいは了解の上での面会なのだろうか」と、埒もないことを思いめぐらしている。さすがに、「彼女の滞在中、良精の日記にはないが、ほかにも何回か会っているのではなかろうか」とは思い至っているが。「林子ノ手紙」については、林氏(ちょっとまぎらわしい……林先生と呼ぼうか)の解釈を六草氏が引いている文をすでに引用したが、星はこの手紙のことはこう言っている。「林太郎の手紙を、良精は彼女のところに持参した。なにが書いてあったのだろう。なぜ彼女は感情を害したのだろう」

 確かに、「鴎外が、森家一族に対し面従腹背の態度を取っていたと考え」なければこれは分るまい。とはいえ、太田豊太郎の面従腹背(誰に対して?)ぶりと比較するなら容易に思いあたることだ。「子供が大人の父である」ように、現実が来るべき虚構を反映している。林太郎は「この情縁を断たんと約し」、その種の問題に長けた義弟に交渉を託すことを「承りはべり」と答えた。女のことを彼は父親に告げていた。しかし女がもう来ていて築地精養軒にいることは、二十四日まで一家の誰も知らなかった。彼はその間にも女を度々訪ねていたし、交渉二日目には良精が本郷に留まると踏んで女に会いに行き、やって来た義弟と鉢合わせするという気まずいことになった。

 しかしクロステル街の部屋と違って、築地精養軒に“人事不省の豊太郎“は存在しない。結婚の約束を信じている女と密会する、森林太郎がいるだけだ。「相澤」はその場でエリーゼに本当のことを言うわけにはゆかず、姿を消す。エリーゼは、この時もなお林太郎との未来を信じていたのだろう。私見では良精がエリーゼの部屋に「既ニ来テ在」ル森林太郎を見出すのは、相澤が屋根裏部屋を訪ねるのに匹敵するクライマックスである。相澤はその場で真相を暴露してエリスを「殺す」が、良精は一週間後、「林子ノ手紙」を渡すのである。

「喜美子の築き上げた虚構が音を立てて崩れる日がやってきた」と六草氏が書いているくだりで参照されている二つのテクスト、『祖父・小金井良精の記』の“エリス“に関する部分と、『鷗外の思ひ出』所収の「兄の帰朝」の両方を、『現代語訳 舞姫』(ちくま文庫)という二百ページ程の薄い本で一度に読めたことになる。有難いが、肝心の(なのでしょう?)「現代語訳」、ページを適当に繰っただけで誤訳が三つ四つ、目に飛び込んできた。こりゃなんだ。悪口言いたいけれど横道にそれるから今はやめておく。ただ、「赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣をまとひ、珈琲店(カツフエエ)に坐して客を引く女(をみな)を見ては、行きてこれに就かむ勇気なく、高き帽をいただき、眼鏡に鼻挟ませて、プロシアにては貴族めきたる鼻音にて物言ふレエベマンを見ては、行きてこれと遊ばむ勇気なし」の「レエベマン」に関しては、今回私は註釈なしのテクストを読んでおりドイツ語を知らないので推測するだけだったのが、この「現代語訳」の註釈に助けられた。曰く「男娼(ゲイボーイ)のことであろう」(現代語訳の単独での出版は一九八二年)。「本文中の「レエベマン」には男娼の意味はないが、ここでは、〈娼婦〉の対として用いられているので〈男娼〉とする」。私も全く同じ理屈で、この洒落者は客引きでなく自分が商品だろうかと疑ったものの、確信が持てないでいた。完全に対句だったか。二いろ揃っているならますますロチの『アジヤデ』に似る。

 喜美子の「兄の帰朝」は、初めの方は、今では思いもつかない往時の風俗のこまごました描写が面白く読めるのだが(帰国する林太郎のために(自家用)人力車を新調、「出入の車夫には新しい法被を作つて与へました」、各所へ挨拶回りの後の林太郎の帰宅、近隣の人々に凱旋将軍のように迎えらる、喜美子は「駝鳥の羽を赤と黒に染めたのを」土産に貰った等々)、駝鳥の羽を「覚つかない手附で帽子に綴ぢつけなど」するまではよいが、あとは例によって喜美子むかしばなしである。もうすっかり堂に入った語り口で、「それから主人は、日毎といふやうに精養軒通ひを始めました。非常に忙しい中を繰合せて行くのです。(…)兄は厳しい人目があります。軍服を著て、役所の帰りに女に逢ひには行かれません」。(おいおい。逢ってたんだってば。)「林太郎子既ニ来テ在リ暫時ニシテ去ル」という夫の日記を見ていながら、白々しい。それにこっちは『鷗外追想』で、鷗外が夜店の古本漁りを好み、軍人姿では目立つので役所で着替えて行ったというのを、読んだばかりである。「何しろ日本の事情や森家の様子を、納得の行くやうに、ゆつくり話さねばなりません。かれこれするうちに月も変りました」。月は精養軒の客室で林太郎に出会ってしまい、中断しているうちに変ったのだ。「今度のことは、私としては、兄のためといふばかりでなく、父母のためにも、いひかへれば家の名誉のためにも尽力して貰ひたいと思うのですから、主人の日々の食事にも気を附け、そろそろ寒くなるにつけて、夜は暖かにしてなどと気を配ります」良妻アピール乙!

「思へばエリスも気の毒な人でした。留学生たちが富豪だなどといふのに欺かれて、単身はるばる尋ねて来て、得るところもなくて帰るのは、智慧が足りないといへばそれまでながら、哀れなことと思はれます」。二十世紀も半ばになっても、喜美子はこのように“エリス“を中傷して止まなかったのである。

 また喜美子はこの文中で、「独逸の婦人が兄の後を追つて来て、(…)その名はエリスといふのです」と断言している。六草氏も指摘する通り、これについては孫の星新一により、「良精の日記に、エリスという名は書かれていない」ことが明らかにされた。しかし読みすすむと、日記に記載はなくとも、祖父が祖母に話す際、この婦人を指してエリスと呼んでいたと“星が“考えているらしいと分る。それで祖母が彼女をエリスと書いていると、星は思っていたのだろう。星はエリスという名について、“祖父の日記には載っていない“としか言っていない。だから、「はたしてエリスという名だったかどうかも怪しい。うわさがひろまるのを防ぐため、良精が考え出した仮の名かもしれない」という、奇怪な文句が登場するのだ。『舞姫』より先に良精がエリスという名を「考え出し」、それを鷗外が自分の小説に使ったと言うのだろうか。

 さらに先では、祖父が留学中に知り合った(手切金云々とは別の)頭文字Eの女性について、「あるいは、その名がエリスだったのかもしれない」ともある。星が何を思い違いしているのか知らないが、喜美子の文中の「エリス」なる名は兄の小説中の名を流用したものでしかないと、確認するだけで十分としよう。

「こうして、エリスは名前を、喜美子は信用を失った」(八〇頁)と六草氏は端的に書いている。失われた“エリス“の名は、漸く一九八一年になって、乗船者名簿の記載からエリーゼ・ヴィーゲルトと判明し、そして来日後、実に百二十一年目に、六草氏が、当時ドイツ国内であり現在はポーランド領の「シュチェチン」の教会簿に、その出生記録を発見した。シュチェチンとは「わが東(ひんがし)に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんと」エリスの母が言ったステツチン(ドイツ語ではシュテティーン)だそうだが、六草氏は狙って探し出したのではなく、まずエリーゼの両親のベルリンでの結婚記録を見つけた際、新婦の出身地としてその名を認めていた。最終的に、エリーゼもまたそこの生まれで、家族でベルリンに移ってきたことが、マイクロフィルム化された教会の記録から判明したのだ。

 そういえば「東に」往くにあたって、エリーゼは、ベルリンの住まいをたたんで母を親戚に預けたのだろうか。本当に、鷗外の言葉を信じて、彼の離独に先立ってブレーメンから船出して、日本で生きる決心で横浜に上陸したのであれば。六草氏もそう思い、エリーゼの手がかりが途切れた時は、「実際の母親も本当にシュシェチン付近の田舎に引っ込んでいて、エリーゼもそちらに身を寄せたのかもしれない。エリーゼ探しなど所詮無理な話なのだ……」(一六五頁)と落胆している。しかし六草氏は、「もし、私がエリーゼだったら、私は今、どこにいる?」と問うて次のように考えた。「プロポーズされて日本へ行った。なのに思いもしない事態に陥り帰国することになった。すべてを処分して出てきたのだから、ベルリンに戻っても何もない。親か友人の前に突然姿を現して驚かせ、とりあえずそこに身を寄せた。ハンカチイフを振って別れたのは私がバカだからじゃない。あれは精一杯のプライドだった。金さえ握らせれば片が付くと思っている小金井のような男の前でなど、絶対に涙を見せたくなかった。私は負け犬ではない。毅然と帰ってきたのだ」。そして十年後――「そう、遅くとも十年後には、しっかりとした生活を送っている。きちんと賃貸契約した住まいを構え、家賃もちゃんと支払っている」。果たして、間借り人では載らないベルリンの「住所録」に、「十年後」、「私」の名が現れたのである。

(つづく)

# by kaoruSZ | 2022-12-14 20:26 | 文学 | Comments(0)
アヌンチヤタの仮住いとエリスの屋根裏部屋
 これを書きながら筆者ははじめて鷗外訳の『即興詩人』を読む機会を得、「漸く蔗を嚙む境に入り」(『舞姫』)得たが、とりあえず、主人公のアントニオが、病気で声も美貌も失った歌姫アヌンチヤタを訪ねるくだりと、『うたかたの記』の結末の比較、及び幾つかの気づいたことを記しておきたい。というのも、アヌンチヤタの部屋の壁に掛けられた全盛期の彼女の似姿が、巨勢の絵が完成していたらそうなっていたであろう、その美を「無窮に伝へん」とする作品のパロディであるかのように、『うたかたの記』への最高に意地の悪い、皮肉であるかのように思えたからだ。

 治療費と生活費に蓄えも使い果したアヌンチヤタは、隠し切れない容色の衰えを場末の小劇場の暗さに紛らせ、身ぶりこそ優雅だが力ない声で歌っていた。アヌンチヤタが自分を見捨て、親友を選んだとばかり思っていたアントニオは、劇場の「老僕」に案内させてその住いを尋ねあてるが、まずそのあたりのさまが、太田豊太郎がエリスに導かれてゆく屋根裏部屋にそっくりだ。

「(…)引かるるままに、いぶせき巷(こうじ)を縫ひ行きて、遂にとある敗屋の前に出でし時(…)僕(しもべ)は屋根裏の小き窓に燈(ともしび)の影の微かなるを指ざしたり。僕は先に立ちて暗き梯(はしご)を登りゆくに、我は詞(ことば)のあらでその後(しりへ)に随ひぬ。僕は戸外の鈴索(れいさく)を牽いたり。内より誰(た)ぞやといふは女の声なり。」(『即興詩人』)

「早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯(はしご)あり。これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潜るべき程の戸あり。少女は さびたる針金の先きを捩ぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中に咳枯れ(しはが)れたる老媼(おうな)の声して、「誰(た)ぞ」と問ふ。」(『舞姫』) 

 零落したアヌンチヤタの住む「屋根裏の小き窓」の「燈(ともしび)」が、『舞姫』では、決定的な裏切りをした豊太郎が極寒の雪の中で「幾時かを」過し、半死半生でクロステル街に戻った時、「風に弄ばるるに似て」降りしきる雪片に見え隠れする明りという、エリスの喩になっていたことは言うまでもない。エリーゼ・ヴィーゲルトがどうやって森林太郎と知り合ったかは知る由もないが、『舞姫』に書かれたようにでだけはなかったろうことは誰にも分る。むしろこの、ヴェネチアの「いぶせき巷(こうぢ)」の、アヌンチヤタの屋根裏部屋がベルリンに、「彼(か)の燈火(ともしび)の海を渡り来て」入る、「狭く薄暗き巷(こうぢ)」(『舞姫』)に、移されたのが、ワイゲルト一家の住まう最上階だったのではないか。

 作中でエリスと豊太郎がその前で出会った教会を特定しようとして、「クロステル街」が一箇所だけ「クロステル巷」となっているのに注目し、「鷗外はこの二つの文字を意識的に使い分け、ここでは通りそのものではなく、「周辺」や「エリア」、「界隈」などを指したと理解してよいだろうか」と書いていたのは『鷗外の恋――舞姫エリスの真実』の六草いちか氏であるが、確かに、『即興詩人』でも、アントニオは「市長(ポデスタ)の家を訪(とぶら)ふべかりし」ところを、わけあって「歩を転じてヱネチアの狭(せば)き巷(こうぢ)をさまよひめぐ」るうちに、「迷路(ラビュリントス)の最もふかき処」に小劇場を見出すのである。

エリスはなぜ「十六七なるべし」なのか
 クロステル街の屋根裏部屋の戸口で「『誰(た)ぞ』と問」うたのは言うまでもなくエリスの母であるが、ヴェネチアの芝居小屋の老僕に「誰(た)ぞや」と応えのあって名を聞くや忽ち開いた扉の中は暗黒で、「聖母(マドンナ)を画けりと覚しき小幅の前に捧げし燈明は既に滅(き)えて、燈心の猶燻るさま、一点の血痕の如し」と不吉である。アヌンチヤタはそこからさらに段を登った上にいて、「誰(た)ぞや」と応えた声の主、姿を見せぬ戸をあけた者は、二日後、再訪したアントニオの前に「腰曲りたる老女」(おうな)としてあらわれ、住まいは貸家となっており、「今まで住みし人は」との問いに、急に立ち退いて行方は知らずとけんもほろろにドアを閉めるが、結局のところこの「母」はアヌンチヤタと同一人物なのであろう。なぜなら、「小なること、給仕盆の如」き場末の舞台で、心細い四重奏団に合わせて歌うアヌンチヤタに、アントニオが心の中で与えた詞(ことば)は、「老いたるかな、衰へたるかな、只(た)だこれ屍(かばね)の脂粉を傳(つ)けて行くもののみ」なのだから。しかもこれは、アヌンチヤタがローマやナポリで盛名を馳せた「少女(をとめ)」だった頃から、僅か七八年後のことなのである。

 カルタゴの女王ヂド(ダイドー)に扮した往時のアヌンチヤタを描いた「大画幅」、「皆我が半生の夢想するところに異なら」ぬ絵を前に、「我視線は覚えずすべりて、壁間の画より座上の主人(あるじ)に移りぬ」。悪意が(意識的には)微塵もないだけにいっそう残酷なアントニオのこの身ぶりに、アヌンチヤタは顔を覆う。これは二度目に不死の焔を浴びた時の「洞窟の女王」アッシャではないのか。アッシャからガゴオルに、萎びた猿に変じてしまった女王−母。「母」への恐るべき悪意と復讐がここには潜んでいるのではないか。表面上のプロットには全くあらわれず、美男で、愛される、信心深い、情に篤いアントニオはどこまでも「好い子」であるが、アヌンチヤタの凋落はどう見ても自分を裏切った女−母への罰であろう。

 アヌンチヤタが脇役をつとめる、かの芝居小屋で主役を張るのは、「色好む男の一瞥して心を動す肉(しし)おき豊かに、目なざし燃ゆる如き」女優であるが(アヌンチヤタの方は、アントニオが案内を求めるのが彼女と知った例の老僕に、「あの痩骨(やせぎす)を尋ね給ふか」と驚かれている)、そのかみのアヌンチヤタに比べれば「尋常(よのつね)の容色」に過ぎない。ところで、この娘が「二八(にはち)ばかりの女子(をなご)」とされている。これは十六の謂である(もともと漢字で二八と表記して二十八と読むことはありえない)。六草氏の『鷗外の恋』で、エリスが「十六七なるべし」とあることが、実際のエリーゼが二十か二十一(鷗外のベルリン在住時の出会いだとして)であったことと関連して論じられていたのを思い出した。思うにこれは、『即興詩人』から花の盛りとされる年齢をそのまま写し取ったものであろう。

ベルリンの古寺の向いは“ヱネチアの猶太街“である
 親友で恋敵のベルナルドオがアヌンチヤタを棄てたものとアントニオは信じている。「ベルナルドオなかりせば、彼(かの)人は不幸に陥らで止みしならん」と思っている。「否、彼人のみかは、我も或は生涯の願を遂げ、即興詩人の名を成して、偕老の契りを全うせしならんか。嗚呼、絶ゆる期(ご)なき恨なるかな」――まさかこんなところで相澤謙吉に会おうとは!

「人知らぬ恨」「如何にしてかこの恨みを銷せむ」「若し外の恨みなりせば、詩に詠じ歌に詠める後は心地すがすがしくもなりなむ」(『舞姫』)――しかしこの恨みはあまりに深く心に彫(ゑ)りつけられてそれでも消えないと太田豊太郎は言っていたが、あれは相澤をエリスをめぐる恋敵と見なして、はじめて腑に落ちるものだったのではないか? 『即興詩人』のアントニオとベルナルドオからその設定を引いたのが、太田豊太郎と相澤謙吉だったのではないか? 

 実際の鷗外に、相澤のモデルが恋敵として存在したと言うのではない。しかし文学は文学から作られる。鷗外の恋が『舞姫』の“粉本“であるのと同じくらい、『即興詩人』の二人の友もまた『舞姫』に影を落していよう。そもそも「舞姫」という語からして「歌姫」の横すべりだし、「芝居に出入りして、女優と交わる」という同輩による中傷も、ことさら太田豊太郎が人づきあいが悪かったせいではなく、たんに定型の引用だろう。ネルヴァルの恋の相手も女優だった。

「我脳裡に一点の彼[相澤]を憎むこころ今日までも残れり」と豊太郎は言い、「彼(かの)無情なる友を憎むが為めに」心は麻のように乱れたとアントニオは言う。「思ふにかの無情男子は君が色を愛して、君が心を愛せざりしなり」「縦令(たとひ)色は衰ふとも、才情はむかしのままなるべし。かへすがへすも悪(にく)むべきはベルナルドオが忍びて彼(かの)才彼情を棄てつるなるかな」。分身を恨み憎むことでアントニオは、彼の無情さが自分のものであることを否認していられる。本当にアヌンチヤタに手を差し伸べる気があるのなら、一日早く再訪していればよかったものを。

エリスに注がれる「千行(ちすぢ)の涙」は『即興詩人』では本当の屍に灑がれていた
「エリスが生ける屍(かばね)を抱きて千行(ちすぢ)の涙をそそぎしは幾度ぞ。」これは』舞姫』の終りに近い一行だが、女はなぜ「生ける屍」なのだろう。「余」はなぜ「千行の涙を」流すのだろう。答えは簡単だ。『即興詩人』のこれも終り近く、アヌンチヤタの死後にマリア(別名ララ)という女に求婚しに来たアントニオが、「菫花(すみれ)のかをり高き辺(ほとり)、覆はざる柩の裏(うち)に、堆(うづたか)き花弁の紫に埋もれたる屍」を見つけるからだ。長(たけ)なる黒髪を額にわがねて、これにも一束の菫花を挿(はさ)めり。これ瞑目せるマリアなりき」(『うたかたの記』のマリイが菫売りだったのもここからだ)。そしてこの屍に千行の涙を注ぐからだ。

「われは一声、ララ、など我を棄てて去れると叫び、千行の涙を屍の上に灑(そそ)ぎ」、指環を外して「屍の指に遷(うつ)し、屍の額に接吻」すると、それは本当に“生ける屍“で、「夢とも現とも分かぬ間に、屍の指はしかと我手を握り屍の脣は徐(しづ)かに開きつ。」

 前にも触れたが、鷗外の娘たちへの命名について、これも、鷗外の恋人の名が「エリーゼ・マリー・カロリーネ」であると発見した六草いちか氏が、アヌンチヤタとは聖母の別称即ちマリー(茉莉)で、原綴Annuziataの最初の部分は「アンヌ」(杏奴)と読めると、『即興詩人』からの影響を推測している。これを読んだとき、私はまだこの本を知らなかったが(「タイトルは昔から知っていたのに意味を思ってみたことすらなかった)、今日その最終章を開いて、結婚して三年経ったアントニオとララ(屍ではなかった)の間の娘がアヌンチヤタという名であることに驚いている。鷗外の人生と作品に『即興詩人』はかくも大きな跡を残したのか。

足を縛って放たれた鳥の比喩は『即興詩人』から採られている
「嗚呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし」という太田豊太郎の感慨さえ、すでにアントニオの次のような独白に先取りされていた――

「想ふに小尼公(アベヂツサ)も亦我と同じき籠中の鳥なり。こたび家に帰り給ふは、譬へば先づ糸もてその足を結びおき、暫し籠より出だして●(コウ)翔せしむるが如くなるべし。傷ましきことの極ならずや」。

 これは、アントニオが食客となっているボルゲエゼ家の姫で、「早く神に許婚(いひなづけ)せさせ給ひしより」その名があり、修道院で六年を過し、「受戒に先だてる数月間親々の許に帰り居て、浮世の歓を味ひ盡し、さて生涯の暇乞(いとまごひ)して俗縁を断つ」習いのために戻り来た人で、その間アントニオとひとかたならぬ友情を結び、その死に等しい別れはアントニオを深く悲しませ、ほとんど絶望に落し込む。

『即興詩人』のそこここに残る読み落しを拾っていて、次の断章が私を微笑ませた――

「想ふに彼(かの)批評家といふものは、おのれ常に模擬の筆を用ゐるより、人の藝術も亦(また)然(しか)ならむと思へるにやあらむ。」

即興詩人として初舞台を踏んだアントニオが、「ナポリ日報」の批評欄に、空想豊かで章句が美しいとほめた上で、模倣者と断じられての感想である。

「恐らくは是れパンジエツチイの流れを酌めるものにて、模倣のやや甚しきを嫌ふと断ぜり。パンジエツチイといふ人はわれ夢にだに見しことあらず。われは唯(た)だ我(わが)天賦の情に本(もと)づきて歌ひしなり。」

 アンデルセンといふ人はわれ夢にだに見しことあらずとは鷗外まさか云ふまじく、純粋なオリジナリテなぞといふものはあらじ、天賦の情何物ぞ、全ては引用の織物なり、アンテルテクスチユアリテこそめでたけれと猿(エテ)公ですら吼ゆる末の世なれば、われの比較対照にも大人(うし)は笑みもて応へ給はるなるべし。

エリスがその前で泣いていた古寺の向かいは“ヱネチアの猶太街“である
 もう一点だけ指摘して『うたかたの記』に戻るつもりが、また一つ新たに見つけてしまった。街で猶太人の翁が因縁をつけられているのを助けてやったベルナルドオ(法皇の禁軍(このゑ)の少年士官になっていて滅茶苦茶カッコイイ)は、後日、馬で通りかかって猶太街(ゲツトオ)に入ってゆく(「黒目がちなる猶太の少女(をとめ)」が大勢いるのを見ての「すきごころ」からとされる)。その描写――「その家々軒を連ねて高く聳え(…)簷(のき)場には古衣(ふるぎぬ)、雨傘その外骨董どもを、懸けも陳べもしたり」。これには既視感があった。

「余は彼の燈火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷(こうぢ)に入り、楼上の木欄(おばしま)に干したる敷布、襦袢(はだぎ)などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太教徒の翁が戸前に佇みたる居酒屋(…)貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりてしばし佇みしこと幾度なるを知らず。」

 言わずと知れた太田豊太郎がエリスに出会う夕べ、古寺(教会)の門扉に倚って泣く少女を見出すに先立っての、「クロステル巷の古寺」の説明である。スポットライトが当るのは古寺であり、通りの向いの洗濯物や、猶太教徒の翁や、居酒屋、貸家ではない。そもそもこの時、居酒屋の前に「猶太教徒の翁」は立っていたのだろうか。「幾度なるを知らず」だから、何度も繰り返された中には立っていたこともあるという意味だろう。

 もちろんこの時立っていたとしても構わないし、敷布、襦袢が、暗くなってもまだ取入れられずはためいていても構わない。そんなことは問題ではなかったのだ。注目すべきは、この時豊太郎が背にしているのが、ベルリンのクロステル巷(こうぢ)の家並みではなく、軒端にものを懸け陳(なら)べた、別の都市、別の時代の、猶太街(ゲツトオ)の記憶と思われることだ。その記憶に合図を送るために、そこが『即興詩人』のローマの猶太街に等しいことのしるしとして、「髭長き猶太教徒の翁」は、いぶせき巷の居酒屋の前に立っていたのに違いない。

『舞姫』とユダヤ人の関係、いわゆる「エリス ユダヤ人説」については、六草いちか氏が著書で一項を割いているのでその存在を知った(氏は実在のエリーゼについて実証的にその可能性を否定している)。「猶太教徒の翁」を立たせたばかりに、そこはゲットーだったに違いないとか(六草氏によればベルリンにゲットーは存在したことがないそうである)、ユダヤ人なら疎外された者同士として、外国人の豊太郎(あるいは林太郎)と親しくなりやすいとか。(後者は別の処で読んだのだが、書かれていないものを読み取る能力のある人々には本当に驚く。) だから、アヌンチヤタを見たベルナルドオが、最初、かつて猶太街で出会った、彼を恩人と崇める翁の娘かと思われる美しい「猶太をとめ」がアヌンチヤタの前身ではないかと疑うと知って、妙な偶然だと思ったが、何のことはない、そっちが先だったのだ。「頬髭長き猶太教徒の翁」が指し示すのはヒロインの出自ではなく、鷗外が参照した『即興詩人』すなわち作品の出自そのものなのだ。

母の恐しい口
「もう一点だけ指摘し」ようと思ったことを――一点では済まなくなりそうだが――述べておく。アヌンチヤタの仮住いの「開いた扉の中は暗黒で、『聖母(マドンナ)を画けりと覚しき小幅の前に捧げし燈明は既に滅(き)えて、燈心の猶燻るさま、一点の血痕の如し』と不吉である」と先に書いたが、果してアヌンチヤタの最期は、次のようにアントニオに報告される――「爾時(そのとき)アヌンチヤタが脣は血に染まり居たり。死は遽(にはか)に襲ひ至りて、アヌンチヤタはわが面をまもりつつこときれ侍り」。これは直ちに、幼いアントニオが、母と「花祭」の行列を見物する最中、暴走した馬車に母が轢き殺される痛ましい事件を私たちに思い起させるものだ――「馬は車を引きたる儘にて、仆れたる母上の上を過ぎ、轍は胸を砕きしなり。母上の口よりは血流れたり。母上は早や事きれ給へり

“母“の死は、このあと彼を引き取ってくれた牧者夫婦の片割の媼の死としても、後年アントニオを嘆かせるが、それに踵を接するように置かれた、山賊の晒し首の挿話に読者はぎょっとさせられよう。なぜなら、「鉄籠中に置」かれた三つの首級のうち中央にあるのは「分明に老女(おうな)の首」であり、しかもその、「褐いろの顔、半ば開けるまぶた、格子の外に洩れ出でて風に乱るる銀髪」はアントニオの知るもので、「この藍色なる脣は、曾て我額に触れしことあり。この物言はざる口は、曾て我に未来の運命を語りしことあり」というまでに縁のあるフルヰアの首だったからだ。

 文庫版解説は、『即興詩人』中の「でき過ぎた話、うま過ぎるめぐり合せ」の例の一つとして、「アントニオが賊に捕えられてその山寨(さんさい)に引き立てられる。しかしそこで賊どもが頭(かしら)と仰ぐふしぎな老婆が、実はかつてネミの河畔で幼いアントニオの幸運を予言したフルヰアであり、そのおかげでかれは無事ナポリへ逃れることができた」ことを挙げているが、それは要するに御都合主義とて了解可能なもので、一方、「天の下の奇しき事どもを多く知れるものにて、世には法皇の府の僧官達も及ばざること遠しとぞいふ」者を「彼(かの)賊の同類なりとし、ことし数人の賊と共に彼(かの)老女をさへ刎ねて、ネピの石垣の上に梟けたり」という方が理不尽で恐しい。この女はやはりガゴオルの仲間で、その扱いは、表面へ洩れ出ることを完璧に阻止された母への憎しみの代行とおぼしい。

 アントニオが母を憎む理由は、『即興詩人』の表面上のプロットにはない。しかし、アントニオがアヌンチヤタを憎む理由ならある。自分を袖にしてベルナルドオを選んだことだ。だが、ヴェネチアでの再会時、このことは、容色衰えた彼女を棄てたことに対する、ベルナルドオへの強い恨みや非難の気持ちにすりかえられて、アントニオの意識には上らない。その代りとして、故郷に帰ると“母“が死んでいたり、果ては晒し首にまでなっているのだ。思えば太田豊太郎の母は、何と静かに、一言も喋らず(「余は母の書中の言をここに反覆するに耐へず」)、口を塞がれたまま死んで行ったことだろう。あれが諫言だったなどということは日付を別にしてもありえない。

 アントニオが幼年時代をおくったカムパニアの野の素朴な媼ドメニカもまた、養い子のアントニオの名だけを口にして死んでいった。フルヰアの黒ずんだ口はもはや何も語らない。ただアヌンチヤタの死後届く手紙だけが、饒舌かつ哀切で、しかも彼女が本当はアントニオだけを愛していたと――「我恋人は、昔世の人にもてはやされし日より、今またく世の人に棄て果てられたる日まで、君より外には絶(たえ)て無かりしを、聖母(マドンナ)は、現世にて君と我の一つにならんを許し給はで、二人を遠ざけ給ひしにて候」――告げていた。それゆえベルナルドオの求愛もしりぞけてアントニオのあとを追ったが、メロドラマ的なすれ違いから互いの心を誤解したまま月日を重ね、そのあいだにアヌンチヤタは病に倒れたと。そして再会ののち、アントニオに真実を告げる手紙を、自分の死後に読まれるべきものとしてアヌンチヤタは書いていた。こうして“母“への憎しみは二重に否認されたのだ。

 先に引いた、再び旅に出たはずのアントニオが急遽ヴェネチアに戻り、市長の家の墓所を訪れ、棺の中の菫の花に埋もれたマリアに「千行(ちすぢ)の涙」をそそぐくだりで、屍(かばね)の額に接吻すると、「屍の指はしかと我手を握り屍の唇は徐(しづ)かに開きつ」とは、この“母たち“の死の行き着いた最終形態であり、生と死の境界の喪失と、屍姦を匂わせる恐しいものであった。しかしアントニオは失神し、その頭の中では「只(た)だ奇しく妙(たへ)なる音楽の響きが流れる」。

「数日の後」、この“母の恐しい口“の悪夢がどう浄化されたかを、アントニオ自身の口から聞こう。「我はマリアと柑子(かうじ)の花香(かぐは)しき出窓の前に対座して、この可憐なる少女(をとめ)の清浄(しゃうじゃう)なる口の、その清浄なる情を語るを聞きつ。」

 確かにそれは悪夢に違いない、死んだはずの女が蘇ってくるというのは。しかしそもそもマリアは死んでいなかったのだ。それなのに、なぜ、アントニオは、そう信じ込んでしまったのだろう。それに……そもそも夢はどこからはじまっていたのか? 

菫売りマリイの出典(スルス)は菫を髪に挿した盲目の少女である
 市長一家やヴェネチアで得た友ポツジオに別れを告げたアントニオは、内心もう戻らぬつもりで旅を再開し、ミラノでポツジオからの手紙を受け取る。そこにはマリアが「病に伏し」「一時は性命をさへ危くすべく思はれ」たとあった。しかしアントニオはそれに驚いて、また、マリアの身を気づかってヴェネチアに戻るわけではない――そんな単純な話ではないのだ。

「でき過ぎた話、うま過ぎるめぐり合せ」が目立つと書いた解説者は、それ以外にも、登場人物に「個性的な厚み、複雑さがない」とか、「思想的内容にもこれといって深いものは見られない」と失笑ものの難じ方をして、「近代小説としてはそれほど読みごたえのあるものとは言えそうにない。この作品が(…)ロマン主義の時代には歓迎され、国際的に読者を得ながら、時代の推移とともに色あせて忘れられたのは無理からぬことと思われる。結局のところ、イタリアを舞台とした美男と美女の悲恋の物語、しかもハピーエンドの甘いメロドラマ、センチメンタルな大衆小説、そういうニ、三流の作品の領域を出ないであろう」というのだが私は全くそうは思わなかった。もちろん、この解説は、西洋ではアンデルセンの作品といってもすっかり忘れられているのに、日本では鷗外の名訳のおかげでという話にもってゆく枕としてこう言っているのだが、文末の日付を見ると一九六九年で、当時でさえ「いまなおつねに読者が絶えない」とはまいらなかったであろうし、私もまた、そうした過去の読者と同じく楽しめるところもあれば彼らの夢にだに思はざりしこともありけむと思いつつ、読むほどにアンデルセンの凄さを感じる。もちろんそれが鷗外の筆にどれだけ、どのように負っているのかは、少なくとも大畑末吉訳の『即興詩人』を読まないことには話にならないだろうが、目下私がやっているのはあくまで鷗外自身の作品との関連の見定めであるから構うまい。ともあれ、マリアへの愛に気づいてヴェネチアへ帰るなどという単純な話ではない(一体この解説者のような人はそれがどういう理由からだと思っていたのか訊いてみたい)。

 ポツジオの便りを読んだ時、アントニオは、彼の手紙の「末文には、例の戯言(ざれごと)多く物して」あるのにかこつけ、冗談の多いポツジヨの「滑稽」を天性ではなく仮面と人が思うように、自分が市長の家の二人の女――妹ロオザと彼女が母代りである姪のマリア(市長とロオザの亡弟の娘)――を同じように敬しているのを見ながら、世間は「謬(あやま)りて我をもてマリアに恋するものとしたり」と、自分がマリアに気がないことを強調している。

 ヴェネチア一の美女と、即興詩人としての成功で今やヴェネチア一の才子と呼ばれるアントニオとの仲は評判で、死に臨んだアヌンチヤタもそれを信じて「尼寺の病室」に密かにマリアを呼び寄せてアントニオへの手紙を託し、彼とその「いいなづけの妻」マリアの幸福だけを聖母に祈って、マリアの目前で息を引き取る。ただアントニオだけが噂を無視する。いや、マリアの財産目当てと言われるのを嫌い、市長の家を避けて街の迷宮へ入り込んだ宵に、アヌンチヤタに再会しもした。しかし自分のマリアへの好意は、かつてベスツムの遺跡で往き合った乞児(かたゐ)の群の中にいたウェヌス像の如き盲目の少女――「十二歳を踰えじと見ゆる」、髪に「一束の菫花(すみれ)を挿せる」「一種言ふべからざる憂愁の色を帯びたる如き」容(かたち)の――に似ているという理由からだと思っている。これがまさに、巨勢がミュンヘンのカフェで出会った菫花売りマリイの出典(スルス)であることは言うまでもあるまい。巨勢はマルク貨の数枚を与えたがアントニオは少女に盾銀(たてぎん)一つを与え、またその場で(絵を描くようには時間を取らないので)、同行者に風景を即興詩にと求められた際、その美を目にすること能わぬ少女を詩に歌い込んでいる。

養女たち
 相手が子供の時に出会い、成人後に再会するという、『うたかたの記』のモチーフを、鷗外は明らかに『即興詩人』から採っていよう。それとは別に、エリスが実在のエリーゼより若い「十六七」に設定されている理由を、『即興詩人』からの反映であろうと先に書いたが、盲目の少女ララが「十二歳を踰えじと見ゆる」と言われているのを見ると、エリスを指して「十六七なるべし」とあるのが草稿では「まだ二十にはならざるべし」だったという、六草氏の本で読んだ話を思い出す。『舞姫』には十二歳を越えないエリスに出会う設定はないので、「踰えじと見ゆる」という語句を「まだ……ならざるべし」と、最初鷗外は自動的に変換したのではないか。

『舞姫』と『うたかたの記』で、ともに男主人公が最初の出会いの時、ヒロインに金銭を与えるのも『即興詩人』に先例があり、しかも乞児(かたゐ)の子相手なのだからその行為には無理がない。「十二歳を踰えじと見ゆる、すぐれて麗しき娘」は、「メヂチ家の愛憐神女の像は、かかる面影あるにやあらずや」とアントニオによって言われる、拝跪したくなるほどの神々しさだった(アンデルセンは実際ベスツムでこういう少女を見たそうで、「此花売の娘の姿を無窮に伝へむ」という巨勢の企図は、この小説自体によって、すでに試みられていたわけである)。これはウフィツィ美術館の「メヂチのヱヌスの石像」のことで、その素晴しさをアントニオは、フィレンツェを訪れたことのあるアヌンチヤタから聞いていたのである。『うたかたの記』のマリイは、女神バワリア以外に何に喩えられていたか。あらためて確かめると、「年は十七八と見ゆる顔(かん)ばせ、ヱヌスの古彫像を欺けり」であった。

 ララ(マリア)も、マリイも、そして実はアヌンチヤタも養女である。だからこそ、ローマの謝肉祭(カルネワレ)でアントニオとともに初めてオペラの舞台のアヌンチヤタを見て、それが猶太人の翁の家で美しい声で礼を述べた少女だと知った時、ベルナルドオはその来歴を不思議がる――「アントニオよ。あれこそ例の少女(をとめ)なれ、飛び去りたる例の鳥なれ。その姿をば忘るべくもあらず、その声さへ昔のままなり。(…)されど彼(かの)少女いかにしてこの歌女(うため)とはなりし、不思議なり。有りしとも思はれぬことなり」

 これは再び、ジェラール・ド・ネルヴァルを、今度は『シルヴィ』の語り手が、パリで女優オーレリーに恋しながら、故郷で昔、修道院の少女たちが野外で演じる聖劇で見た、アドリエンヌの後身ではないかと疑うのを思い出させる。そのことは最後に否定されて、彼のオーレリーへの恋は思い込みに基づく幻に過ぎなかったことが判明し、これが恋でなかったとしたら一体恋とは何なのかと主人公は自問する。夢が、幻が、願望が現実となってゆく『即興詩人』の世界ではしかしそういうふうにはならない。アヌンチヤタは間違いなくかの猶太をとめであり、しかも同時に、アントニオが九つの折、教会での「童男童女の説教」という催しに出た時の、彼自身の出来も素晴しかったものの、「声めでたき女児ありて」「人に讃めらるることわが右に出でき」と語られる女の子だったのだ。

 アヌンチヤタの経歴は込み入っているが、ともかくもとは西班牙(スパニア)の生れで、幼時にローマに出て来るが両親が亡くなり、「猶太の翁ハノホは西班牙に旅せしころ、彼(かの)親達を識りつれば、孤児を引き取りて養へりし」……それで猶太街(ゲットー)にいたというわけではなく、まだまだ続くのだが、ひとまずここで切ろう。というのは、先日来、全く関係ないところで、これと似たような話があるのが気にかかっていたからだ。

 主人公は両親がナポリに滞在中に生れ、五歳の時、貧しい農家で、子供達の中に際立って美しい少女がいるのを見る。母は将来息子の妻にするつもりで、その子を引き取り、養女にした。実は母もまた、事業に失敗した父を亡くし、故郷のジュネーヴから駆けつけた父の友人に保護されて、のちにその妻となっていた。夫の名はフランケンシュタイン、息子はヴィクターである。

フランケンシュタインの影に
 貧者の群の中に美しい娘がいるのを見て養女にするというのが、どれほど類例のあるものなのかは知らない。実際には引き取られた少女はイタリア貴族の娘なのだから、これは一種の貴種流離譚であろうし、被差別者のユダヤ人に混じってキリスト教徒の少女がゲットーにいたのもそうで、宮廷画家の父を持つマリイが貧しい漁師ハンスル夫婦の娘になっていたのもこの末流であった。しかし、ヴィクター・フランケンシュタインの婚約者エリザベスがなぜそのような過去を持たなければならなかったのか、また、その母に遡って、父の破産と死によって孤児/乞食となるところを父の友人に引き取られるという来歴が設定されているのかは、判然としない。

「私は健康そのもののエリザベスがインゴルシュタットの通りを歩いているのが見える気がした。喜びと驚きに私は彼女を抱きしめたが、はじめてのキスを唇に捺すと、唇は青黒い死の色に染まった。顔立ちも変ってしまったようで、私は亡き母の遺骸を腕に抱いているのだと思った。その体は屍衣に包まれ、布地の襞の間を蛆虫が這っているのが見えた。」

 これは「怪物」を完成させたヴィクターがあまりの醜悪さに実験室を飛び出し、自分の寝室で疲労と恐怖と嫌悪のうちに眠りに落ちて見る夢である。インゴルシュタットはヴィクターが研究を続けていたバイエルンの都市であり、エリザベスがいるはずもなかった。夢にうなされて目覚めると、そこには怪物が立っている。

 この夢の内実は、怪物の目撃した「現光景」とも言うべきものだろう。ヴィクターのエリザベスとの性的関係のはじまりであるキスは、たちまち相手を死体に変えてしまう。死せる母との近親姦であり、通常の誕生と違って「怪物」が死体から作られたことをも意味していよう。気がつくと怪物が彼のおぞましい夢を、じっと立ってそこで見ていた。ヴィクターの主観では、自分とは別の意識を持つ分身に何もかも見透かされたようなものだ。

 ヴィクターは部屋を飛び出し、夜が明けてから町に出て、故郷にいるはずの親友クラヴァルにばったり出会う。彼は友と同じ大学に入るためにやって来たのであり、インゴルシュタットで出会うとしたら、エリザベスよりはるかにありそうな相手だったわけだ。彼を連れて部屋に戻ったヴィクターはそのまま気を失い、熱病のため数ヶ月間意識不明で、クラヴァルに看病される。

 ようやく恢復に向かったヴィクターに、一言でいいから自筆の返事をほしいと書き送られたエリザベスの手紙を見ると、実際、クラヴァルこそが、エリザベスの代りをつとめていることがわかる。健康を取り戻したヴィクターは、クラヴァルとともに大学の講義に出席するようになり、帰郷とエリザベスとの結婚とは延期される。

 倒れて一定期間熱病で意識不明という類例もどれだけ好まれているのか知らないが、アントニオは何度かそうなっており、そのうち二つは、どちらも夢、あるいは夢かと思われる状況で、ララ(マリア)に出会ったあとで起こっている。一つは言うまでもなく、柩の中に菫花に埋もれたマリアの屍(かばね)を見出したアントニオが、「千行(ちすぢ)の涙を屍の上に灑ぎ、又声ふりしぼりて、逝け、わが心の妻よ、われは誓ひて復(また)この世の女子(によし)を娶らじ」と叫ぶ時だ。指環を相手の指に遷(かへ)してその額に接吻すると、「爾時(そのとき)我(わが)血は氷の如く冷えて、五体戦(ふる)ひをののき、夢とも現とも分かぬ間(ま)に、屍の指はしかと我手を握り屍の唇は徐(しづ)かに開きつ」という本来ならゴシック小説に相応しいくだりであり、ここでアントニオは「われは毛髪倒(さかしま)に竪(た)ちて、卓(つくゑ)と柩との皆独楽の如く旋転するを覚え、身辺忽ち常闇とな」るのである。

“リアリズム小説“である『舞姫』ではこんな大袈裟なことは全く抜きに、豊太郎は床に倒れて数週間意識不明で、途中まで懇ろにエリスの世話を受けており、その間に何が起こったかは誰でも知っている。故郷の母は手紙二通で片付けてしまったから夢にせよ現にせよもはや口出しも干渉も化けて出ることもありえないが、豊太郎が正気づいた時に見出し、千行の涙を注ぐものが、夢――悪夢であれ美しい夢であれ――の中の「屍」ではなく現実の「生ける屍」であり、その中には生きた胎児が入っているというのは、源泉のゴシック・ホラー味(み)をいささかなりともとどめているかと思われる。

屍衣と晴衣
『舞姫』も『うたかたの記』も『即興詩人』から出てきたのだ――(『文づかひ』も無論そうである。あれは尼寺に入るフラミニア姫だ。イイダ姫は、心通わぬ相手との、親の決めた、家のための結婚を忌む鷗外であるのと同じくらい、小尼公(アベヂッサ)フラミニア姫だ)。

 私は『文づかひ』をあらためて読んで、イイダ姫が俗世を離れて望んで入った宮廷女官の境涯(大奥のようなもの)を自ら「塚穴」と言っているのに驚いたが、フラミニア姫に対してはアントニオが、「いかなれば君は自ら塚穴を穿ちて自ら下り入らむとはし給ふぞ」と言って(そして姫の不興を買って)いる。フラミニア姫がイイダ姫と違うのは、彼女が「かのやうに」振舞っているのではなく、本当に耶蘇の教義に喜ばしくがんじがらめにされて、この世は塵で死後に死者と再会できる(「これより先の我生涯は、おん身の為めには死せると同じ。おん身は能く我を忘れずして、死後相見んことを期(ご)し給はんや」)と本気で思っているところだ。(無論イイダ姫もカトリックではないとはいえ、そうだろうが、だからこそ鷗外は彼女が入るのを尼寺にはしなかった。) フラミニア姫の髪を断ち、「幾襲(いくかさね)の美しき衣(きぬ)」を脱がせ、柩の上に横たえての仮の葬りがはじまる。

「忽ち鐘の音聞えて、僧等の口は一斉に挽歌を唱へ出(いだ)しつ。かくて姫はこの世を隠れまししなり。爾時(そのとき)尼院に連(つらな)れる廓道の前なる黒漆の格子挙りて、式の白衣を着たる一群(ひとむら)の尼現れ、高く天使の歌を歌ふ。僧官は姫の手を取りて扶け起しつ。姫は早や天に許嫁(いいなづけ)し給ひて御名さへエリザベツタと改まりぬ。我は姫の群衆の上に投じ給ふ最後の一瞥を望み見たり。一人の故参の尼は姫の手を引きて入りぬ。黒漆の格子は下りて、姫の姿、姫の裳裾は見えずなりぬ。」

 この最後の情景を念頭において、鷗外は『文づかひ』の次の幕切れを書いたのであろうと私は疑わない。

「イイダ姫あわただしく坐を起ちて、こなたへ差しのばしたる右手(めて)の指に、わが唇触るるとき、隅の観兵の間(ま)に設けたる夕餉に急ぐまらうど、群立ちてここを過ぎぬ。姫の姿はその間にまじり、次第に遠ざかりゆきて、をりをり人の肩のすきまに見ゆる、けふの晴衣(はれぎ)の水いろのみぞ名残なりける。」

 この「人の肩のすきまに」見え隠れする名残の水いろが印象的だと思ったが、『即興詩人』を読むうち、他の女たちにまじって尼寺の格子の向うに消える「姫の裳裾」こそがオリジナルであったと気づいた。生きていた(俗界にいる)ときから黒づくめの装いに身を包んでいたイイダ姫にはこの水いろが晴衣であったのもゆかしく、小尼公の別れの舞踏会のくだりでアントニオが、「われは姫の最後に色ある衣(きぬ)を着け給ふを見き」と言っていたのも思い出される。だが彼女にはフラミニア姫のように、彼岸でキリストの花嫁になるという(非キリスト教者から見れば)大それた、気違いじみた「希望」はないので、イイダ姫はただ虚無であり、虚無の塚穴に生きながら入ってゆくのであり、それは見送る小林少尉の語られざる虚無(その内実は『舞姫』と『うたかたの記』にある程度表出された)の反映である。さすが名人上手は一目で判るようなパクりはしない。見事に組み入れ、組み換え、文章の面目を一新する。ただ、目利きに見抜かれたいとは思っていたことだろう。未来の批評家のために、意識的にであれ無意識にであれ、証拠は残すものだろう。




# by kaoruSZ | 2022-12-09 18:58 | 文学 | Comments(0)
スタルンベルヒまで
『舞姫』の気象、天候の描写は「明治二十一年の冬」にかぎって――というのは、それ以前には記述がないので――極めて印象的であり、水際立っているが、『うたかたの記』はそれ以上である。巨勢(こせ)が美術学校に借りたアトリエをマリイが訪ねて、自らの来歴を物語る時の空模様は、「けさより曇りたる空は、雨になりて、をりをり窓を打つ雫、はらはらと音す」というふうで、話が終った時には「定(さだめ)なき空に雨歇(や)みて、学校の庭の木立のゆるげるのみ曇りし窓の硝子をとほして見ゆ」となっており、「この部屋の暑さよ」「雨も晴れたり」と――もちろんこれはこの先で本降りになることの前ぶれ以外のものではない――マリイは巨勢を促して湖へ連れ出す。

 シュタルンベルク行き自体は、完全に、マリイが十三のとき、「新しき衣(きぬ)」着せられて、「午すぎし頃、四十ばかりなる見知らぬ人来て、スタルンベルヒの湖水へ往かむと」言った日のヴァリアントであり、その果てに何が待つかは既定の事実であろう。道中の様子がこまごまと記されるのも、過去と共通する。

 一度目のときは、「連れなる男は、途(みち)にてやさしくのみ扱ひて、かしこにては『バワリア』といふ座敷船(ザロンダムフエル)に乗り、食堂にゆきて物食はせつ」、「ゼエスハウプトにて船はてしとき、その人はまた小舟を借り、これに乗りて遊ばむといふ」という行程であるが、巨勢との道行は、まず「門前にて馬車雇ひて走らするに、程なく停車場に来ぬ」。ここよりは汽車で、「走ること一時間、スタルンベルヒに着きしは夕の五時なり」。
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 この間、停車場でも、車中でも、号外――「国王ベルヒの城に遷(うつ)りて、容体穏(おだやか)なれば、侍医グッデンも護衛を弛めさせきとなり」――に、人の口に、「王の噂いと喧(かまびす)し」。「ベルヒに遷さるる途中、ゼエスハウプトにて水求めて飲みたまひしが、近きわたりなる漁師等を見て、やさしく頷きなどしたまひぬ」と、早くも、「漁師」といい、「ゼエスハウプト」といい、マリイに縁ある名がちらつくのさえ不吉である。ホテルの給仕を呼んでマリイは、座敷船はまだ出るだろうかと訊く。「僕(しもべ)は空行く雲を指さして、この覚束(おぼつか)なきそらあひなれば、もはや出でざるべしといふ。さらば車にてレオニに行かばやとて言付けぬ。」

閉じ込められて
 車は再び馬車である。「停車場の傍(かたへ)より、東の岸を奔らす。」ベルヒ(ベルク)もレオニも、ともに湖の東岸に位置するのだ。馬車を雨が追ってくる、この描写が素晴しい。

「この時アルペンおろしさと吹来て、湖水のかなたに霧立ちこめ、今出でし辺をふりかへり見るに、次第々々に鼠色になりて、家の棟、木のいただきのみ一きは黒く見えたり」。このあと、「林を出でて、阪路を下るほどに、風村雲(むらくも)を払ひさりて、雨も亦歇(や)みぬ。湖の上なる霧は、重ねたる布を一重、二重と剝ぐ如く、束の間に晴れて、西岸なる人家も、また手にとるように見ゆ」となるまでが、文庫本二ページほどの間に凝縮された濃厚な道行である。

 天候の急変に「母衣(ほろ)掩ふべきか」と問う御者に「否」と応えたマリイは、雨を喜び、「むかし我命喪はむとせしも此湖の中なり。我命拾ひしもまた此湖の中なり。さればいかでかとおもふおん身に、真心打明けてきこえむもここにてこそと思へば、かくは誘ひまつりぬ」と、湖畔へ連れて来た目的を明かす。過去を打ち明けるのではない、「真心」を打ち明けるのだ。マリイが帽子を脱ぎ棄て此方へふりむくと、大理石に血の色が潮(さ)したようで、「風に吹かるる金髪」は、首を振って長くいななく駿馬の鬣に喩えられる(「一等ドロシュケ」で雪道を出発する太田豊太郎を、「乱れし髪を朔風に吹かせて」階上から見送るエリスとは大違いだ)。「けふなり。けふなり。きのふありて何かせむ」云々の科白がマリイの口から出るのはこの時である。大粒の雨が衣を打ち、「瞬くひまに繁くなりて」、「湖上よりの横しぶき」が、「紅を潮したる少女(をとめ)が片頬に打ちつくるを、さし覗く巨勢が心は、唯そらにのみやなりゆくらむ」。マリイは馬に鞭あてさせて馬車を急がせ、「右手(めて)に巨勢が頸(うなじ)を抱き、己れは項(うなじ)をそらせて仰視(あふぎみ)たり」。巨勢は相手の肩に頭をもたせて「ただ夢のここちしてその姿を見たりしが、彼(かの)凱旋門上の女神(によしん)バワリアまた胸に浮びぬ」と、「幾頭の獅子の挽ける車の上に、勢よく突立ちたる、女神バワリア」のごときファリックな母に抱かれて夢心地でいる。

「国王の棲めりといふベルヒ城の下(もと)に来し頃は、雨彌々(いよいよ)劇しくなりて、湖水のかたを見わたせば、吹寄する風一陣々、濃淡の縦縞おり出して、濃き処には雨白く、淡き処には風黒し」。御者は車を停めて、非常識な客に、お客さんも風邪をひくし、古い車ながらあんまり濡らしては自分も主人に怒られる、しばらくの間だからと言って母衣を掛ける。「雨猶(なほ)をやみなくふりて、神おどろおどろしく鳴りはじめぬ」。これまで驟雨は見事なモノクロームの視覚的効果で表されていたが、今度は文字通り鳴物入りである。同時に、「路は林の間に入りて(…)木下道(このしたみち)ほの暗うなりぬ」と、視界を遮られるや、「夏の日に蒸されたりし草木の、雨に湿(うるほ)ひたるかをり車の中に吹入るを、渇したる人の水飲むように二人は吸ひたり」と、嗅覚と味覚が瞬時に刺戟され、「鳴神のおとの絶間には」ナハチガル(ナイチンゲール)さえ二人の道行に寄り添って、「玲瓏たる声」を響かせる。

「この時マリイは諸手を巨勢が項に組合せて、身のおもりを持たせかけたりしが、木蔭を洩る稲妻に照らされたる顔、見合せて笑みを含みつ」。けっしてこのような場面には至らなかったが、主演の二人がボートの上で雨に遭う(しかも乗り物づくしの)『乱れ雲』の成瀬巳喜男に撮らせたい。あるいは、『ルートヴィッヒII世のためのレクイエム』のH-J・ジーバーベルクに(音楽はワーグナーをあえて避けるか)。

 母衣と雨とで二重に外界から隔てられ、二人は、噎せるような百合の香と雨の中に二人きりで閉じ込められた代助と三千代のように(影響関係というのではなしに言うのだが)世界から切り離され、あるいは窓の日除けをすっかり下ろした馬車の中のエンマとレオンのように(もっとも、中で起っていることに何の関心もない作者は、狂ったように走り回る黒い箱が通り過ぎる塀の中に、養老院の中庭を散歩する記憶の中の老人たちを書き込んだりするのだが)、「我を忘れ、わが乗れる車を忘れ、車の外なる世界をも忘れたりけむ」。林を出て坂道を下るうち、雲が去り、雨がやみ、霧が晴れて視界がひらけるくだりはすでに引いた。

小舟で
 着いたのは、岡の中腹の家にはかつて裕福なイギリス人が住んでいた、レオニである。「老いたるハンスル夫婦が漁師小屋も、もはや百歩が程なり」と少女は言う。「『われはおん身をかしこへ、伴はむと思ひて来しが、胸騒ぎて堪へがたければ、此店にて憩はばや。』巨勢は現(げ)にもとて、店に入りて夕餉誂ふるに、『七時ならでは整はず、まだ三十分待ち給はではかなはじ。』」

 昔マリイは、座敷船で湖に出て、食堂で「物食はせ」られた。この日、座敷船は荒天で出なかったが、画家は覚束なげにそれをなぞっているのだ(むろん、わざとではない、念のため)。夕餉を待つ暇に「桟橋に繋ぎし舟を指さし」「しばし我を載せて漕ぎたまへ」と言ったのはマリイである。座敷船はゼエスハウプトまで行った。これは湖の南端付近の地名であり、王がベルクへの途上、「水求めて飲みたまひし」と、先に伝えられた場所である。「ゼエスハウプトに船はてし時、その人は」――車を捨てたレオニで、二人が小舟に乗るのは必然であった。

 ゼエスハウプトで小舟を借りた男は、「暮れゆくそらに心細くなりし」マリイが、「はやかへらむといへど、聴かずして漕出で、岸辺に添ひて」舟を進めた。今は、「雨は歇みたれど、天猶曇りたるに、暮色は早く岸のあなたに来ぬ」、「岸に沿ひてベルヒの方へ漕ぎ戻す程に、レオニの村落果つるあたりに来ぬ。岸辺の木立絶えたる処に、真砂路(まさごぢ)の次第に低くなりて、波打際に長椅子据えたる見ゆ」と、舞台は整ったのだった。

「蘆の一叢(ひとむら)舟に触れて、さわさわと声するをりから、岸辺に人の足音して、木の間を出づる姿あり。身の長(たけ)六尺に近く、黒き外套を着て、手にしぼめたる蝙蝠傘を持ちたり。左手(ゆんで)に少し引き下がりて随(したが)ひたるは、鬚も髪も皆雪の如くなる翁なりき」。海渡氏の『伯林―一八八八年』で、「この悲劇の約三カ月後」、シュタルンベルガーゼーに滞在した林太郎が幾度か見かけた、「品のよい白髪の男と美しい娘の二人づれ」のうち、白髪の養父はこの「翁」が移されたものだろう。うら若い娘の父にしては歳が行き過ぎている(マリイも「老いたるハンスル夫婦」と言っていた)、かぐや姫の養父たち。『伯林―』のクララが言うように、シュタルンベルク湖が「養父にとって思い出の土地」だったとしたら、それは『うたかたの記』が彼にとって「思い出」(=参照先)としてあるからだろう。

 二年前の秋の日、湖畔で何度か目にした知り合う前のクララの姿を、ベッドの中で林太郎は回想する。だが、この中で真に重要な手がかりは、朝のクララでも、昼下がりのクララでもなく、とある夕べ、「ルードヴィヒ二世の悲劇をつたえるベルクの古城に近い、湖畔の道を、父と娘は静かに散策していた」ではじまる一節だけだ。「あたりが暗いのは、時刻のせいばかりではない。鉛色の厚い雲が空をおおっている。やがて雨滴がぽつりぽつりと落ちはじめ、雷鳴とともに、突然雨は激しく降り出した」とあるのは、「耶蘇歴千八百八十六年六月十三日」(『うたかたの記』)の雨が彼らを追って来たのである。「クララは頬をかすかに紅潮させ、父親をかばうようにして足を早める。アルペンおろしの強い風が、雨にかすむ湖面に小波(さざなみ)を立て、彼女の金髪をひるがえして吹きぬける。稲妻が走り、青白い閃光の中で、金髪は妖しい焔のようにゆらめいた。彼女はまるで、伝説に出て来るヴァルキューレのように見えた」。それまでの回想が静謐で端正なだけに、このクララの変身が最初やや唐突に思われたが、思えばこれは彼女がマリイの再来であることを読者に知らせるためであった。

 百六十四ページ先で林太郎はクララに言っている――「僕はもう一度、シュタルンベルクの湖畔に立っている君を見たい。お父さんのかわりに、今度は僕がきみのそばに立って……」 しかし、そのクララとは、美しい絵葉書のような景色の中に、エリカの花の精めいたピンク色のドレスで立ち、振り返って養父にやさしくほほえみかけるクララではあるまい。また、針葉樹林が水にくっきりと影を落す朝の湖畔に白いドレスで佇むのが、「大理石の彫像のように見え」たクララでもあるまい。「大理石脈に熱血跳(をど)るごとくにて、風に吹かるる金髪は、首(かうべ)打振りて長く嘶(いば)ゆる駿馬の鬣に似たりけり」と語られ、母のように仰ぎ視られる、マリイのごときクララだろう。

ファンタズム
 今、「岸辺の木立絶えたる処」から真砂路−plageはひろがり出して、そこに舞台装置のように置かれた長椅子とはベンチのことなのだろうが、先にシュタルンベルクの停車場で降りた際の、石段を上った先の「屋根なき所に石卓(いしづくゑ)、椅子抔(など)並べたる」、ホテルの前庭を髣髴させもする。

 あの時、パーゴラの下で円卓を囲んでいた「男女打ちまじりたる」「ひと群の客」、「此ホテルに宿りたる人」とは、増幅された両親であろうか。見覚えのある顔を認めた巨勢は(「先の夜「ミネルワ」にて見し人ありしかば」)、近づいて声をかけようとして、マリイに止められる(「巨勢は行きてものいはむとせしに、少女おしとどめて。」) 「かしこなるは、君の近づきたまふべき群にあらず。われは年若き人と二人にてきたれど、愧(は)づべきはかなたにありて、こなたにあらず。彼はわれを知りたれば、見玉へ、久しく座にえ忍びあへで隠るべし。」マリイの言った通り、「彼(かの)美術諸生は果して起(た)ちて『ホテル』に入りぬ」

 この一連の情景は、巨勢の、(このあとの水に沈むマリイや、王と翁の戦いほどには目立たない)一種の性的ファンタズムであろう。続いてマリイは「僕(しもべ)を呼び近づけて、座敷船はまだ出づべしやと問」ふのだが、これは現実の出来事が直後に接続されたものだろう。直前までは記憶の中にストックされた「顔」が呼び出され、置き換えられて展開する“夢“であり、いかにもリアリズムめかしているが、マリイの説くところも夢の論理で、それが人に気づかれぬまま、さりげなく挿入されているのだろう。

 今、大道具のようにベンチの置かれた汀(みぎは)には砂踏む音がして、乗る舟の分け入る蘆のさやぎにつれて姿を見せたのは“本当の父“――「父の世に在りしとき、伴はれてゆきし嬉しさ」の思い出を利用するかに、湖に連れ出した子を舟に乗せ、「人げ遠き葦間」に入り込んだり、愧(は)づべきあひびきを知り人(びと)に見られてこそこそと身を隠したりの、「悪い父」たちのあとについに現れた“ラスボス“で、「われを狂人と罵る美術家等、おのれらが狂人ならぬを憂へこそすべきなれ」と学生たちを指して言い切ったマリイには“狂気“をわかち持つ分身でもあり、その証拠に、王ははじめ「縁広き帽」の下に顔が隠れていたのが、帽子を片手に「ぬぎ持ちて、打ち仰ぎ、長き黒髪を、後(うしろ)ざまにかきて広き額」をあらわす一方、夕餉を頼んだ店に「前庇広く飾りなき帽」を残したままで来たマリイの「白き夏衣」の肩には「乱れたるこがね色の髪」がかかり、「彼は王なり」と叫んで舟の中で立ち上がった拍子に夏外套が背から落ちるのに対し、王の黒い外套は、追いすがるグッデンが「王の領首(えりくび)むづと握りて引戻さんと」して「外套は上衣とともに翁が手に残りぬ」といった具合に、照応させてあるのである。

 巨勢がマリイをモデルに描こうとしていたのは「ロオレライ」で、本来なら岸から舟人に歌いかけ水に沈める役回りであった筈が、逆に舟の上の姿が王を呼び寄せ、「あやしき幻の形を見る如く、王は恍惚として少女の姿を見てありしが、忽(たちまち)一声『マリイ』と叫び、持ちたる傘投棄てて、岸の浅瀬をわたり来ぬ」。互いを認めた時がすなわち彼らの死の時であったのだ。「少女は『あ』と叫びつつ、そのまま気を喪ひて」巨勢の差し伸べる手も間に合わず水に墜ちる。

 彼女はなぜ気を失ったのか。スウィッチを突然切られたか、巻いたネジが残らず戻ったかのようではないか。夢としての彼女の人生がこの時不意に終りを迎えた。「われにもあらで水に躍り入りぬ」る時は気がつくと漁師夫婦に介抱されていたが、此度は「日もはや暮れ」、岸にはオークやハンノキが繁って枝差し交わし、「水は入江の形をなし、蘆にまじりたる水草に、白き花の咲きたるが、ゆふ闇にほの見えたり」と、有名な流れゆく少女の背景さながらの図、「をりしも」漕ぎ来る舟に驚いてか「蘆間を離れて、岸のかたへ高く飛びゆく」和泉式部写しの螢に、「あはれ、こは少女が魂(たま)の脱け出でたるにはあらずや」と語り手は自問する。運ばれてきたのが誰とは知らず、漁師小屋から顔をのぞかせた「白髪の老女(おうな)は、「ことしも水の神の贄求めつるよ。主人はベルヒの城へきのふより駆りとられて、まだ帰らず」と言う。漁師のハンスルがいないのは当然だろう、彼は白髪のグッデン同様、王に随い、奉仕する者なのだ。「巨勢は声ふりたてて、「水に墜ちたるはマリイなり、そなたのマリイなり、」と言う。

 まるで前回水に飛び込んだ時から運び入れられるこの時まで何も起こっていなかったかのように、マリイはあの時溺れ死んでこの六年は無かったかのように、巨勢がミュンヘンに戻って成長したすみれ売りの少女に再会するなどということは決してありえなかったかのように、マリイは蘇らない。前回運び込まれたマリイもすでに死者であり、それからの出来事は夢であったかのように、マリイは死んでいる。巨勢は老女と「消えて迹(あと)なきうたかたのうたてき世を喞(かこ)ちあかし」て通夜をするが、このうたかた(泡沫)には、人間の男と結ばれず泡になった水妖の死を悼む意味が混じっていよう。

前人未踏の散文
 もちろん、永遠の魂を有し死後は天国に行ける人間と、三百年生きて海の泡となるべき異類を分ける厳然たる位階を持つ信仰の外にいる者には、幸いにもそんな神話を気にする義理はなく、魂は螢となって脱け出しても断然いいのだが。しかし巨勢がはじめて見たマリイ(まだその名も知らない)は、憂に満ちたまなざしと清らかな声で「ロオレライ」の構想を彼に得させ、画中の水の精は手に「一張(はり)の琴」を持ち、嗚咽の声をもらすというのだから、彼女が人魚の仲間として、目と耳を通して藝術家に霊感を与えるミューズの役を振られていることは否定できない。それにしてもこのローレライはあまりに可憐で、獅子に曳かせた車を駆る凱旋門上の女神とは相当の隔たりがあると言わねばならない。

 六年の歳月は、「今は美術家の間に立ちまじりて、唯面白くのみ日を暮せり」と自称する、女ーーつまり単なる“雛形(モデル)娘“にはふさわない教養と才気の人(「見玉へ、我(わが)学問の博きを」)、「不思議の癖者」、“狂人“へと、少女を成長させていた。画学生の戯れ(要するに“セクハラ“)をしりぞける時は「美しき目よりは稲妻出づと思ふばかり」「さながら凱旋門上のバワリアなりと」見え、その威厳あるさまが、雨をついて駈ける車中で再び巨勢の頭に浮んだのも前述の通りだ。湖水での王との出会いは、それらの全てをなかったことのように、マリイをただの無力な少女に戻してしまった。エドガー・ポーのヒロインさながら、あるいは『千匹皮』の王女のように、母親に瓜二つの娘に。

 その二日後、巨勢がアトリエで「『ロオレライ』の図の下に跪きてぞ居たりける」と私たちは知らされる。モデルは失われた。しかし、これもポーの、『楕円形の肖像』ではないので、モデルの死は作品の完成を意味せず、モデルの生命が肖像画の女に注ぎ込まれて、そちらが不滅の生命を得るのでもない。

 たしかに巨勢は「わがあらむ限の力をこめて、此花売の娘の姿を無窮に伝へんと思ひ立」ちはしたが、それは現実の花売娘の犠牲の上にではなく、かといって、実際の菫うりにもう一度まみえることを切望するわけでもなく、その後六年もの間ミュンヘンを離れて己れの運命を遠ざけた。そしてついにオリジナルに再会すると、彼女を直接モデルにして(学校のアトリエという願ってもない場所なのに)絵を完成させるのではなく、むしろ作品に背を向けて、運命の成就への道を、言われるままに辿るのである。なぜか。「作品」にできることは、不死の美女の完璧な写しの作成でも、雷鳴とどろく山道に「声振りたてて」鳴くナハチガルの嘆きにならった曲の採譜でもなく、夢のように謎めいた前人未踏の散文によって、その一筋道をひたすら駆け抜けることに他ならなかったからだ。

# by kaoruSZ | 2022-11-27 20:10 | 文学 | Comments(0)
『舞姫』をめぐってほぼ毎日ツイッターで書き継いでいる時に、久方ぶりに神保町へ出かけて三茶書房に入ったところ、「伯林―一八八八年」という背文字が目に飛び込んできた。 明治二十一年の冬は来にけり――これが私のためにここに置かれたのでなくて何だろう。世界は「ユービック」になってしまったのか……

 そのようにして、『伯林―一八八八年』(海渡英祐)に出会った。「昭和42年度第13回江戸川乱歩賞受章作」「鷗外文献を渉猟した的確な考証」と帯にあるが、渉猟とはとうてい呼べないものの私自身も調べている最中なのでいろいろ出どころがわかる。もとより鷗外をそれほど読んでいたわけではなく、知らないものも多いが、以前だったら全くわからなかったろう。短篇『大発見』は折りよく先日読んだところで、ベルリンの日本公使館の様子は承知していたし、「家主が料理店を経営しているのが都合がいい」下宿のことは、『鷗外の恋人 舞姫エリスを探せ』(六草いちか)で知った。シュプレー川と聞いても以前なら何の連想もなかったが、六草氏の本を読んだ後では、ああ、あのカモメの飛び交う、となる。

『伯林―一八八八年』の主人公森林太郎には、エリスの同輩の踊り子ベルタという、架空の人物――いや、エリスも太田豊太郎も架空の人物であるから、『舞姫』には存在しない人物と言おう――そのベルタの恋人でもある岡本修治という友人がいるが、「林太郎は仲のよかった画家の原田直二郎を通じて、この男と知りあった」とある。「原田」は「架空の人物」ではなく、これも六草氏の本の、“ミュンヘン三羽烏“とキャプション付きの写真に(架空ではない)森林太郎と並んで写っていた(表記は直次郎で、「架空の人物」の方はわざと改めているのだろう)。この名前は覚えがあると思いながら調べていなかったが、調べたところ、 『うたかたの記』に登場する画家のモデルとされていた。おまけに、初めて知ったがドイツ女性との間に子を生しており、帰国後、女性から養育費を求める訴えを起されていた!(本人すでに病気で、結核で死去のため不成立。なお渡欧前から日本に妻子あり。)

重要な脇役となる岡本は、「法律を学びにドイツへやって来たのだが、いつの間にか法律の方はお留守になって、文学や哲学に熱中してしまい、いまでは新聞の通信員をつとめたり、ほかに翻訳や臨時の通訳などをして何とか自活している」と、どこかで聞いたような身の上である。

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『伯林―一八八八年』、よく出来ているがエリス可哀想過ぎ。鷗外には本命の美女がいて、要するにアルヌー夫人の代りのロザネット。星新一の、鷗外からの手切れ金でエリス来日説を私は珍説と呼んだが、「かなりの金を工面して、そっと彼女のもとに残して行ったのが、彼のせめてもの罪ほろぼしだった」という伏線を見るに、かつては珍ではなかったのかも。

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『うたかたの記』と『文づかひ』、読んだのがあまりに昔なので、とりあえず「青空文庫」で目を通した。『伯林―』のヒロイン(エリスではないのだ)クララと林太郎ははじめての出会い以前に、シュタルンベルク湖(言うまでもなく『うたかたの記』の舞台で、ルートヴィッヒ二世終焉の地)で、互いの姿を見ているとされている。

『うたかたの記』、凄いなあ……『舞姫』の次に、もうこれ? 高校の教材に相応しいと思われるくらいになめられた、『舞姫』の次に――。昔読んだ時はルートヴィッヒ二世への関心からだったので、王がその母に恋したマリイという娘がどうこうという、何やら込み入った“作り話“が本筋なのに失望した記憶があったが、今回は異様なヒロイン、マリイに驚きながら、彼女も、『文づかひ』のイイダ姫も、『伯林―』のクララがそこから作られた素材であることを納得しつつ読んだ。これはあからさまな藝術家小説だ。私は、『舞姫』もそうだと――すでに書いたように(『舞姫』ノート (上) https://kaorusz.exblog.jp/32419266/)、主人公が「近代小説」を書きはじめるまでを記述した藝術家小説だと――思っているが、『うたかたの記』は、画工(画家)の巨勢(こせ)を主人公にすることでそれを明示している。

 最初、すみれ売りの十二三歳の少女マリイにミュンヘンのカフェで出会った巨勢は、学生が連れていた犬におびえて取り落し、踏み躙られた菫(何の象徴かは明白だ)の代金だと言って、店から追い出された彼女に金を与える。これは太田豊太郎がエリスに懐中時計を渡す行為に相当し、成長したマリイが語る、「母のみまかる前、三日四日のほどを安く送りしは、おん身の賜(たまもの)なりき」というのは、時計を質入れした金でエリスの父が埋葬されたのに通じる。この束の間の出会いによって彼女は彼のミューズとなり、あらゆる美と彼とのあいだに、その顔が割って入るようになる。六年後、「ミネルワ」と呼ぶカフェで再会した彼女は美術学校のモデルをして自活しているが、美術に関しては男に劣らぬ知識を持ち、狂人と見られかねない奇矯な言動で、娼婦に身を落すことから自らを守っていた。

 マリイが巨勢に語るところでは、「父はスタインバハとて、今の国王に愛でられて、ひと時栄えし画工なりき。」王とはルートヴィッヒ二世である。マリイが十二の時、王が(同名の)母のマリイに恋慕して無理矢理従わせようとしたのを父が助け、逆上した王に暴行されて、人に担がれて帰るという事件が起きた。巨勢曰く「王の狂人となりて、スタルンベルヒの湖に近き、ベルヒといふ城に遷(うつ)され玉ひしことは、きのふ新聞にて読みしが、さてはその頃よりかかる事ありしか」。マリイ曰く「囈語(うわこと)にマリイといふこと、あまたたびいひたまふを聞きしもありといふ。我母の名もマリイといひき。望なき恋は、王の病を長ぜしにあらずや。母はかほばせ我に似たる処ありて、その美しさは宮の内にて類(たぐひ)なかりきと聞きつ。」巨勢に救われたのは、父が病死し、マリイが菫売りまでするようになった頃だった。

 やがて母も失うと親切ごかしに引き取る人があったが【註】、ある日新しき衣(きぬ)着よと言われて、客と船に乗せられ、意味の分らないまま、恐れてシュタルンベルクの水に飛び込む。気がつくと漁師の夫婦に助けられており、そこの娘になった。すでにここまででも、いい加減込み入っているが、さらに、その後、近辺の裕福なイギリス人の家で小間使をしていた時にもの読むことを覚え、女家庭教師の蔵書を読み尽くしたとなると、藝術家のミューズである女の登場人物としてはかなり異質である。去年、イギリス人たちが帰国してしまうと、漁師の娘では貴族の家などに勤め口はなく、モデルにと請われたことをきっかけに、鑑札を受けて美術学校のモデルになった。

 マリイはこのように巨勢に来し方を物語り、実の父と行ったこともあるシュタルンベルク湖へ巨勢を誘う。しかし、二人が湖水に舟を浮かべている時、岸にルートヴィッヒ二世と侍医グッデンの姿が現れ、マリイは驚いて立ち上がり、王は母によく似たマリイを見ると、一声その名を呼んで浅瀬に踏み入る。マリイは気を喪って傾いた舟から水に落ち、その際、水中の杭で胸を打つ。王と、止めようとするグッデンが争うのを横目に、巨勢は舟にマリイを助け上げ、彼女の養い親である漁師の小屋へ急ぐ。

 これは、鷗外がルートヴィッヒ二世の事件を素材として見た、「夢」のようなものだろう。恐しく多くのものが、ここには水中の藻のように、ひしめき、絡みあい、置き換えられ、「圧縮」されている(しかし解きほぐすことは不可能ではない)。

 事態をさらに込み入らせることになるが、海渡英祐の小説をここに近づけて見るなら、『伯林―一八八八年』のクララは、明らかにマリイが“モデル“である。クララもまた女優だった美しい母に生きうつしで、画学生たちが集うカフェに一人混じるマリイのように変人ではないが、並みの女からは抜きん出たと見える教養を持つ二十四五歳の女詩人で、二年前、ルートヴィッヒの事件の三ヶ月後に、林太郎がシュタルンベルク湖畔で見た時は、「品のよい白髪の男と美しい娘の二人づれ」だった。男は「もと軍医」の養父であり、昨年亡くなったという。「(…)シュタルンベルクは養父にとって、思い出の土地だったらしいのです。退官したときから、もう一度遊びに行きたいと、よく申していましたが、あれが結局最後の旅になりました……まえから腎臓を患っておりまして、当人は医者だけに、自分でもう長くはないと思っていたらしいのです……」これに続いて林太郎自身の腎臓病についての見解、さらに、無名の語り手による、当時の医学状況の解説が入るので、読者はたんにそうした知識(鷗外の職業や死因も含めて)を、作者が引用したのだと取るであろう。しかしそうではないのだ。

 先へ行って林太郎は、養父の代りにクララとシュタルンベルク湖畔を歩きたかったと言っている。これは、自分が「父」に取って替わりたかったと言っているのだ。いや、林太郎が取って替わりたいのはその父ではない(腎臓病で死期を自覚した「もと軍医」ならば、そのままにしてすでに未来の彼自身ではないか)。彼が取って替われなかったのは一介の軍医なぞではなく、このあと登場するクララの本当の父、神のごとき力ある大人物であり、『伯林―一八八八年』はついにその父から彼女を引き離せなかった男の話である。

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 すでに述べたように巨勢と少女マリイの出会いは、太田豊太郎とエリスの出会いの変形されたものだ。『舞姫』を成立させる口実としての「出世か恋か」という通俗的な設定を取り払ったあとの、藝術家による彼のミューズの発見である。なにしろ巨勢は、「そのおもての美しさ、濃き藍いろの目には、そこひ知らぬ憂ありて、一たび顧みるときは人の腸(はらわた)を断たむとす。その面、その目、いつまでも目に付きて消えず(…)ドレスデンにゆきて、画堂の額うつすべき許しを得て、ヱヌス、レダ、マドンナ、ヘレナ、いづれの図に向ひても、不思議や、すみれ売のかほばせ霧の如く、われと画額との間に立ちて溲礙をなしつ」というほど、この俤に取り憑かれてしまうのだ(これが、「この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目(まみ)の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか」と語られた、エリスの再来なのは言うまでもない)。彼は幻の少女をモデルにした未完成の「ロオレライ」の絵を携えて、六年ぶりにミュンヘンに戻って来る。

 太田豊太郎の「政治社会に出でんとの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを」という台詞は、エリスとの生活が年単位で続いたわけはないのでいささか奇妙だが、巨勢がミュンヘンを再訪するまでに六年もの歳月がかかっているのも逆に不自然だ。しかしこちらは、言うまでもなく、マリイが成長するまでに必要な時間である。そしていったん再会が起こってしまうと、時は急加速する。「明治二十一年の冬は来にけり」以降の、エリスの妊娠、相澤との再会、大臣に従ってのロシア行きの慌しさと同様に、会ってから一週間で、マリイは巨勢のアトリエに来て自分の身の上を物語り、そのまま巨勢をシュタルンベルク湖へいざなう。そして水に落ちて死んでしまうのだ。

 マリイの来歴はほとんど幾つかの別の話を繋ぎ合わせたように見える。暴虐な王、家の没落、花売り娘、孤児、そして拾われた子。思いがけず身を置くことになった、女家庭教師のライブラリイでの幸福な時間。マリイの過去とは、そこで読んだ無数の物語の断片を継ぎはぎした夢ではないのか。だが、この寄せ集めとは、実際に鷗外が(フロイトが「夢の仕事」と呼ぶものに似て)、手持ちの断片を使ってやったことであり(それはまた海渡氏が「鷗外文献を渉猟」してやったことでもある)、この、起源の曖昧な無根拠な寄せ集めこそが、小説と呼ばれるものなのである。

 思えば太田豊太郎と教会の扉に倚って泣くエリスとの出会いの場面も、どこかから取って来られてそこに置かれたようなものであった。エリーゼ・ヴィーゲルトの身元は六草いちか氏によって突き止められたが、森林太郎とエリーゼがどこでどのようにして出会ったのかは、いまだに謎のままだ。しかし、巨勢とマリイ・ハンスル(本名はスタインバハ)との出会いが、『舞姫』のそれの反復であることは疑いない。父を亡くして窮地に陥り、身を売るまでに追いつめられた美しい娘を、“金“を渡すことで救う。マリイの場合、一度目は(すみれの)「落花狼藉、なごりなく泥土に委ねたり」と、暗示にとどまっていたものが、二度目には、父と行ったことのある場所での、客の男との船遊びという形で現実のものとなろうとする。湖水に身を投げて逃れた時、マリイは一度死んだのだろう。死んで、そして生まれかわったのだろう。水の中から見つかった子供とは、モーゼ以来の神話的形象であり、誕生の暗喩だろうが、あくまでも“リアリズム小説“である『うたかたの記』では、 「帰るべき家なしと言張りて、一日(ひとひ)二日(ふたひ)と過(すぐ)す中(うち」に、漁師夫婦の質朴なるに馴染みて、不幸なる我身の上を打明けしに、あはれがりて娘として養ひぬ」と、かぐや姫のような“見出された子“の来歴が継ぎ目を見せずに語られる。その後、イギリス人の家の小間使になる孤児の少女とは、またしても何かの物語から引いて来られたかのようだ。しかしそれは紛れもなくマリイなのであり、ただし、 「シオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして」座る下宿の豊太郎のさまをめづらしく眺めたことであろう、彼と知り合うまで「手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」と唱ふる貸本屋の小説のみ」で、彼の貸し与える本で「漸く趣味をも」知ったエリスからははるかに遠い、「ギョオテ、シルレルの詩抄」、「キョオニヒが通俗の文学史」、「ルウヴル、ドレスデンの画堂の写真絵」、「テエヌが美術論の訳書」を読みあさって大人になったマリイなのである。

『伯林―一八八八年』では、森林太郎がエリスとの「余所目に見るより清白」(『舞姫』)な、煮え切らない交際を続ける一方、すでに見たように免官後の豊太郎そのものである(ただし、出世をめぐる懊悩とは無縁な)岡本修治がいるので、クララ・ヴァルターは、はじめから林太郎の純粋な「憧憬」(この単語は、ゲーテから取られたとあとから明らかにされるクララの詩集の題名でもある)の対象として登場する。なにしろクララは、シルレルに関して言えば、岡本から「友人の森林太郎君、陸軍一等軍医で、いまはコッホ研究所で細菌学の研究をしていますが、文学にも強い関心を持っています」と紹介されて、「あなたはシラーのお仲間というわけでございますのね」と返すような女なのだ。〔シルレル、軍医だったのか! 知らなかった……〕

 岡本の恋人ベルタとその母(岡本との仲に反対する)の住まいの描写には、外観も屋根裏部屋も『舞姫』のエリス母娘の住居の記述が、そのまま流用されている。そしてそこで起こる悲劇――本題の殺人事件の解決に林太郎がかかわるための序章となる――も、母親が娘に客を取らせようとする、『舞姫』の設定をそのまま流用したものだ。ただし相手はヴィクトリア座の座頭(ざがしら)などではなく、政府の要人である伯爵で、その代価も、エリスの部屋に活けられていた「ここに似合はしからぬ価(あたい)高き花束」や、豊太郎の懐中時計で暗示されるのではもはやなく、「この貧しい家庭には、いかにも不似合な」「何枚かの金貨」として、むき出しの――いや、「絹のハンカチ」にくるまれた――光を放っている。

『舞姫』で、鷗外はいち早く“母“を殺していた。「諫死」や、「峰子[鷗外の母]を満足させるために、毅然たる母親像を描きたかったからではないでしょうか」という見当外れの解釈を呼び込む表現で(「舞姫ノート(上)」の始めを参照されたい)、母を排除していた。母親として登場するのは、娘を搾取する、貧苦の痕を額に刻んだ老媼(おうな)ばかりだった(十六七のエリスの母がそれほどの年であったとも思えないが、「五十を踰えし母に別るもさまで悲しとは思はず」と語られる豊太郎の母も、もちろんこの時代では年寄り扱いだ。ちなみに実際の森峰は、鷗外帰朝時、四十二に過ぎなかった)。最後に豊太郎が抱きしめて涙を流すエリスは、胎内に子を宿した――だが「精神の機能は殆ど全く廃し」た――母、いや“母未満“であった。

 しかし、『うたかたの記』では、 “母“は美しい若い娘の姿で戻って来る。シュタルンベルク湖へ向かう時のマリイは、「おん身とならば、おそろしきこともなし。共にスタルンベルヒへ往(ゆ)き玉はずや」と巨勢を誘い、「巨勢は唯(ただ)母に引かるる穉子(おさなご)の如く従ひゆきぬ」とある。その直前、マリイの話を聞き終った巨勢が、あたかも「胸騒ぎ肉顫(ふる)ひて、われにもあらで、少女が前に跪かむとし」たところであった。『伯林―一八八八年』のクララとエリスのことを、『感情教育』のアルヌー夫人とロザネットと先に書いたが(書いた時には意識していなかったが、フロベールのヒロインの名もマリイである)、憧憬(しょうけい)と渇仰の対象であり、軽々しく手を出せない女と、身近で、自分を慕ってくれる、気安く性的な慰みにしうる女とは、要するに昔ながらの母と娼婦の二分法に他ならない。しかし、母は性的要素を脱色されたわけではなく、常に近親相姦の危険をはらんで立ちあらわれる誘惑者なのだ。

 エリスをロザネットとして最初から別立てにした『伯林―一八八八』では、初対面のクララからシラーに比せられた林太郎は、「恐れ入ります……シューマン・シュトラーセでクララさんにお会いできて、何より光栄に存じます」と返す。ブラームスにとっての年上の偶像クララ――マリイ・アルヌーやそのモデルのエリザ・シュレザンジェのように主人公(あるいは現実のフロベール)より年上の人妻でなくとも、クララ・ヴァルターは最初から林太郎にとって“母“の像なのである。最初と言えば本当はその前の「シュタンベルガー・ゼー」での出会いが最初だが、そこでもクララは、“男“(父)との二人づれ、つまりエディプス的競争者である父の“連れ合い“としてのみ登場し(「いかにも親子らしいほのぼのとした愛情を感じて、好ましい印象を受けた」などというのは隠れ蓑である)、また、知り合ってみると、婚約者と目される男もいた。“父“との抗争では、林太郎も巨勢も結局は敗れ去って“母“を失うしかなかったし、それは最初からあからさまな争いを忌避して、母ひとり子ひとりの設定で書かれた『舞姫』でも同様だ。

 マリイと巨勢のシュタルンベルク湖行きは、十三歳のマリイが、男に連れられてそこへ行った時の反復である。それはまた、幼い日に父と行った場所でもあった。彼らは湖水に舟を浮かべる。あの日、客の男がマリイを連れてそうしたように。しかし今マリイの傍にいて櫂をあやつるのは、マリイがこの年月、再会を夢見てきた巨勢である。この情景を一変させるのが、岸辺に現れた狂えるバイエルン王と、扈従する白髪の医師だ。王は舟中の娘をマリイと呼ぶことで彼女を母のマリイに変え、今を、温室の四阿で彼女の母に襲いかかった、あの狂気の一瞬に変える。客の男から逃れた時のように、彼女は水に沈み、岸の近くの足のめり込む浅瀬では、王とグッデンが取っ組み合いを演じている。これは、宮廷の温室で王の狼藉を目撃した父が、「許したまへ、陛下」と叫んで王を押し倒し、「そのひまに母は走りのきしが、不意を打たれて倒れし王は、起き上りて父に組付きぬ。肥えふとりて多力なる国王に、父はいかでか敵し得べき、組敷かれて、側(かたはら)なりし如露にてしたたか打たれぬ」という情景の再現でなくて何だろう。“息子“としての巨勢にとって、これは変形された“原光景“なのだろう(出自も生い立ちもその背景が何一つ知らされないこの人物を、“息子“に還元したとしても許されよう)。巨勢が見たのは、王と“母“との組み打ちに取って替わった、王ともう一人の男との、死にもの狂いの闘争であった。そして、圧倒的な力を持つライオスの前に、エディプスは敗北し、“母“は水の下に消えた。その結果は、菫の花束を雪と泥に汚れた「カッフェエ・ロリアン」の床に散らした時は、「落花狼藉、なごりなく泥土に委ねたり」であり、マリイの母が手籠めにされかけたのは「移植(うつしうゑ)し熱帯草木いやが上に茂れる」温室であったが、今「舟には解けたる髪の泥水にまみれしに、藻屑もかかりて僵れふしたる少女の姿、たれかあはれと見ざらむ」と、ついに泥と水と藻屑にまみれて横たわるのはマリイ自身なのだ。

『舞姫』で鷗外は一人称による「告白」という形式に、自らの体験を含めた材料(“実際にあったこと“つまり伝記的事実も、小説の前には“本で読んだこと“と同等の素材の一つに過ぎない)を落し込んだ。『うたかたの記』では、最近起こったばかりの、しかも自分が近くにあって見聞きしたセンセーショナルな事件を巧みに利用した(まだ人々の記憶に新しかった、田舎医者の妻の自殺を利用したフロベールのように)。だが、恋愛小説のヒロインになりきった女になりきった小説家と違って、彼は狂気の王の内面を描くのではなく、圧倒的な“父“のイマーゴを転用したのだ。その代り、女の異端児であるマリイの語りに、その“狂気“を注ぎ込んだ――「をりをりは我身、みづからも狂人にはあらずやと疑ふばかりなり。これにはレオニにて読みしふみも、少し祟りをなすかとおもへど、もし然(さ)らば世に博士と呼ばるる人は、そもそもいかなる狂人ならむ。」レオニとは、イギリス人の家のあった場所である。「われを狂人と罵る美術家ら、おのれらが狂人ならぬを憂へこそすべきなれ。英雄豪傑、名匠大家となるには、多少の狂気なくてかなはぬことは、ゼネカが論をも、シエエクスピアが言をも待たず。見玉へ、我学問の博(ひろ)きを。狂人にして見まほしき人の、狂人ならぬを見る、その悲しさ。狂人にならでもよき国王は、狂人になりぬと聞く、それも悲し。(…)おん身のみは情(つれ)なくあざみ笑ひ玉はじとおもへば、心のゆくままに語るを咎め玉ふな。ああ、かういふも狂気か。」そして雨が降り出す中、馬車に母衣(ほろ)も掛けさせず、疾駆する車の中で言い放つ。「『カッフェエ・ロリアン』にて恥かしき目にあひけるとき、救ひ玉はりし君をまた見むとおもふ心を命にて、幾歳をか経にけむ。先の夜『ミネルワ』にておん身が物語聞きしときのうれしさ、日頃木のはしなどのやうにおもひし美術諸生の仲間なりければ、人あなづりして不敵の振舞せしを、はしたなしとや見玉ひけむ。」これは巨勢の話の終った時、「われはその菫うりなり。君が情(なさけ)の報(むくひ)はかくこそ」と巨勢の額に熱い口づけをし、自分にも、と腰を抱いた学生を振りはらって、お前たちにはこれが相当だろうと、口に含んだ冷たい水を吹きかけたのである。

「されど人生いくばくもあらず。うれしとおもふ一弾指(いちだんし)の間に、口張りあけて笑はずば、後にくやしくおもふ日あらむ。」かくいひつつ被りし帽を脱棄(ぬぎす)てて、こなたへふり向きたる顔は、大理石脈に熱血跳る如くにて、風に吹かるる金髪は、首(こうべ)打振りて長く嘶(いば)ゆる駿馬(しゆんめ)の鬣(たてがみ)に似たりけり。「けふなり。けふなり。きのふありて何かせむ。あすも、あさても空しき名のみ、あだなる声のみ。」

『文づかひ』は、名のみ知る時は当然恋文のやりとりと思っていたのが、読んでみるとそういうロマンチックなものでは全くなかったのだが、今日再読すると、親や家から押しつけられる結婚へのはげしい憎悪が、ザクセン王国の貴族の娘、イイダ姫に託して、思いきり書き込まれているのに驚いた――「近比(ちかごろ)日本の風俗書きしふみ一つ二つ買はせて読みしに、おん国にては親の結ぶ縁ありて、まことの愛知らぬ夫婦多しと、こなたの旅人のいやしむやうに記したるありしが、こはまだよくも考へぬ言(こと)にて、かかることはこの欧羅巴にもなからずやは。(…)されど貴族の子に生れたりとて、われも人なり。いまいましき門閥、血統、迷信の土くれと看破(みやぶ)りては、我胸の中に投入るべきところなし。」

 かく語るイイダ姫について、若い小林大尉は、「かの物いふ目の瞳をきとわが面(おもて)に注ぎしときは、常は見ばえせざりし姫なれど、さきに珍らしき空想の曲かなでし時にもまして美しきに、いかなればか、某(なにがし)の刻みし墓上の石像に似たりとおもはれぬ」と微妙な褒め方をしているが(「珍らしき空想の曲」とはピアノの即興演奏のこと)、果たしてイイダ姫自身も、「いやしき恋にうき身窶(やつ)さば、姫ごぜの恥ともならめど、この習慣(ならわし)の外(と)にいでむとするを誰か支ふべき。『カトリック』教の国には尼になる人ありといへど、ここ新教のザックセンにてはそれもえならず。そよや、かの羅馬教の寺にひとしく、礼知りてなさけ知らぬ宮の内こそわが塚穴なれ」と言う。塚穴とは墓のことである。「明治二十一年の冬」の東京で実際には何があったのかが知られるに至った今日、こうした強いられた結婚への反発が鷗外の肉声としか聞えないのはあまりにも明らかで、さすがにこの点は諸家の意見も一致するところらしい。しかもイイダ姫の、家のための、情熱を欠いた結婚への強い忌避は、他に恋する相手があってそうするのではない。

 小林大尉に託した手紙が功を奏して、彼女は目論み通り「宮の内」すなわち宮廷の女官(によかん)になるが、大尉の目から見た老いたる女官の描写は、「ザックセン王宮の女官はみにくしといふ世の噂むなしからず、いづれも顔立よからぬに、人の世の春さへはや過ぎたるが多く、なかにはおい皺(しわ)みて肋(あばら)一つ一つに数ふべき胸を、式なればえも隠さで出だしたるなどを、額(ひたひ)越しにうち見るほどに」と容赦ない。その中にようやく見出した姫を、大尉は「わがイイダ姫」と呼ぶが、そもそも出会った時には「イイダといふ姫は丈高く痩肉(やせじし)にて、五人の若き貴婦人のうち、この君のみ髪黒し。かの善くものいふ目(まみ)をよそにしては、外の姫たちに立ちこえて美しとおもふところもなく、眉の間にはいつも皺少しあり」と評していたのであり、彼女は、エリスやマリイに対するような理想化を廃した、イイダ姫という童話的な名にふさわしからぬ、現実の女なのである。

 こうして並べて見ると、『舞姫』が今で言う「自分語り」の試み、『うたかたの記』が藝術家としての信仰告白なのに対して、前二者と同じく日本人男性がかかわるとはいえ、『文づかひ』の小林大尉は全くの傍観者であり、文字通り「つかひ」を務めるだけで、これまでの記述でも分るように、「姫」の恋の相手では(少なくとも向うからは)全くない。姫が、下手な人間には頼めないその役に大尉を選んだのも、「ところに繋累なき外人(よそびと)は、却って力を借し易きこともあらん」と『舞姫』にある通り、全くの部外者だったからである。そして実際、大尉は、見、そして語るだけだ。これは、語られる内容からの完全な疎隔をあらわしてもいよう。

 いわゆるドイツ三部作において、ともに愛する女を失う物語である『舞姫』と『うたかたの記』の、前者では太田豊太郎という、作者と同一視されることを拒まない/あえてねらった人物を一人称の語り手に据え、後者では画家というペルソナの下に密かに自らを語った森林太郎は、最後に、一切の夢を剝ぎ取られた、しかも自分にはイイダ姫のように押しつけられたものを拒否してそこへ行く自由すらない世界を、さびしく、うつくしく、しかし洋行帰りの日本人大尉による打ち明け話という設定によっていやましに距てられた、“よそごと“して記述したものであろう。

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『舞姫』よりむしろ『うたかたの記』を下敷きにしたと言うべき『伯林―一八八八年』で、クララ・ヴァルターが養女であるのは、むろん、マリイが漁師夫婦の養女であるのに倣っているのだろう。『うたかたの記』のマリイの生い立ちは一種の貴種流離譚であり、貧しい漁師の娘となって、今は出自を隠しモデルとなって画学生に立ち混じっている孤児が、実は宮廷画家の娘であるのだ(「われを名高きスタインバハが娘なりとは知る人なし。今は美術家の中に立ちまじりて、唯面白くのみ日を暮せり」)。そして、林太郎とクララの養父の職業が同じなのは、巨勢とマリイの父がともに画家であるのに合わせてあるのだろう。しかし軍医の養女であるクララには、その上にもう一人、実の父がいる。クララを産んで亡くなった愛人の子を、実父は部下の軍医に託した。これにヒントを得て、マリイの父は本当にスタインバハなのかと問うてみることができよう。

 マリイの母は父によって王の手から逃れ、王との(敵うべくもない)組み打ちがそのあとに続いたと語られていた。しかし、その再現である湖での出会いでは、王とグッデンの格闘以前に、王にその名を呼ばれたマリイは、「あ」と声を発するのみで気を失い、すでに水に墜ちてしまっている。あるいは母のマリイも、父によって助けられるより先に、王の手に落ちてしまっていたのではないか。伝えられる事件の起きたのは、マリイが十二の時ではなく、さらに十二年を遡るのではあるまいか。『千匹皮』の王女のように巨勢の「夏外套」をまとい、舟中に蹲っていたマリイが、「彼は王なり」と叫んで立ち上がると、背にかかっていた外套が落ちて、「乱れたるこがね色の髪は、白き夏衣(なつごろも)の肩にたをたをとかかり」、王は娘をあやまたず「マリイ」と呼ぶのである。

 スーパー二階に出店の本屋に新潮文庫の『阿部一族・舞姫』があるのを見て、『うたかたの記』が入っているので買った(本当は口語文もオリジナルの仮名づかひで読みたいものだ)。レオニの地理的位置と、「スツヂイ」がStudie(習作)の意と知ったこと以外はほとんど役立たぬ註が付いていて、あらためて気になったこと一つ。再会から一週間後、訪ねて来たマリイに画家が言う「今もわが額(ぬか)に燃ゆるは君が唇なり」とは、ジェラール・ド・ネルヴァルの詩句「私の額は女王の口づけで今なお赤い」が出典ではなかろうか。しかも続く一行は「私はセイレーンの泳ぐ洞窟で夢を見た」である。もしもご存じの方がおいでになればぜひ御教示願いたい。

 巨勢は自分の進行中の作品についてこう語っていた。「我空想はかの少女(をとめ)をラインの岸の巌根に居らせて、手に一張の琴を把らせ、嗚咽の声を出させむ。下なる流にはわれ一葉の舟を泛べて、かなたへむきてもろ手高く挙げ、面にかぎりなき愛を見せたり。舟のめぐりには数知られぬ『ニツクセン』、『ニユムフエン』の形波間より出でて揶揄す」。巨勢の頭蓋は、あたかも数知れぬ水の精の泳ぐ洞窟のように、ラインの岸辺の風景を容れており、そこに彼自身も入り込んで命取りの女に手放しの愛を捧げているのだ。一度湖に落ちてよみがえるマリイは明らかに「水の娘」(ネルヴァル)だが、本来は男をその歌声(マリイの声音は最初の出会いで「『フアイルヘン、ゲフエルリヒ』(すみれめせ)と(…)いひし声の清さ、今に忘れず」と巨勢に言わせており、また再会の時は、「その声の清きに、いま来し客[巨勢]は耳傾(かたぶ)けつ」と、忘られぬかんばせと確信するより早く巨勢の注意を引いている)によって破滅させる半妖のはずである。彼らがシュタインベルク湖畔へと向かう、雨が徐々に繁くなり、雷鳴とどろく馬車の道行には、耳には聞えないワーグナーの音楽が鳴っているのだろう。

 先に挙げたネルヴァルの詩は「幻想詩篇」の有名な巻頭作「廃嫡者」だが、一つ前の詩節には「私はアモールかフェビュスかリュジニャンかビロンか」とあって、このうちリュジニャンとはメリュジーヌの恋人、これも半身が異形の人間ならざる女のモチーフだ。また、自らが何者かについて自問する「私は…」(Suis-je)のフレーズは、巨勢がマリイの身の上を聞きながら、「或るときはむかし別れし妹に逢ひたる兄の心となり、或るときは廃園に僵(たふ)れ伏したるヱヌスの像に、独(ひとり)悩める彫工の心となり、或るときはまた艶女(えんによ)に心動(うごか)され、われは堕ちじと戒むる沙門の心ともなりしが」とあるのを思い出させる。最後に巨勢は先に引いたように「胸騒ぎ肉顫(ふる)ひて、われにもあらで、少女が前に跪かむと」し、次いで「唯(ただ)母に引かるる穉子(おさなご)の如く従ひゆ」くのだが、それは、あらゆる女が、恋人であり母でありイシスにしてマリアである女神へ統合されてゆく、ネルヴァルが精神病院で書いた、彼の人生の総決算としての『オーレリア』最終部に似通っていると言えないこともない。言うまでもなく、それはジェラールの最初から失われていた“母“の像であってみれば、聖処女あるいは(聖)母の名前が“マリイ“であるのも、異邦人が上手くたくらんだ結果かもしれない。

 蛇足ながらネルヴァルは『ファウスト』のフランス語訳者、その意味ではいわば“フランスの鷗外“である。そういえばマリイの母が追いつめられた温室にも、「ファウストと少女との名高き石像」があった。

 しかしマリイの――そして鷗外という男の作家の――面白いところは、これまでにも見てきたように、彼女がけっして男の“夢の女“に還元しきれないことだ。「奇怪なる振舞するゆゑ」、狂人ではとまで言われ、他のモデル嬢と違って「人に肌見せねば、かたはにやといふもあり」と巨勢に友人エキステルが説明するマリイは、要するに“女ではない“と言われているのだ。

 こうした振舞の理由については、アトリエを訪れたマリイが自ら語っている。「美術家ほど世に行儀悪しきものなければ、独立(ひとりだ)ちて交るには、しばしも油断すべからず。寄らず、障らぬやうにせばやとおもひて、計らず見玉ふ如き不思議の癖者になりぬ。をりをりは我身、みづからも狂人にあらずやと疑ふばかりなり。」しかしこの態度は、エキステルによれば「教(をしへ)ありて気象よの常ならず、けがれたる行(おこなひ)なければ、美術諸生の仲間には喜びて友とする者多し」と教養と才気で彼らの中に入り込むことを可能にし、巨勢がエキステルに連れられて入ったカフェのセンターテーブルに、「余所には男客のみなるに、独(ひとり)ここには少女(をとめ)あり」となったのだった。

「我身、みづからも狂人にあらずやと疑ふばかりなり」は、一葉の「われは女なりけるものを」を思い出させる。また、男の学生に混じる姿は、それ以上に、鷗外の『青年』に登場する女学生、三枝茂子を連想させる。ただし彼女は、男を漁るために独逸語を教える学校に出入りしているとしか受け取られず(「茂子さんは初め女医になるのだと云って、日本医学校に這入って、男生ばかりの間に交って、随意科の独逸語を習っていたそうだ。その後(のち)何度学校を換えたか知れない。女子の学校では、英語と仏語の外は教えていないからでもあろうが、医学を罷(や)めたと云ってからも、男ばかりの私立学校を数えて廻っている。或る官立学校で独逸語を教えている教師の下宿に毎日通って、その教師と一しょに歩いていたのを見られたこともある。)」 また、マリイのように、男から「ヱヌス」や「バワリア」の像に似ているとも、「そのふるまひには自(おのづか)ら気高きところありて、かいなでの人と覚えず」と思われることも、「喜びて友と」されることもない。それどころか、「シャツの上に襲ねた襦袢の白衿には、だいぶ膩垢(あぶらあか)が附いていた」と、主人公の目に映りもしないことまで暴露されている。つまり、出会いの時のエリスの、「被りし巾(きれ)を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず」の正反対なのだ。

 別にエリスが美しいから(あるいは心が美しいから)身を包む衣装もきれいなわけではない。むしろこの階級だとエリスの母のように「古き獣綿の衣を着、汚れたる上靴を穿きたり」が普通で、だからこそ、エリスの清潔さに豊太郎が特に言及しているのだと気づいた。そういえば文庫本収録の『鶏』を初めて読んだが、小倉に赴任した鷗外の、(本当のことだけは書かない)奇妙な私小説で、「婆あさん」(五十くらい)の女中に不都合があって替りに来た娘は、性格はよいが一枚きりの着物の「膝の処には二所ばかりつぎが当つてゐる。それで給仕をする。汗臭い」。これで普通なのだ。「石田は三枚持つてゐる浴帷子(ゆかた)を一枚遣つた」。若い女と夜二人きりになるのを避けるため、石田はもう一人下女を雇おうとするが、来たのは十三歳の娘で「頗る不潔である」。

 孤児になったマリイがある日「新しき衣(きぬ)着よ」と言われたのは、商品として売り出されるためであった。父の埋葬代にもこと欠く貧しいエリスが、あの日、なぜ、「垢つき汚れたりとも見え」ぬ衣服を着けていたのか、豊太郎がどうしてそれを特筆していたのか、ようやくわかった。


【註】この、マリイを引き取った、没落したマリイ母娘が移り住んでいた「裏屋の二階」(日本式に呼べは三階)の、「一階高くすまひたる」住人の職業は「裁縫師」であるが、これは『うたかたの記』が、エリスの父の名とそれに添えられた「仕立物師」の文字が入口の戸に漆で書かれていた『舞姫』の、“夢の続き“だからだろう。また、六草いちか氏が、鷗外最後の下宿の一階上の四階に住む家主ルーシュ夫人の職業が先行研究では「洗濯屋」と訳されていたのが「縫製工場」(ミシン縫製のアトリエ)であるのを発見したのを読んだあとでは、こうした「事実」の細部が、いわゆる「昼の残滓」として、“夢“(作品)の生成に寄与したことは間違いないと思われる。

# by kaoruSZ | 2022-11-20 19:47 | 文学 | Comments(0)
『鷗外追想』という同時代の知己の回想を集めた本を読んでおり、身内をなくしたばかりの時に読むものではなかったとすぐに気づいたがそれは別にして、家族や著名な文人はもとより、さほどあるいは全く知られぬ人、博物館や図書(づしよ)寮で部下だった人、観潮楼裏門前に父の代から店があって一家に親しく接し鷗外の遺体の顔剃りもした床屋さんの文章まであり、興味深い。

 それがきっかけで『舞姫』のことを少し調べたら、エリスの身許について私は二十年位前に出た研究書(未読だが、新聞の書評欄などで大きく取り上げられた)の存在くらいしか知らなかったが、数年前にもっと決定的な本を出した女性がいたらしい。現在どう読まれているのか興味が湧き、検索して見つけた筑摩書房のサイトの元教師の男性の論考が、主人公の母が「諫死」(つまり自殺)したと内容を解説していたのでちょっと驚いて、そんな話だったろうかと訝しみつつ該当箇所を見ると、太田豊太郎の母から息子への手紙が着くのと時を同じくして、その死の報せも届いている(自死ではない)。「この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某(なにがし)が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運(はこび)を妨ぐればなり」。フィクションに偶然はないので、これは手紙の内容には触れずに済まし、その後の悲劇を母のせいにしないための仕掛けであろうと私は考えた。豊太郎は周知の通り、親友の「相澤」に感謝しつつ恨み、一切を彼のせいにして責任放棄している、現代の読者には共感し難い主人公だが、作者はここで周到に母を死なせて物語から母を消し去り、母をもあらかじめ免罪しているのだろうと考えた。それからすぐに別の考えが浮んだ。

 これに先立って私は、『鷗外追想』中の小金井喜美子「森於菟へ」を読みかけながら、甥への手紙の形を取った分別くさいオバサンの説教にうんざりして途中でページを閉じていた。於菟の『父親としての森鷗外』を読んだのはずいぶん前のことだが、『舞姫』についての文章は、若かりし日の父の(現実の)恋へのシンパシーが基調だったと記憶する。それが『舞姫』にモデルのあったことを世に知らしめた初めとは今回ネット検索していて知ったが、どうやら小金井喜美子にはこれがてんから気に入らなかったらしく、新聞に載った甥の文章をあげつらう公開書簡である。独逸時代のお父様に「こがね髪ゆらぎし少女」と同棲した事実はなく、誰もが知る通り仕事ぶりは真面目で悪い評判などなかった、誰にそんな話を聞きました、と詰問口調で畳みかける。それはそうだろう、讒言によって免官され、相手の踊り子と同棲し、復帰できると知って彼女を裏切り、高熱で意識不明の間に親友の相澤からそれを聞いた娘は発狂、胎内の子とともに女を捨てて帰国したのは、太田豊太郎であって森林太郎ではない。事実は、エリス(のモデル)があとを追ってきたのを――高校の国語教師が「エリスが横浜まで追いかけて来ちゃって」と言ったとき、驚きに教室がざわめいたのを覚えている――弟(篤次郎)や喜美子の夫・小金井良精が説得してそのまま返したとは、『舞姫』のメロドラマからは想像もつかない。

 小説中で母を死なせている点に戻ると、「書中の言を反覆するに堪えず」という口実で、ここで語り手は母の言を封殺している。実際には逆らえなかった母の影響を、鷗外は小説の中ではすっぱり廃している。彼はここでこういう形で、あっさり母を殺している。たとえ意識に上ることがなかったとしても、これは母殺しではないのか。

 けれども母は死なない。これ以後母の意思は「相澤」が代行することになり、女を切り捨てることに成功するのだから。だが鷗外は『舞姫』を書くことで、彼らがそれしか知らない、金で解決可能な情事とは別なものがあることを、不器用ながら敢然と示してみせたわけで、これ自体が母に対する叛逆だろう。

 これは母殺しでは。そこまで考えたところで、私は読みさした小金井喜美子の文章に戻った。驚いたことに、『舞姫』は書き上げられるとただちに鷗外自身の希望で、篤次郎によって家族の前で(本人と父親――存命なのだが影の薄い父親――は不在)朗読され、読み手も聞き手も涙するという、想像を越えた展開だった。恋など生涯無縁でも近松には心を揺さぶられるようなものだろうか。「暫く沈黙の続いた後、『ほんとによく書けて居ますね』といひ出したのは私[喜美子]でした。お祖母様はうなづきながら、『賀古さんは何と御言ひになるだらう』」と言ったとある。相澤のモデルの賀古鶴所(かこつるど)が自分の罪もかぶったのを、母の峰はわかっていたのだ。

 篤次郎の伝える「何昨夜見えたので読んで聞せたら、己れ[おれ]の親分気分がよく出て居るとひどく喜んで」云々という賀古の反応も理解し難いが、母親諌死説を主張する最初に引いた元高校教師“舞姫先生“は、「鴎外が豊太郎の母親を「諌死」させた理由は、峰子を満足させるために、毅然たる母親像を描きたかったからではないでしょうか」と言い(鈴原一生「舞姫先生は語る」(https://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho/tsuushin/rensai/maihime-sensei/004-02.html)、賀古同様、母もこの扱いに満足したろうと言っている(作品による「隠された母殺し」は完璧だった訳だ!)

 ともかく『舞姫』は発表されて評判もよく、「今までの何か心の底にあつたこだはりがとれて、皆ほんとに喜んだのでした」というのが喜美子の結論で、それを今頃になって余計なことをと甥に言ってやっている訳だ。すでに述べたように私は於菟の回想は読んだが喜美子のこの文章は初見であり、それでも“エリス”に向けた聞くに堪えない物言いは引用で知っていた。しかしこの中の、帰国後のエリスについての鷗外からの情報として、エリスが「帽子会社の意匠部」に勤めることになったという話は覚えがなかった。鷗外のイニシャルを縫い取った(「空色の繻子とリボンを巧につかつて、金糸でエムとアアルのモノグラムを刺繍した」)ハンカチ入れのことがその直前に出てくるが(これは何かで読んでいた)、そういう手芸の達者な人なら、当時の装飾的な女物の帽子のデザインを手がけるのにはなるほど向いていよう。そしてこのあとネットで六草いちか氏の労作『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(もう十一年も前に出ていたのだった)について調べ、著者が見つけた後年のエリスの写真も、発見を報じる新聞記事の画像で見たが、そこには帰国後、エリス(のモデルと目される人)が帽子製造をしていたとあった。間違いなくこの人だ!(いや、事実は逆で、六草氏はその情報を手がかりに調査を進めたのに違いない)。どうしてもこの本を読まなければ。

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 その前に肝心の『舞姫』を読み返した。通読するのは高校の教科書以来かもしれなかった。当時私は古文より漢文が好きで文語動詞の活用を覚えるのなどは特に嫌いだったから、不思議なことにすらすら読めて苦もなく理解できる文語文に出会って喜んだものだ(文の構造も語彙も内容も“古文“ではないからだとはすぐに気づいたが)。今読むとこの短篇は全くのお伽噺ではないか。「森鷗外の『舞姫』」という文字の並びくらいは以前から目にしていたが、この典雅な「舞姫」なる語が要するにダンサー、それもたやすく娼婦に身を落す境遇の踊り子を指すと知って当時はまず驚いたと思う。しかし今、この物語の背後には作者の実体験があると知った上で“普通に”読んで、主人公の恋人のモデルが本当に“舞姫”だったとはとても思えない。「或る日の夕暮」、父をなくし葬りの金もなく教会の門に倚って啜り泣く少女という例の出会いも、どう見ても嘘っぱちだろう。むろん嘘というのは「本当にあったこと」に対してであり、物語としてはよく出来ている。金のために劇場の抱え主に身をまかせるしかない、しかも母にまでそれを強いられようとして道端で声を殺して泣くよるべない美少女との、絵に描いたような――いや、まるで“小説のような“――出会い。エリスにとってはあやういところを救ってくれた王子様との出会いであり、豊太郎にとっては、西洋の作物で読んだことしかない恋のはじまりだ。社会の底辺の踊り子と新興国家のエリート留学生との“清らかな“交流は、しかし「色を舞姫の群に漁する」と日本人仲間から誤解され、「芝居に出入りして女優と交る」と讒言されて、豊太郎は任を解かれる。

 お伽噺というのは、綺麗事という意味ではなく、単純化、寓意化されているということだ。娘を食い物にする実母を持つシンデレラと王子様の身分違いの恋もそうだが、豊太郎の係累も、母ひとり子ひとりの境遇にまで絞られている(実際の森家は元藩医の父も健在で十歳だった林太郎と二人でいち早く津和野から出てきており、下に二男一女があり、神童と呼ばれた林太郎は一家の希望の星だった)。母の死というフィクションも、お伽噺化でなくて何であろう。悲劇性は強められ、しかも実はこの「母殺し」で豊太郎は自由になったはずなのだ。実際、公費で帰国する機会を捨てて豊太郎はエリス母子の家に転がり込み、貧しくとも幸福な“愛の生活“がはじまる(スキャンダルによる奨学金打ち切りも同棲も喜美子によって否定されているところだ)。この時日本から救いの手を差し伸べ、新聞社の通信員の仕事を世話して、ベルリン生活の継続を可能にした友人として登場するのが相澤謙吉である。これに続く、豊太郎が備え付けの新聞を次々読んでメモを取るカフェの様子や、劇場での稽古の帰りにエリスが顔を出して一緒に帰宅するところなど、「よく書けて居」るのに全く覚えがなく、高校生が読むには早過ぎたか(形式や内容でなく細部を読み味わうという点で)と思うばかりだ。

「エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ」というこの「月日」はどのくらい続いたのだろう。わからない。公費で送り返されるか、それとも独りドイツに留まるかの決断に「一週日の猶予を請ひて」思い惑ううちに母と親族からの書状が届くが、考えてみたらこの不名誉を母が知って手紙をよこすには(航空便ではないのだし)、相当の時間がかかるはずだ。とすればこの時点で母の「諫死」など全くありえないではないか。それとも、豊太郎の醜聞は免官以前から、日本にいる母の耳にまで達していたのだろうか(そうだとしても、免官という決定的な事件なしに「諫死」するとも思えない)。「この二通は殆ど同時にいだしゝもの」という、その「時」とはいつなのか。母の最後の手紙は、エリスの件とは無関係ということもありうるのでは。エリスと出会った「或る日の夕暮」がいつのことかも、季節の推移も、その後どれくらいの月日が経ったのかについても記述はない。留学の徒についたのは五年前(ごとせまへ)で、三年ほど過ぎてエリスを知ったという枠は一応あるのだが、「楽しき月日」は常世で過した年月のように無時間的で、実はほんの僅かな間かもしれないとも思わせる(ついに事態が動きはじめる時――相澤から呼び出しが来た時――「政治社会に出でんとの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを」と豊太郎が言っているので、年単位で時が過ぎたようであるが、感覚的にはとてもそうは思えない)。はっきりしているのは、「明治廿一年の冬は来にけり」、つまり現実には秋に鷗外が帰国しエリスが来朝した年である一八八八年の冬のはじまりを告げる一句ばかりだ。

 エリスが鷗外を追って日本まで来たと国語の教師から聞いたとは前に書いたが、その時期を私はずっと『舞姫』発表の後とばかり思っていた。事実関係についてそれ以上聞かされた覚えはないが、昔ヨーロッパで関係があった女と東京で索漠たる再会をする『普請中』のコピーを配って読ませてくれた(茂吉の「死にたまふ母」の抜粋が教科書にあれば全篇のコピーが、賢治の「永訣の朝」一篇に対してはとし子の死を主題とする他の詩篇のコピーが配られ、Kの死のみを載せる『こころ』の場合は、全篇に加えて『吾輩は猫である』も読んでおくことが夏休みの宿題として課せられる、といった具合だった)。実際には『舞姫』は八九年暮れに書き上げられ、九〇年一月号の雑誌に載る。思えば鷗外ゆかりのと聞く「水月ホテル鷗外荘」は高校の近所だったのだが、当時は古びた看板を掲げていたのがすっかり綺麗になって、と思ううちに先頃廃業してしまったけれど、そういえばそこで『舞姫』を書いた「舞姫の間」というのを売りにしていた。鷗外旧居といっても鷗外は千駄木だけで住居とした地が二つある訳で、今一つぴんと来なかったが、今回『舞姫』は上野花園町の(新婚の)家で書かれ、そこは赤松家の所有だったと知ってようやく(私の中では)繋がった。あとで調べると八八年九月八日鷗外帰朝、十二日エリーゼ・ヴィーゲルト横浜着、十月十七日エリーゼ横浜出航、翌八九年三月、赤松登志子と結婚、九〇年一月『舞姫』発表、九一年九月於菟出生、十月鷗外家出、十一月登志子離縁という流れだったのだ。

 一八八八年(から翌年にかけて)の冬のベルリンに戻ると、そこに至るまでのお伽噺的無時間性に対して、これが冬でなければならなかった理由ははっきりしている。エリスに対する決定的な裏切り――天方伯に与えた、随行して帰国することを「承りはべり」という返事――による主人公の内面の惑乱に釣り合うだけの天地の恐るべき変容が、雪の降りしきるなか何時間もベンチで眠り込み、肩にも「帽子の庇」にも雪が積もった状態で立ち上がり、さらに一時間歩いて雪と泥にまみれて家に辿りつくという、ほとんど自殺行為に等しい行動で、エリスに直接向き合い真実を話さなければならなくなる状況を回避、目が醒めた時には残らず片がついている――とは言わぬまでも、もはや自分ではどうしようもなくなるまで事態が進展するあいだ人事不省でいられるだけの、厳しい気候が必要だったのだ。

「明治廿一年の冬」は、「朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり」という、「室(へや)を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿つ北欧羅巴の寒さ」の記述からはじまる――野生の鳥に本当にそんなことがあるものかどうか知らないが、かかる寒さの中、決定的な裏切りのあと、夜に入って戸外のベンチで「灼くが如く熱し、椎(つち)にて打たるる如く響く頭(かしら)」をもたせかけ、「死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は」云々に至って省みれば、「落ちて死にたる雀」とは、ベンチから転げ落ちてそうなっていたかもしれない豊太郎自身なのだ(このあたりの細部も――雀以外は――昔読んだことを全く覚えていなかった)。

 エリスに妊娠の徴候があり「若し真(まこと)なりせばいかにせまし」と豊太郎が思う中、大臣の天方伯に随行して当地に来た相澤からの書状が届く。母の手紙の出された時が気になったのでこの手紙も、逆になぜあらかじめ日本からベルリン行きを知らせておかなかったのかという気がしたが、要するに不意打ちであることと、ここで話を劇的に進ませることの必要からだろう。実際、豊太郎は、「伯の汝を見まほしとのたまふに疾く来よ。汝が名誉を恢復するも此時にあるべきぞ」という文面に応えて「急ぐといへば今よりこそ」と日曜の朝の炉辺から立ち上がる。エリスは体調の悪さを押して手づから一張羅を着せ、「これにて見苦しとは誰れも得言はじ」と言う。「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず」。そうか、これは“逆蝶々夫人“なのだと気がついた。男はいつか本来の姿をあらわして(これでは“逆鶴女房“か)、故国へ帰ってしまうのだ。「われも諸共に行かまほしきを。」というエリスの何気ない一言は、実は彼女と恋人との認識の残酷な隔たりを示すものだ。豊太郎には彼女を、日本人仲間に伴侶として紹介するつもりなど毛頭ないからだ。

「縦令(よしや)富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ」というエリスに微笑して、「何、富貴。」「政治社会に出でんとの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」という豊太郎の言葉は、それでも嘘ではあるまい。彼がそのような善良な心の持主だというのではない、この時点では本気でそう言ってしまう人物としてこの主人公が設定されているという意味だ。「エリスが母の呼びし一等『ドロシュケ』」が、雪道に車輪をきしらせながら窓の下に横づけされる。良き未来に通じると期待される――実は別れのはじまりである――門出のために、(馬の引く)ハイヤーが呼ばれたのである。

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 相澤謙吉とは何者だろう。ともに大学にあったとき「余が品行の方正なるを激賞」した相澤が今の自分をどんな顔で迎えるかと思う豊太郎だが、現れた友は変らぬ「快活の気象」で、「我失行をもさまで意に介せざりき」と見える。大臣に拝謁しドイツ語の文書の翻訳を依頼された後、豊太郎は相澤と昼餉をともにして「不幸なる閲歴」を語るが、この時も相手は驚きはしても「なかなかに余を譴(せ)めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき」。 明らかに豊太郎は、相澤にどう思われるか、自分が非難されないかをひどく気にしており、相手の寛大な態度に安堵しているのだ。「学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的なき生活(なりはひ)をなすべき」と説く相澤は、自らが有能であることを天方伯に示して信用を得よ、「彼(かの)少女との関係は(…)意を決して断て」と豊太郎に言う。前者の実現を覚束なく思いながら、後者について反論もせずに、「貧きが中にも楽しきはいまの生活(なりはひ)、棄て難きはエリスが愛」とわかっていながら「この情縁を断たんと約し」てしまうのも、いろいろ理由をつけてはいるが、要するに相澤によく思われたいからだろう。

 相澤が「旧に比ぶれば肥えて逞ましくなりた」る姿を実際に読者の前に現すのは、一篇のうちでこのくだりだけである。次第に心やすく言葉をかけてくれるようになった伯から、明日、ロシアに向けて出発するがと不意に同行を求められた時は、豊太郎は公務に忙しい相澤を数日間見ていない。エリスの妊娠が疑われ相澤と再会してからロシア行きまではひと月、ペテルブルクには二十日以上滞在しベルリンに戻ったのは年が明けた元日の朝と、冬に入ってからの時間経過はそれまでと比べはっきりしている(破局まではもはや数日しかない)。姿を現さぬ相澤は、しかし、「余が軽率にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たむといひしを早く大臣に告げ」ていたのだし、大臣が(相澤の思惑通り)、ドイツ語の翻訳者、またペテルブルクでのフランス語の使い手としての豊太郎の才を認め、気に入って連れ帰りたいと思うようになったのを本人に先んじて承知していたのだ。

 大臣が「滞留の余りに久しければ、様々の係累もやあらんと、相澤に問ひしに、さることなしと聞きて落居(おちゐ)たりと宣ふ」のを、豊太郎は否定することもできずに随行を承諾する。そしてその夜(あの雪の夜)から数週間、意識不明だったあいだに、相澤は訪ねてきて、豊太郎を看病するエリスに、彼の隠していたことを洗いざらい話してしまう。彼女とは別れると約束したことも、天方伯に従っての帰国も。豊太郎が(本当にそれが望みなら)はっきり自分で言うべきことを、相澤は、彼の知らないところで、彼の代りに言っているのだ。

 そして相澤は今も彼のそばにいる。天方大臣の秘書官で随行員、つまりともに帰国するのだから当然であるが、そして冒頭で、サイゴンで石炭が積み込まれる宵、仲間は上陸してホテルに泊り「舟に残れるは余一人」とあるので、実際にはやはり読者の前には姿を見せないのであるが。そしてこの相澤の不在が豊太郎に「日記(にき)ものせむとて」求めたものの白紙のままだった冊子に、思いのたけを綴った手記、すなわちこの『舞姫』のテクストを書くことを可能にしたのである。相澤謙吉とは何者だろう。

「この間余はエリスを忘れざりき」。ペテルブルク滞在について豊太郎はそう記す。「巴里(パリー)絶頂の驕奢を、氷雪の裡に移したる王城の粧飾(さうしよく)」、ことさらに点した「黄蠟の燭」を反射する「幾星の勲章、幾枝の『エポレット』」、「宮女の扇の閃きなど」に囲まれた日々(豊太郎はまるで舞踏会に拉し去られたシンデレラのようだ)、「この間仏蘭西語を最も円滑に使ふはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき」と水を得た魚のように才を発揮しながらも、エリスを忘れることはなかったというのだ。

「否、彼は日毎に書(ふみ)を寄せしかばえ忘れざりき。」離れてみて豊太郎への自らの思いの深さを今こそ知ったというエリスの纏綿たる書(ふみ)は、あるいは鷗外が実際にエリーゼから受け取ったり、直接言われたりしたことの反映かもしれない。ここではあの啜り泣いていた物語の薄幸の少女は影を潜め、自我のある一人の女がものを言っているのが感じられるからだ。すでにエリスはいざとなれば豊太郎について日本へ行く決心までしている。「大臣の君」の覚えがめでたいことを豊太郎の手紙から知った彼女は、自分の渡航費も工面できようとの希望を持つ。反対していた母もそこまでエリスの心が固いのを見て、「わが東(ひんがし)に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる」というのにも、娘に寄生する悪い母ではない、子を思う母のリアルな心情がのぞく。

 ところが豊太郎の方はこの手紙を見てはじめて自分の置かれた立場を「明視し得た」と言うのだから、読者はクズ男とか男の身勝手とか呼ぶ前に、この、頭脳明晰な才ある男の、本人も言っている異常なまでの「鈍さ」に注目すべきだろう。彼は大臣が自らをすでに厚遇するようになっているのに気づいていながら、その信用を「やや得た」という程度の認識で、「これに未来の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想(おもひ)至らざりき」とまで言うのである。この「鈍き心」を補うものこそ、事態を見透している相澤の“明視“に他ならない。豊太郎に欠けている、というかわざと欠けさせられた部分を、この「親友」(あるいは「親分」)は一手に引き受けている。すでに述べたように豊太郎を帰朝に同行させこれからも用いたいとの大臣の意向を、相澤はいち早く知り(これを明言せず匂わせるだけだったことは、「大臣のかく宣ひしを、友ながらも公事なれば明(あきらか)には告げざりしか」と合理化されている)、また、大臣のこの判断は、相澤が、太田は女とは別れると言っています(実際そう言ったのだ)、と大臣に注進したのであろうことに少なからず基づいている。相澤とは豊太郎の「鈍さ」を補完する、欠くべからざるパートなのだ。

 元旦の静まり返った凍れる道を馬車が彼らの住むクロステル街に至って、「家の入口に駐まりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁に「カバン」持たせて梯を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一声叫びて我頸(うなじ)を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やら髭のうちにて云ひしが聞えず」というあたりも「よく書けて居」よう。この場面は、最初に天方伯の滞在するホテルに向けて出発する時、エリスに接吻して外階段を降りた豊太郎を、上階で窓を開けたエリスが、「乱れし髪を朔風に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ」に対応しているのだ。ロシアへ行く時はエリスを他所へやって豊太郎が「旅装整えて戸を鎖(とざ)し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けぬ」としたのは、繰り返しを避けるためだったと分る。「幾階へか持ちて行くべき」と、カバンを持った馭者は階段を先に上がって叫ぶ。吹雪の中を豊太郎がボロボロになって帰りつく来るべき夜、中にエリスを容れたこの四階の屋根裏の窓は闇の中に一つだけ明りをともし、降りしきる雪に見えかくれして「風に弄ばるるに似たり」となるだろう。鷗外のこの処女作は本当に「よく書けて居」る。

「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを」と首に腕を絡ませたエリスに言われ、手を引かれて部屋に入って「白き木綿、白き『レエス』」を堆く積んで子の誕生に備えるさまを見せられた数日後には、しかし豊太郎は大臣に招かれて参上し、帰国を承諾してしまう。そして半ば意図的な遭難、相澤の訪問、エリスの発狂。これはやはり、形式化、単純化された、「黄なる面」「黒き瞳子(ひとみ)」の日本男児が、茜さす乳色の肌、「こがね色の髪」、「青く清ら」な目(まみ)の少女(をとめ)に熱愛される、「蝶々さん」や「お菊さん」の向うを張った(ロラン・バルトがピエール・ロチの『アジヤデ』について書いている、作者(筆名であるが)と同名の若い海軍士官が異国の美女との恋の果てに死ぬ、しかし作者の方は生きのびて作家/軍人としてのキャリアを全うするとは、主人公が死なず、名前に少し細工していることを除けば、鷗外の場合にそっくりではないか)、ロマンティックでエキゾティックな悲恋としてのお伽噺なのだ。豊太郎が(人事不省で)知らないあいだに、相澤は件の部屋にやって来る。これは彼の秘密に、その隠していた部分にずかずか入り込んできたということだ。そして相澤は、あろうことか豊太郎がエリスに言わなかった(言えなかった)ことをぺらぺら喋って、エリスを「精神的に殺し」てしまう。豊太郎の意識がないとき最も傍若無人にふるまい、彼とエリスの運命を不可逆的に変えてしまったこの悪魔は、実のところ彼の分身だろう。

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「此時余を助けしは今我同行の一人なる相澤謙吉なり」。相澤謙吉の名はこれが初出である。「此時」とは、むろん免職された時だが、当時相澤は東京にいて「余が免官の官報に出でしを見」、「某(なにがし)新聞の編輯長」に口を利いてくれたのだ。その後伯に従ってベルリンに来るのもすでに見た通りだが、はじめ読む時は記憶に残らないであろう「今我同行の一人なる」という何気ない一句は、読み返すと相当不気味ではないか。物語のはじめで「微恙にことよせて室の裡にのみ籠りて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨(うらみ)に頭(かしら)のみ悩ましたればなり」とあった、「同行の人々」の中に相澤はいたのだ。しかもその「恨」とは、「同行の一人なる」相澤に向けられた怨みで(も)あった――この事実を読者が知るのはようやく最終行に至ってでしかない。

 むろん「恨」とは「悔恨」を指しもするのだろう。後に残してきた「生ける屍(かばね)」、「あはれなる狂女」、「精神の作用は殆(ほとんど)全く廃して、その痴なること赤子の如く」と呼ばれるエリスをめぐる思いこそが、「瑞西の山色」も「伊太利の古蹟」も豊太郎をして楽しませず、「世を厭ひ、身をはかなみて、腸(はらわた)日ごとに九廻すともいふべき惨痛を」彼に負わせ、それがいくらか収まって「一点の翳とのみ」なっても、「文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度(いくたび)となく」彼の心を苦しませるのだ。エリスの「胎内に遺しゝ子」も生まれていない時点であろうに「懐旧の情」はまだ早過ぎる気がするが、それほどまでに、もはや全てが取り戻しようもなく――エリスへの「パラノイア」という診断は今日の目からは首をかしげさせようが、一時的な錯乱ではなく「治癒の見込なし」と言い渡されている――悔恨の種へと変じてしまっている。そして最後に残るのが、相澤への一点の「憎しみ」だ。

 周知の通り『舞姫』は次の文で終っている。「嗚呼、相澤謙吉の如き良友は世にまた得がたがるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」。エリスへの「愛」ではなく、相澤への「憎しみ」で幕を閉じるラヴ・ストーリー(しかも苦しみはなお日々あたらしく、もっと憎んでもよさそうなのにただ「一点」であるのだから、基本的に豊太郎は相澤を許しているのだろう)。「今日までも残れりけり」の「今日」を、昔読んだ時は「後年」と思った(と記憶する)のも、この「一点」のせいだが、これはむろん船室でこの文章を書いている「現在」である。「ああ、いかにしてかこの恨を銷(せう)せむ」と豊太郎は初めに嘆じていた。「他の恨であれば詩に詠じ歌によめる後は心地すがすがしくもなりなむ」。この和漢洋の教養を身につけた明治二十年代の青年にとって、漢詩や和歌とはそのようなメディアであったのだ。しかし、「これのみはあまりに深く我心に彫(ゑ)りつけられたればさはあらじと」思われた。けれども今宵は一人になれたので「その概略を文に綴りてみむ」。要するに彼は、「本当にあったこと」(少なくともそう称されること)を語り手が叙述する、しかもあえてそうしなければ他人にはうかがい知ることのできない(「我心に彫(ゑ)りつけられた」)「内面」の告白、つまり一人称の小説を書きはじめたのである。

 もちろん太田豊太郎は『舞姫』の作者、森林太郎ではない。しかし彼は「某省」より派遣されて実務をこなしつつ法学を学ぶ身で「欧羅巴の新大都」の新鮮なる息吹と「自由なる大学の風」に触れ、自分は政治家にも法律家にも向かないと思うようになり、それまで父の遺志、母の願いに添わんとのみして、与えられたレールの上を走っていた――「人のたどらせたる道を、唯だ一絛(ひとすぢ)にたどりしのみ」――のが、「歴史文学に心を寄せ」「漸く蔗を嚙む境に至りぬ」――つまり味わうことができるようになった。「奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり」。船室でもの書き綴る我とは、明らかにこちらの我なのである。

 権威に従うばかりの優等生のいい子ちゃんだった豊太郎に、こうしてはじめて葛藤が生まれる。一方、「官長」からは有能で従順な使い勝手のよい部下だったのが、自分の意見を主張するようになったせいで疎まれる。エリスとの関係も、はじめて知ったこの自由の延長上に、生まれるべくして生まれたものであるのはいうまでもない。しかし、もともと同輩とのつきあいが悪く、今また(金で買える女ではない)素人娘が下宿に出入りする豊太郎の生活は、ホモソーシャルな「同郷人」の反感を買うことになって「官長」に告げ口するものが現れ、劇場に出入りし女優と交わると讒訴される。

 もちろんこれは濡衣だが、しかし豊太郎の“分裂“はたとえエリス問題が収まったとしても厳然としてあり、後年の森林太郎の職業の二重性にまで繋がるものだ。この“分裂“は、だが「奥深く潜みたりしまことの我」が「きのふまでの我ならぬ我を攻むる」形で起こるのではない。相澤謙吉を太田豊太郎の分身と仮定する時、驚くべきは彼らが“分身に見えない“ことだ。豊太郎はジキルとハイドのような二重人格ではなく、相澤も彼の第二人格ではない――ではないが、すでに見たように、相澤は豊太郎がすべきでありながらためらっていることを代りに片付けてくれる“相棒“なのである。

 また、豊太郎と相澤はウィリアム・ウィルスンと、同名のもう一人の男のように、互いの見た目が似ている訳ではない。しかし相澤は分身の方のウィルスンのように、豊太郎の行為を批判し、否定してくる。これはポーの小説におけるような、善と悪という単純な二分法に基づく行動ではない。自己の内部にあるものを排除して自己の一部を外在化する――これは投影と呼ばれるものだ。豊太郎は非難されるべき自己を、もっぱら相澤に投影している。しかも相澤が敵ではなく友であるがゆえに――「余は(…)おのれに敵するものには抵抗すれども、友に対して否とは対(こた)へぬが常なり」――豊太郎は逆らえないのである。

 この友は、すでに見たように豊太郎に寛容だ。彼はウィルスンの分身のような「超自我」ではないが、それでもオーソリティーであり、賀古鶴戸が自称した通り「親分気分」、つまり磊落で面倒見の良い「快活な気象」の“親“なのだ。母親はあらかじめ退場させたが、こうして“親“は、豊太郎が早くなくしたはずの“父親“として回帰してくる。

 ところで、この短い物語にもう一人“父“が登場していたのを読者は覚えていよう。他ならぬ豊太郎とエリスの出会いの原因となった父、彼が通された最上階の住まいで、半ば開いたドアの向うに見えた「白布を掩(おほ)へる臥床(ふしど)」に横たわっていた父である。もう一つのドアをエリスが開けて豊太郎を導き入れたのは、「所謂(いはゆる)マンサルドの街に面した一間」で、読み返すと、エリスが北風に髪をなびかせて見送ったのも、下の通りに馬車が停ったのに気づいて見おろしたのも、豊太郎が見上げた時、吹雪の中で見え隠れしていたのも、通りに開いたその窓だと分る(つまり、この時の豊太郎には思いもつかなかった「憂きがなかにも楽しき月日」を送ることになる場所である)。屋根裏部屋の斜めの梁の下の「立たば頭(かしら)の支(つか)ふべき処に臥床あり」。これはエリスの寝台で、「中央には美しき氈(かも)を掛けて(…)こゝには似合はしからぬ価(あたひ)高き花束を生けたり」とあるのは、例の劇場の抱え主(「座頭(ざがしら)」)からの供花(くげ)ならむと教科書で読んだ時も思った(と記憶する)が、“舞姫先生“鈴原氏は、エリスの母が最初エリスのみを家に入れて、豊太郎の鼻先で荒々しく入口の戸を閉めたのは、座頭シヤウムベルヒを迎えに行ったはずの娘が見知らぬ東洋人を連れて帰ったのに当てがはずれたからで、それ自体が座頭の贈物である花束を飾った部屋の臥床ではエリスの身売りが行われようとしていたと読む。父の遺骸が同じ屋根の下にある部屋で、その埋葬代の工面に娘をというのはおぞまし過ぎてリアリズム的には無いと私は思うが、別室には死せる父が横たわり、ベッドを置いた部屋の高価なる花の飾られた机の「傍に少女は羞(はぢ)を帯びて立てり」という構図は、そう読ませるだけのなかなか象徴的な絵をかたちづくっていよう。花束は父の枕頭ではなく「少女」と並べて置かれることで彼女の換喩となり、シヤウムベルヒの(少女を買う)“花代“の一部にもなる。「人の憂に附けこみて、身勝手なるいひ掛け」した座頭とそれに従わないからと自分を叩いた母の仕打ちを訴え、借金を申し入れる少女に、豊太郎は懐中時計を外して渡し、受け出しには質屋の使いをよこすようにと住所と身許を告げる。

 こうして娘は「耻なき人」となるところだったのを彼に救われるが、そもそも「賤しき限りなる業に堕ちぬは稀なりとぞいふなる」“舞姫“として働きながらエリスがそうならずにすんでいたのは、「おとなしき性質と、剛気ある父の守護と」があってこそであった。臥床に横たわっていた“父“と入れ替りに豊太郎は娘の「守護者」になるが、「剛気ある父」では結局ありえなかった。それどころか、帰国時は「相澤と議(はか)りてエリスが母に微かなる生計(たつき)を営むに足るほどの資金を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ」なのだから、人並みの“父“になることすらできなかったのである

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 豊太郎の醜聞と免官という「失行」の原因は、テクストに明瞭にかつ繰り返し書き込まれている。それはエリスの父の「剛気」、相澤の「快活な気象」やそのモデルの「親分気分」のまさに反対物である、「弱き心」に他ならない。相澤曰く「この一段のことは素(も)と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし」。この「弱き心」が、そもそもエリスと知り合う以前に「留学生の中(うち)にて、或る勢力ある一群(ひとむれ)」と自分との間に「面白からぬ関係」を生じさせ、ついにエリスの件での讒誣に至ったのだと先に豊太郎は述べていた。「されどこれとても其(その)故なくてやは」。要するに「余が倶に麦酒(ビイル)の杯をも挙げず、球突きの棒(キユウ)をも取ら」ず、女遊びもしないのを、「かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且(かつ)は嘲り且は嫉(ねた)みたりけむ」。事実はそうではなかったのだと豊太郎は主張する。「わが心はかの合歓といふ木の葉に似て、物触(さや)れば縮みて避けんとす。我心は処女に似たり」。あるいは、「舟の横浜を離るるまでは、天晴(あつぱれ)豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾(しゆきん)を濡らしつるを我れ乍(なが)ら怪しと思ひしが、これぞなかなかに我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん」

 自らの「心の弱さ」ゆえに、毅然として周囲の圧力をはねのけエリスと子供を守り切ることができなかったと言いたいのかと思うとそうではない。それ以前に、男たちのホモソーシャルな集団に入れなかったのは勇気のなさからだったのに、それを、誤解されたと言い、「彼(かの)人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや、この弱くふびんなる心を」と自分を不憫がっていたのだ。この“たをやめぶり“は異常ではないか? しかしここに至ってみれば、「時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ」「歴史文学に心を寄せ」云々と語られていた「奥深くひそみしまことのわれ」とは、実はこのfemininityと不可分だったと分る。普段は「骨牌(カルタ)仲間」が集ひ来るまさしくホモソーシャルな男たちの牙城である船室で、「日記(にき)ものせむとて」買った冊子の日々の記録は空白のまま、ひとりになった太田豊太郎は、その女々しく、センチメンタルで、弱く、ふびんな心を、男も「文に綴りてみむ」とて記しはじめるのだ。

 だから太田豊太郎が森林太郎でなくとも、彼がこの船室で、「熾熱燈」のまばゆい光の下で書きはじめたのは、原理的には「小説」であると考えられる。士大夫が志を述べる漢詩でも、コミュニケーションの手段であり歌会の場で共有される和歌でもない、書いたからといって「心地すがすがしく」なりそうもなく、おまけに読者にもすがすがしくない読後感を残す(書かれた時点での森家の人々及び“相澤“にはそうではなかったようだが)小説。相澤には「縦令(よしや)彼に誠ありとも」、「縦令情交は深くなりぬとも」、所詮「一少女の情」に「かかずりあ」ふことでしかなかったエリスとの関係が、ここであらためて焦点化される。

 病床の豊太郎を相澤が尋ねるくだりを、私たちはこの当時はまだ存在しなかった初期の映画として、アナクロニックに想像することもできよう。豊太郎がこの友人には隠していた「秘密の小部屋」に押し入って(実際にはエリスの母に案内されて)、相澤は高熱を発して横たわる豊太郎と、付ききりで看取るエリス、傍の卓に積まれた出産準備、つまりは「かれに余が隠せる顚末」を目のあたりにすることになる。ここで相澤は悪の分身としての正体をあらわして(相澤役の俳優は豊太郎にそっくりの服装、髪型、メーキャップをするのがよかろう)エリスに迫り、彼が彼女に隠していた顚末――「余が相澤に与へし約束、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾」――をエリスに告げ、彼女は「俄に座より躍り上がり」、豊太郎への怨嗟の叫びとともに床に倒れる。目覚めたエリスの、恐らく鷗外が当時の精神医学の症例記録から持ってきたと思われる狂人の振舞いまで併せて、身振りの誇張された無声映画として表現されるのにふさわしいのではないか。ところで、この間、騒ぎを知らずに「眠り男」のように身を横たえていた豊太郎は、事件後、エリスと入れ替るように正気に戻ったのだから、豊太郎の「秘密の小部屋」に踏み入った相澤がそこで見出した彼の秘密、彼の隠していた〈女〉とは、ある意味、豊太郎その人の女性性でもあろう。

 豊太郎の秘密の小部屋と呼んだのは、『舞姫』と同時代のある中編小説を扱ったエレイン・ショウォールターの論文のタイトル――「ジキル博士の秘密の小部屋」――が頭にあってのことだった。ジキルの友人アタスンと執事のブールは、最後にそこに力づくで押し入ってハイドの死体と姿見を見つける。ジキルの姿はどこにもない。ショウォールターによれば、姿見は、「ジキルの、男にあるまじきナルシシズムを明らかにするばかりでなく、同性愛を扱った文学において鏡をその強迫的な象徴としてきた、仮面と「他者」の意味をも明らかにしている」という。詳しくは原典(『性のアナーキー 世紀末のジェンダーと文化』)にあたって頂くとして、豊太郎の部屋にも鏡はあった。相澤に会う彼に、母のように念入りに身なりを整えさせた時、エリスが「我鏡に向きて見玉へ」と言った鏡である。そこに映る姿を、「かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず」と彼女は言ったのである。あれが、エリスから豊太郎が離れるはじめであった。「エリスが母の呼びし一等ドロシュケ」とは、やはり、豊太郎をロシアの“舞踏会“へ運び去るかぼちゃの馬車の先駈けであったのだ。この錯綜したシンデレラ譚でこうしてエリスは王子様を失うことになるが、そのはじまりは彼女の鏡に映った豊太郎の見なれぬ影だった。

 相澤や天方伯には、醜聞の種となった女と後腐れなく別れ、天晴“舞踏会“で活躍すると見えた豊太郎の仮面は、ベルリンの街中での“遭難“で剝がれることになる――「一月上旬の夜なれば、ウンテル、デル、リンデンの酒家、茶店は猶(な)ほ人の出入盛んにて賑はしかりしならめど、ふつに覚えず。我脳中には唯々我は免(ゆる)すべからざる罪人なりと思ふこころのみ満ち満ちたりき」。見なれた街路が別のものへと変貌し、帽子をなくし、髪は乱れ、つまづき倒れて服は泥まじりの雪に汚れてところどころ裂けるという状態でエリスの下に戻った豊太郎は、あの日の鏡のなかの彼のまさに反対物だ。しかしこの“良心“が眠り込んでいるあいだに、忠実な悪の分身により、仕事は全てなされてしまった。「余が病は全く癒えぬ」と豊太郎は言う。代りに、「治癒の見込なしといふ」病人にエリスがなったのだ。その「エリスの生ける屍(かばね)を抱きて千行(ちすぢ)の涙を濺(そゝ)ぎしは幾度ぞ」とは、豊太郎は悲劇のヒロインの役まで簒奪しようというのだろうか。

「あはれなる狂女の胎内に」なぜ子が残っているのか、なぜ流産したという結末ではないのかとは、思いかえすとはじめて読んだ時から微かな疑問としてあったようだ。多分それは物語が綺麗に完結しない一種の座りの悪さを感じたからだろう。しかし今回読み返して――読み終えて最初に戻って――なぜ子が宿ったままなのか分った気がする。豊太郎の相澤への「今日までも残る」「一点の」憎しみは、エリスの「胎内に遺しゝ」子に相当するのだ。エリスに遺した「愛」と、相澤への「憎むこゝろ」は同じもので、これがあるために「今日」豊太郎は、骨牌仲間との交際から離れて内心の記録を綴りはじめたのであり、多分それはこの日にとどまらず日々育って彼の真のキャリアをかたちづくるのだろう。

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 鷗外の有名な遺言は「我ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と宣言している。これは言うまでもなく生あるうちはただの「石見出身の森林太郎」にはなれなかったからだ。「宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス」とは、死によってしかこのしがらみから脱け出せなかった者の言である。もし鷗外に軍医を辞めて両親の期待を裏切る勇気があれば、明治廿一年でもエリーゼとの結婚は可能であった。しかし、その年の九月八日鷗外帰朝、十二日エリーゼ横浜着、十月十七日エリーゼ横浜出航であるから、『舞姫』のドラマが繰り広げられる「明治廿一年の冬」には、本当は全て終っていたのだ。それにしても鷗外とエリーゼの到着日がかくも踵を接しているとは。「追いかけて来た」どころか、これでは船が違うだけで、一緒に(帰って)来たようなものではないか。

 エリスのモデル問題についての新たな研究(多分、ニ〇〇〇年の植木哲『新説 鷗外の恋人』)を伝える新聞の書評(か記事)で、母の峰や妹の喜美子が、はるばるやって来た異国の若い女に同情するどころか、鷗外に会わせずに帰国させることに熱心だったと知って私は驚いたものだ。豊太郎の母と違って峰は健在で、息子の帰朝前から赤松家との縁談を進めていた。「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった。お前を母のない子にした責任は私達にある」と祖母から言われたとは於菟が書いていた。「父もこの間に苦しんで非常に痩せ、大事な父を病人にしてまでこの結婚生活をつづけさせる考えも祖父母にはなかった」とも。思えば於菟は、ありえたかもしれないエリーゼとの子の代りに、大人の都合で生まれて来てしまった取り替え子のようなものだから、父(と退けられた母の代理のエリーゼ)に同情的なのは当然かもしれない。

 一方で峰は、登志子を離縁したのち再婚せずに、つまり女に接しないでいる息子(の“健康“)を心配して、自分で選んだ妾をあてがい、妾宅にそろそろ行ったらどうだと自ら勧めている(鷗外の死後の話だが、三男の類に精通があったと知ると、母の志けと姉の杏奴がそろって勧めて女を買いに行かせたのと同種の心配である)。鷗外はけっしてそこに泊らず、用が済むと母親の待つ家に戻った。完全に用済みになった時、女は美しい奥様の嫁入りを道端で陰ながら見送った。後に晩年の落魄した姿を人に見られている。こうした話は最初茉莉の書いたもので読んだのだったと思うが、この酷薄さも、エリーゼとの仲を裂かれた反動と見ればいくらか腑に落ちる(共感はしないが)気がする。

 鷗外の遺言は賀古鶴所が代筆した。すでに自らは筆を執れない死の三日前の鷗外に、今日は気分がいいからと呼ばれて口述するのを書き取ったのだ。鷗外が「潜みたりしまことの我」にようやく追いついたのは死の刻でしかなかったのかもしれない。三十余年前、ただの森林太郎となることができれば、鷗外の運命は変っていた。“相澤“はそれを思い出したろうか。それとも、「少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切ノ秘密無ク交際シタル友」(遺言書の冒頭に鷗外が置いた文句)は、分身としての最後の務めに満足して、もはや手を切らせた女のことなど記憶の彼方にしかなかったろうか。


# by kaoruSZ | 2022-10-24 16:51 | 文学 | Comments(0)