“はるかな国”再訪(3)
2022年 02月 09日3
昨日、フラワーコミックス復刻版の1から4を購入。黄ばんだ5は、手持ちの1976年初版。4の表紙のエドガーに見覚えがあると思ったが、やっぱりこれも持っている(結果的にダブったが、持っていても在処が不明では……)。隣は『春の夢』(2017年)第一章の扉。良い絵だ。(2020年10月24日)

『ユニコーン』のあと雑誌掲載あって、しかも来月単行本で出るのか。全然知らなかった(最近まで全く興をそそられなかったから)。『ポーの一族』読み返して、やはり(現在を否定する意味ではなく)「時分の花」ってあるんだなと思う。
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『小鳥の巣』でエドガーとアランがギムナジウムに現れたそもそもの理由(“誰が殺したクック・ロビン”)というか物語の口実、あのロビンも、川に落ちて流される子供だった(『春の夢』のノアと同じく)。「窓から落ちて死ぬ子供」も、マージの息子として『春の夢』に書き込まれていた。掲載順としてはポー・シリーズの最初になる『すきとおった銀の髪』、老いたる紳士チャールズ(といってもメリーベルと出会った時十四歳で、「三十年がすぎ去り」たから四十四に過ぎないが、まあ、四十で初老だから……それで「結婚二十五年め」とは、十九で結婚したわけか)が昔のままのメリーベルを見出し、「ああ あなたはきっとあの人の娘さんにちがいない あなたのお母さまはメリーベルとおっしゃるのでしょう?」と尋ねる場面は、『ユニコーン』のサルヴァトーレ・ルチオ“父子”とエステル(「…あれから33年たつ…」)の哀切な挿話として、男女を逆にし、年齢を高めて回帰している。もはや幼い恋ではなく、永遠の少女ではなしに。
エドガーとメリーベルの異母兄オズワルド、彼らが去ったあと、図2のように“マドンナ”に慰められるが、これ、髪の色が違うだけで、オービンの思い人イゾルデだね(もう1934年だから、後者は断髪だが)。ここでマドンナが約束する結婚、子供、家庭こそ、オービンがエドガーを追わなかったら得られたはずのものだ。


【オービンとイゾルデ】
では、世のつねの幸せの代りに、オービンは何を取ったのか。「あの時あの人は私より 魔物の方を選んだのよ」(イゾルデ)。あの時とはこれよりさらに六年前、オービンは髪を伸ばしたままで(これは連載当時の時代精神を反映した、社会への抵抗、反体制のしるしだろう)、大人の男にならなかったのだ。それでもついに長髪の“魔法使い”を卒業することに決め、髪を切ってイゾルデに求婚しようとしたまさにその日に、エドガーに出会ってしまう。
妖精や魔物を追いかけるオービンの設定については、先に「オカルトサブカル男」と呼んで批判的に言及したが、『ポーの村』と『グレンスミスの日記』に登場する、「サン・ダウン城のラトランド伯」に招待されて狩りに来た森で仲間とはぐれ、霧の中で鹿と間違えてメリーベルを撃ち、ポーの村の不死の一族に会ってその記録を日記に残した男爵グレンスミス(「ラトランド」とは『ピカデリー7時』のポリスター卿が突き止めて向かおうとした場所であり、城の名も夜に目覚める種族に縁がありそうな……)の、曾孫マルグリット・ヘッセンもまた、祖母が自分の父の日記を前に語ったポーの村の物語を子供の頃は信じたが、「でもやがておとなになる代価に……魔法や夢を支払った……」「ものをかくのはだからです その時だけわたしはこどもにもどれます 奇跡や魔法が使えます あなたも夢を見るでしょう?」と言っているので、作品の中では、実際これが芸術の定義なのだろう。
(作品としての)『日記』は「一八九九年クリスマスの朝」、グレンスミスが尋常の歳でみまかるところからはじまる。オービンは『エディス』で「わたし ジョン・オービンは一九〇〇年生まれなので 二十世紀の明けそめと同時に年をとり始め」と独白しているからほとんど入れ替わりに生を享け、グレンスミスの娘エリザベスの人生はそのまま激動の二十世紀の歴史に重なる。戦争、死別、貧困の中で、エリザベスの次女ユーリエは「もうずっと 一生 そんなバラの咲く村で暮らせたらどんなにいいでしょうね」と洩らし、末娘アンナの子マルグリットに「それは人間の世界のときの流れからははずれた谷間の村で 争いもなく」と語り聞かせるエリザベスは、夭逝したユーリエの言葉を思い出しつつ、「弱い人たちは とくに弱い人たちは かなうことのない夢をみるんですよ」と呟き、そして次ページではもはやエリザベスもアンナもおらず、二十七歳のマルグリットが甥のルイス(彼はエドガーたちが転入するガブリエル・スイス・ギムナジウムの生徒だ)に曾祖父の日記を見せている。「時はうつり 人々は生きて死に」(エリザベス)、「しあわせをとどめておけない」変転する世界と永遠の「夢」との対比を二十ページで描ききり、語りが現在に追いついたのだ。ルイスがエドガーを呼び止めるプロローグは、直結するエピローグとの間に六十年の歳月を挟んでいる。あらためて見れば『春の夢』もまた、戦争と家族離散と死と再会の話なのだが、そこでの出来事を経たエドガーとアランが、今度は戦後の西ドイツに渡って『小鳥の巣』の舞台に、謎の転入生として現れるとはとても思えない(前にも書いたようにそれを欠点とは思わない)。しかし彼らが確かに同じエドガーとアランでここがあの世界に通じていることは、生きているロビン・カーへの言及が『ユニコーン』に出てくることからも明らかだ。『春の夢』から十四年が過ぎ去った『小鳥の巣』の前年のヴェネツィアで、「ファルカにロビン・カーをやったら」とアランが口にするのだ。
『小鳥の巣』では二年前の五月、創立祭の前日に「図書室のうえの張り出し窓から川へおちて死んだ」ロビンは「まだ川のなか」だったから、彼らが話題にした際は実はもう川底だったことになる。「ミッドランズのモンゴメリーで夏になると会ってたじゃん」「あの頃 ロビンの祖父母が変な顔してたな ぼくらが変わらないから」「そうそうロビンをだましてさ エドガーったらさ/あの子すっかり信信じてたよ」と語られるロビンについては、『小鳥の巣』にそれより詳しく書かれているが、結局あそこではロビンは最後まで天使を信じて死んだことになっていた。しかしその前年の『ユニコーン』の老成した二人は、「成長すればサンタクロースも信じなくなる 子供の魔法はいつか…消えるんだ」「魔法は消えても ぼくらは消えないけどね」という会話を交わしている。もはやオービンの、マルグリット・ヘッセンの、大人になる代りにあきらめなくてはならない“魔法”への固執も、「はるかな国の花や小鳥」をいつまでも夢見ていてよい存在への未練もここにはない。魔法が消えても残るもの、それこそが芸術だろう。
一昨日のこと、「現代マンガ選集」というシリーズの一冊「異形の未来」と題するアンソロジーを本屋で見つけて開くと、71年にCOMに載った、萩尾望都の『ポーチで少女が子犬と』が入っていた。多分、昔一度読んでいると思う。しかしその時には、ブラッドベリやフレドリック・ブラウンに影響を受けたSF短篇くらいに思って見過してしまったと思われる。この少女が、ポーチで子犬と戯れながら考えているのが「魔法」のことであり、「空や窓や花のつぼみや葉っぱのうらの妖精」のことであると知って私はこの本を買った。そして読むうちにはじめて気がついた。ポーチで雨に濡れるのを喜び、「おとなって不思議ね! そんな楽しいこと考えないでどうやって生きていけるのかしらね?」といぶかしむ、何ごとかが起こるのを待ち、虹にみとれる、硬い線で描かれた大人たちの中に一人だけ無邪気で可愛らしく描かれ、彼らに文字通り指を差されて消滅させられるこの少女は、子供ではない!
「嬢ちゃんも 犬と遊ぶ年じゃないこと わかってるでしょう」と家政婦に言われる少女。だが、この子でなければ、誰が犬と遊ぶのにふさわしいというのか。ポーチで子犬と遊ぶのにまさにぴったりの絵柄に彼女は描かれているのに。「もう少し まってみません……?」と病床から身を起こして母親が言う。しかし返ってくるのは、「でも 三年まえからこうしてるんです」という言葉だ。(少なくとも三年前にはすでに彼女は、犬と遊ぶ年でも、雨なのに外にいたり、魔法のことを考えたり、虹の橋を渡りたいと思ったりする年とは見なされなくなっていたらしい)。
だからこの少女はもうとっくに少女ではないのだろう。姿が子供のままなので読者は騙されるが、彼女は「おとなになる代価に魔法や夢を支払」わなかった者であり、もともとは無邪気な子供だったが本当は悪魔のような人間だと父に言われる、カフカの『判決』の主人公のようなものなのだろう。父親からの「判決」は周知のものであり、また『変身』のグレゴール・ザムザの場合は、即座の死を与えられはしないが、父親の投げつけたりんごが、めり込んだ背中でゆっくりと腐ってゆく。『少女がポーチで』の父親は黒眼鏡に目を隠して言葉少なく、影が薄いが、代りに家政婦が「すぐ家へはいって服をきがえないと 夕食ぬきにしますからね」と家政婦らしからぬことを言い、少女も「あんたと話したくないわ いつだって 高びしゃで 自信たっぷりで」と他の家族や訪問者には見せないはっきりした態度で言い返す。分をわきまえないこの家政婦、「わたしはいつだってまちがったことをしていませんから!」と主張する女は、病身で弱々しく、ただ一人少女をかばう言葉を口にする母の第二人格、というかその正体であり、「少女」が無邪気さの皮をかぶっているように、家政婦の姿をとっているのだろう【註】。

いずれにせよこの短篇ではっきりわかるのは、作品内で「魔法」と呼ばれているのがただの“サブカル、オカルト“ではなく、それを手放さなければ死をもって報いられる何ものかだったということだ。
【註】自分で撮って載せた写真を眺めて気がついた。先頭に立って少女を指差しているのも家政婦だ(次は姉)。

Marginal Man, Imaginary Woman――メイヤードという〈悪〉の花
2021年 05月 22日手許に『ポーの一族』ないので文庫版を手に入れ読み返そうとしたが近くで見つからず(家まで本を配達してもらうことはほとんどしない)、代りに『マージナル』を再読。実はこれ、tatarskiyさんに借りているもので、連載の初期に雑誌で見ながら途中で興味を失い、あんな終り方をしていたとはtatarskiyさんから聞くまで長年知らなかった。最後まで読んだあと、批判的な文章を書くと請け合いながら、そのままになっていたのだ。
今回あらためて通読したらいろいろ面白かった。もちろん、受胎した“少年”が海に溶けて不妊因子を無効化し、地球そのものが不毛(マージナル)な状態から甦るという母性信仰や、
「我われの見る夢はどこから来るのか/それは子宮が我われに見せた夢なんだ」
「胎児は子宮の見る夢の結晶体だ」
云々の作中のイワンのたわごと、果てはイワンの作った「夢の子供」が地球と同じ夢を見たのだと語られ、
「生命はみな/同じ夢を見ているのだろうか?/星星もまた?」
と締めくくられる子宮中心主義ポエムは、なんとも気持ち悪いばかりだ。女が子供を産むことは否定されても(そのとき女は母にならず芸術家になるかもしれない)、母性イデオロギーは少年の姿で回帰し、社会との和解を図る。産むのが女でなく、“少年”ならいいというものではない――最初にtatarskiyさんから聞いた、そして私が試みようとした批判も、このあたりにかかわるものであった。
悲劇の母
そもそも子宮なぞ、進化の過程で形成された実用的な器官にすぎないわけで、「自然界の基本は母体だが/母体の基本は子宮にある」(イワン)とか、子宮も地球も星星も同じ夢を見るなどというのは、人間中心主義のたわごとに過ぎない(イワンの過去のこうした言動を彼と親しい友人だったゴー博士から聞かされたメイヤードは、「変わった話だ/宗教的だね」と言うが、宗教とはまさしく宇宙を人間化するもの、共感不可能な物質とその作用でしかないものに人間のしるしを刻みつけるものであろう)。
「脳のどこかに/奥深く/眠りいる夢のことばは/子宮のものだ」――目を閉じた横顔と丸い乳房を見せる、ほとんど一ページを使った巨大な女‐母に重ねて、成長する胎児の段階的/連続的な姿が配され、なだれる長い髪に文字が連なる――「大脳皮質から/辺縁系をすぎて/視床下部へおちてゆく――そして子宮へ/胎児へかえっていく」
「胎児/この不思議な新しい異物/子宮は体の中の異邦部分だ/辺境だ/ここから先は時の流れすらちがう…/何億年の時を旅して分裂する卵胞」
「辺縁系を境にしてある原始的な脳が/胎児に語りかける何億年もの過去」
アーリンと若い恋人同士だったイワンによって夢みるように語られる、こうした牧歌的な“ポエム”は、しかし数ページ先ではその暗い裏側を見せることになる。友人が違法な研究をしているのではと、怪しみ、詰め寄るゴーに、自分は「夢の子供」がほしいのだとイワンが打ち明けるのだ。
「夢の子供だ/無限に幸福で誰とも共感性を持つ子供だ/苦しまない人間/恐怖も不安もない人間/子宮が美しい夢を見たら/苦しみのない魂を持つ子供が育つだろうか」
「恐怖も不安も/何億年もの原始の再現だ/原始の脳――視床下部に支配されるけものの感情!/理性の大脳皮質は何をしてる!?/辺縁系から先は手がつけられないというわけか?/何億年も前に脳にきざみつけられたトラウマから逃れられないのか?」
子宮の夢とされていたものが、ここで「何億年も前に脳にきざみつけられたトラウマ」に変っているのには理由がある。何億年も遡る必要など全くなく、たった十数年前、両親が離婚し、母と暮していた幼い彼は、突然訪ねてきた父が母に復縁を求め、拒絶されると母を暴行、強姦して、半年後に母が自殺するという、苦痛に満ちた、異常な、恐しい体験をしている。「苦しまない子供」とは、彼がなりたかったものなのだ。イワンの偏執は、次のように説明される。
「母は気絶していた/なぐられて/父が犯してる間/意識がなかったのだ」
「だが母はくるった/恐怖のあまり」
「ぼくは知りたい/母は気を失っていた/くるうほどに父を恐ろしがっていたのは/母の脳なのか/子宮だったのか」
ここからわかるのは、彼の脳と子宮との混同が、こうしてはじまったということだ。
「ぼくが夢に見るあの時の事件は/ぼく自身の恐怖なのか母の恐怖なのか」という、これに続く科白は、言うまでもなく、母と彼自身との混同を語っている。彼は、アーリンの卵子を使って作った「夢の子供」(男の四つ子)を、全員、母と同じキラの名で呼ぶ。彼(ら)は彼の母であり、苦しまない子供としての彼自身でもある。『ポーの一族』について追加の読解をtatarskiyさんから聞いた中にはいくつもの殺人(読者にはそれと知られない)が含まれていたが、それに倣うかに、私も一つ、隠された真実を見つけたように思う。イワンの母キラは、事件のあと「進行性の自己喪失症を起こして…/半年後に自殺した」とあるが、この病名は空想的なものだし、助けが来た時、元夫に首を絞め上げられていたキラが、どうしてフィジカルな損傷によって、その場で、あるいはほどなく死なずに半年(「死ぬまでの半年間で別人のようになった」)生き延び、精神的な外傷がもとで死んだのか。半年という半端な時間差が引っかかってはいたのだが、「夢の子供」キラの「受胎」を思いあわせるなら、たぶんオリジナルのキラもこの時「受胎」していたのだろう。元夫からひどい暴力を受け、レイプされたあげくの妊娠。彼女の本当の絶望と自殺は、これに気づいた時起こったに違いない。
「夢の子供」キラの、胎児もろともの消滅――海への溶解――は、イワンの母キラの悲劇の、変形された反復であることを隠蔽しつつ起こり、「受胎したイワンの作品は/病んだ地球へのカンフル剤となって/地球をよみがえらせる…/ほら…脈動だ/聞こえないか/キラが呼びさました生への律動」――という、超能力者センザイ師[マスター]の高らかな宣言によるお墨付きを得て、物語に回収される。そして作品自体、「センター」によって修復され、よみがえったキラ(正確にはその兄弟)を見つけたグリンジャとアシジンが、彼を連れ帰って新しい名前をつけようとするところで終る。イワンとその母キラについての真相は最後まで隠されたまま、彼女の名前までが完全に抹消されることで終るのだ。
制度的な母
サブストーリーの〈母〉について先に考察することになったが、『マージナル』のメインプロットで前面に押し出される母は、言うまでもなく、男たちが崇める聖なる母、「ホウリ・マザ」である。汚染された地球ではD因子なるものに感染することで女は受胎能力を失うとされ、人工子宮から生まれた男しか存在しない(月や火星その他から来て滞在する男たちはいるが、土着の住民は外部世界の存在を知らず、過去の文化から切断され、歴史的・科学的な知を剥奪されている)。舞台となるモノドールは、イタリアの都市国家のような「都市[シティ]」と、周辺の村や町、砂漠からなり、都市の人々は古風で装飾的なローブをまとい、砂漠に住むのは(アラビアのロレンス風)アラブの風俗でラクダや馬を駆る部族である。マザの住まう「聖堂」の「センター」は、彼らのあずかり知らぬ技術と権力を持つ中枢で、彼らは「登録」した精子と血によって、唯一の「マザ」が息子を産んで彼らに与えてくれると信じており、実際そうやって「センター」から子供を受け取り、社会を存続させている。
「マージナルのプロジェクトは/カンパニーが月の市民から卵子を買って/それを地球に輸送し/センターの無菌の地下で受精させる」
「精子はすでに病気に対する抗体をもつマージナルの市民のもの/この抗体はY遺伝子[ママ]にのみつくために男しか生まれてこない」
「カンパニー」から派遣されて「ユーフラテス地区」長官の地位にあるメイヤードは、火星から密入国してきたゴー博士にこう説明する。ここは性行為と生殖が完全に切り離され、無関係な世界なのだ――というか、マージナルの男たちは、人間の生殖について子供のような空想的知識しか持っていないと思われるので、それが関係しうることさえ、知られていないと言うべきだろう。
外から見れば(それは読者の立場でもあるが)マージナルは女のいない世界だが、彼らにとっては女イコールマザ、つまり性的対象としての女抜きで一足飛びにマザがいる。「聖堂」への「登録」のために精液を採取する際、彼らが何を想像しているのかは謎であるが、少なくとも女でないことは確かだろう。そもそも彼らは〈女〉のイメージを持っていない。モノドールの市長(ヴェネツィア共和国のドージェのようなものだが、指輪を投げ入れて海と結婚するのではなく、新しい「マザ」の“第一夫” になる)の一人息子ミカルは、死期の近づいた父(彼らは三十を過ぎると急激に老化し、短命に終る)の命で、過去の文化について不完全ながら蔵書と知の蓄積を持つ「図書の家」を訪れ、かつては人口の半分が「女[ウーマン]」だったという驚くべき事実を明かされるが、あなたはセンターの人から「“オンナノコ”みたいだといわれませんか」と問われて、「いわれます…センターの医学用語で/色子[イロコ]の時期のことだって……」と答え、「幼いウーマンを表わす言葉です」と訂正されている。明らかに彼らは「オンナ」という語さえ知らないのだ。
性行為が生殖から切り離され、男だけしかいないのだったら、歴史上最も性的に自由な社会が実現してもいいはずだが(AIDS禍直前のアメリカのゲイの場合のように)、『マージナル』の世界はそういうものでもなく、「念者」と「色子」と称する制度があって、「色子」の時期を過ぎると「念者」になり、やがて息子を持つことになる――どのみち息子が十代のうちに、寿命が尽きてしまうのだが。少年が、念者か父という後ろ盾を持たず、恒産がない場合は、色子宿で売春することになる。
実際、『マージナル』の冒頭には、砂漠から都市にやってきた男が少年を買うエピソードがあるが、翌日起る「マザ」の死で、「センター」はこの色子の少年チトを次のマザにすることを、急遽、決定する(しかし彼はその夜殺される)。「ぼくらは色子の時期に何人かはマザの資質を持った者がいるんだけど/マザがいるあいだは資質は眠ってて/マザがいなくなると次の誰かが目覚めるって」というのが聖堂の教師からミカルが受けた教えである。しかし、リスト(市民はセンターの完全な管理下にある)を見ながら、チトに代る「マザ」の候補者を選ぶ際、彼の父は、まだ時間はあるというメイヤードと、次のような会話を交している。
「――しかし――手術は?」
「手術?/それは/マザを市民に公開してからでもかまわないでしょう/裸を見せるわけじゃないから」
「……胸部は…」
「胸をふくらませる手術はかんたんです。一日あれば」/「その気になれば/市長/あなたにだって胸ぐらい/つくれるんですから」
「なんの話だ/わしに胸などつくってどうするんだ/なんの話をしてるんだメイヤード!」
「失礼……冗談です/市長」
「わ わしはマザの/神聖なマザの話をしているんだと思っていたが」
メイヤードの態度は意味深長だ。表面上は、この制度に対する彼の考えを示すものだが、実はこれは伏線で、むろん彼は自分の話をしているのだ。
あわただしく作り替えられ、美しい人形となった新しい「マザ」ハレルヤ(実は拉致された「図書の家」のエメラダ)は、しかしお披露目に引き出された市民の面前で墜死を遂げ、市長となったミカルは、キラをマザだと言いつのる。『マージナル』のサブプロットは、彼らの中で誰がマザかの探求であり、終りちかくアシジンがメイヤードにかける言葉も、「おまえは……/マザなのか…?」である。
もちろん、メイヤードはマザではない。問いの仕方が間違っているのだ。『マージナル』の退屈な制度的同性愛と、マザとキラと彼をめぐる人々の織りなすメインプロットの蔭にあるのは、誰が〈ホモ〉であり、〈女〉とは誰なのかという問題で、それが読み取れるのでなかったら、私がこうしてこれを書いていることもなかった。
夢の母
「きみはホモじゃなかったのか」
「だって男ばっかの世界ですからねえ/4年赴任すれば交代できるとはいえ/女っけなしはつらいですよ」と愚痴る「センター」の職員ポールに、こう尋ねるのはメイヤードだ。ポールは答える。
「ホモですが母親から生まれましたから/なんとなくそこらをうろつくだけでも/女がいてほしいですねえ」
文庫版『マージナル』第三巻の女性解説者による「単に女っけがないのが私にはつらいだけかもしれない」発言とひとまとめにして、直前のメイヤードの科白「くだらん」で片づけられてしかるべき、あるいはその上ヘリで焼き払いでもすべきたわごとだが(メイヤードは、ポールの「市長の息子のミカルなんか/XYの単性ですが/色子期というだけで女の子みたいですからねえ/センターの者なんかミカルを見に/ときどき聖堂区のほうへ散歩に出てますよ」に対してこう言っている)、不細工な〈ホモ〉のポールがミカルと接点を持ち、結果的にミカルがハレルヤの正体を知るのは、いうまでもなく彼が「女の子みたい」だからではなく、男の子だからである。
〈ホモ〉という語が出てくるのは全篇でここだけだが、この世界でも、地球外から赴任してくる人々は「人種化された同性愛者」概念を持っているらしい。もちろん、(男同士の性交渉が標準の、というか、それ以外存在しない)マージナルの住人にそれはないので、本来、ポールのような男には天国のはずなのだ。しかしマージナルでは、「XYの単性」でなく、XXYであることは特別な意味を持つ。新たなマザ候補リストに不満げなメイヤードに、職員のマルコは、彼らが十三歳から十五歳で、親、財産、念者を持たない、よりすぐりだと強調してつけ加える。「それに/XXYですよ」。
もっとカリスマ的な美形はいないかとメイヤード。「そんな……女と同じというわけにはいきませんよ」と言いながらも、マルコは言葉を継ぐ。「しかし/きれいですねえ(…)」「…両性具有率が多いのもこの4・5年の色子の特徴です」
だとしたら、マージナルの人々は、他世界(私たちの世界も含め)の人間と生物学的によほど違っていることになる。XXYとは、XX(女)にYが付いたものではない。XYに余分なXが付いたもので、Y染色体があるとはすなわち男、出生以前に性分化は終っており、男性としての生殖機能が阻害されることはあっても、「両性具有率が多い」などという事実はないからだ。
「成人になると男性化して両性のものも単性化する」とされるマージナルの住人の、(成人前の)「色子期」とは、要するにエラステースとエローメノス、念者と若衆といった文化をなぞりつつ、擬似生物学的根拠を付与したもので、「夢の子供」キラも、結果的にこのような「色子」をマクシマムにしたものになっている。アシジンとグリンジャとの三角関係の中にあって、キラは女性化する。『闇の左手』のように、完全に身体が変化するのだ。
「……キラが……目を…/覚ました…」そう呟く少年に、「おまえがキラだ/ちがうのか」とグリンジャはいぶかしむ。キラは四つ子の兄弟共有の名前、その女性人格が目覚めたと、通常は理解されるのだろう。「そう/ぼくが/キラ/だ…」と少年は応える。「あんたと対応する…」。それは器官が女のものになり、異性間性交可能な身体になるということだ。(……灯の……/せいか…?/こんなに…/きれいな子だったか…?)ランプに照らし出されたキラの顔に、グリンジャは密かに驚嘆する。
「おまえみたいに…?/いつのまにか――男の部分が消えてしまうのは――/……はじめてみる」
「すぐもとにもどる/いまだけだ/あんたが触れて/キラが対応したせいだ」
キラとは誰か。その名前の元になったイワンの母だ。イワンが作ったのは、実のところ〈娘〉であり、娘として甦った彼の母ではなかったのか。少年であるのは隠蔽の結果だが、〈キラ〉が「対応」するとき、真実があらわになる。キラたちが十歳を過ぎた頃、もうすぐ自分とキラとの子供が作れるとイワンが言った(それで目が覚めた)と、キラたちの母アーリンは証言している。イワンの「夢の子供」は本当は「夢の女」――母の再来であり、受胎した子もろとも自らを滅ぼした最初のキラと違い、彼の望みを叶えるために到来し、彼を見捨てず、彼によって、彼のために、彼とのあいだに子供を産む、少年の姿をした母なのだ。
イワンの「夢」は、もともと彼の異常な個人史から発したもので(地球の再生のためという合理化が部分的になされているが)、本来、大状況とは無関係の、マッド・サイエンティストの妄想だ。違法な研究で火星の大学を追われた彼とアーリンが、受胎不可能になった地球へ逃げて森にこもり、イワンが妻の卵子を使って実験を続けた結果できた、妄想の現実化がキラである。「マザ」とは「センター」の、あるいはその背後の「カンパニー」の傀儡であるのだから、キラがマザではないかとは、はじめは無知からの誤解であるが、キラの“受胎”が確認されると、少年が出産することへの期待は、いわば公式のものとなる。最終的にキラは「病んだ地球の夢」を自分の夢とし(センザイ師いわく、「夢の子供が/地球と同じ/夢を見たんだ……)」、自らは身ごもったまま(イワンの母と同じだ)死ぬが、地球はそれによって“活性化”され、氷漬け状態で生存していたキラの同胞(四つ子の一人)の片側の卵巣を取り出して千六百人の赤ん坊を作り、その体液や細胞や遺伝子を研究することで、地球上で受胎が可能になる秘密を探るという希望に満ちたヴィジョンが(自らも双子、つまり天然クローンの医者によって)語られるという、なんともエグい展開になる。
現実の母
「夢の子供」とはすなわち「夢の母」であり、地球と同じ夢を見て、不毛の星に生命を取り戻す――これがメインプロットの正義であるため、同じ夢を見なかった――見ることを拒否した――“現実の母”は、著しく厳しい評価を受けている。
すべての人間が「マザ」の息子であるとされる地球で、唯一“現実の母”だったアーリンは、自ら“怪物“と呼ぶ超能力者の子供たちに、イワンや彼らと同じ夢――イワンとキラの間の子を作る夢――を見る(テレパシーで共有する)よう強要されてゴー博士に助けを求め、通信を傍受した「カンパニー」によって救出される。ゴーが地球に来るのに手間取っている間に、アーリンの供述を受けたカンパニーは、イワンと子供たちを森ごと焼き払っていた(この真の理由はあとで明らかになる)。ゴーは、彼女がイワンの研究をなかったものにしたがっていることを否認し、「アーリンが陥っているのは一時的な錯乱だ! 自分の子供じゃないか!」と言う。そうだろうか。女の身体から前もって取り出した卵を使い、母体から分離された場所で発生させられることで、イワンの夢の子供たちは、受胎した母によって殺される(イワンの弟か妹のように)ことを、あらかじめまぬかれていた。イワンは、女なしで子供を生み出そうとした古典的なフランケンシュタイン博士であり、マテリアルとしてだけ利用された「フランケンシュタインの怪物の母」は、最終的に子供たちを殺すことを選択したのだ。
新マザ、ハレルヤの公開が決まり、アシジンが、マザがよみがえると口にした時、キラは「マム…?/アーリンが…?」と顔色を変えるが、これからは若いマザがみんなのためにたくさんの子供をくれると聞くと、「ぼくはもういいんだ/何もしなくても」「イワンのために子供を産まなくてもいいんだ」と叫んで狂喜する。見ていたゴーはぞっとして、(だが/キラは/受胎してるのに! 子供は/イワンの夢だ/それも強迫的な//キラの望みでもなんでもない)と思う。にもかかわらず、ゴーは、マージナルで調査を続ける人類学者ネズを味方につけようとする際、「重要なのは/キラが受胎してるってことだ//この子だ!/見てくれ/イワンの作品だ/地球の未来だ!/不毛の地を救える!」とイワンの代理人のように主張する。イワンの動機がそんなものでないことを、誰よりもよく知っているはずなのに。
子供は(自分ではなく)マザが産むんだと必死で抗弁するキラに、「きみはアーリンを恐れてるんだ」とゴーは決めつける。まるでアーリンが悪いかのように。実際には、キラはイワンに不当な「夢」を押しつけられていたのであり、やっとその重荷から逃れられたと思ったのに、別の「夢」に乗り換えさせられようとしているのだ。「マザの世界は終り/新たなプロジェクトに移行する/それがキラだ」と力説するゴー博士によって。
実際には、アーリンこそがキラたちを恐れていたのだし、それも無理もない理由からだった。だが、ゴーは、アーリンのSOSに応えて地球にやってきたはずなのに、いつの間にか彼女に批判的になっている。双子の医者がキラたちの生育環境を評する時、彼らの親は、「理想しか見えないイワン/子供がこわいアーリン」と称されている。子供がこわいアーリン? こわがって当然の怪物なのに、彼女は、母として彼らを受け入れなかったことを非難されている。一方イワンは、完全に免責されているのである。
理想どころか、イワンこそが、悲劇的な子供時代に端を発する妄想に、皆を巻き込んだのである。彼の母キラは、彼を見捨てて死んだーー受胎した子とともに。だから彼は、受胎抜きで子供を作った。子供時代のトラウマから、キラたち(母たち)は彼を救ってくれた。彼自身でもある「苦しまない子供」は、父と対立することのない娘として父から愛され、イワンは自らの父とも和解することができたかもしれない。しかしイワンのインセストの夢はアーリンを離反させ、彼女の逃亡によって、水入らずの小宇宙は(文字通り)崩壊した。
こうしたことが全部誤魔化され、ゴーはまるでイワンが理想主義者であり、彼自身がイワンのあとを継ぐかに振舞っている。キラの胎内の子は失われたが、あたかもイワンの死後も続く呪いのように、アーリンの卵子に代り今度はキラの卵子を使って、これからも、公式の事業となった実験は継続されるのである。
メイヤードという〈女〉
地球上での受胎を可能にさせるプロジェクトが正義とされる時、メイヤードは〈悪〉を一身に担うことになる。たしかに、「センター」から子供が与えられなくなっている事態は、マージナルの男たちのあいだに不満と不信と不安を煽り、「マザ」とメイヤードと市長の暗殺を企てる一派まで出るほどだが、それは迷信的な理由からに過ぎなかった。また、メイヤードは「カンパニー」の末端で地球を任されているだけであり、マージナルでの実験を終了させて地球を「始末」するというのは、そもそも「カンパニー」の決めたことである。
それでもメイヤードは、新たなプロジェクトがイワンとかかわりがあるように、地球の“不毛”とかかわりがある。表題の「マージナル」の意味は、作中で示された限りでは「限界」「不毛」「ギリギリの」であるが、彼の役職の別名(通称)「マルグレーヴ」とは、「辺境伯」と訳されるタイトルであり、この「辺境」とは「マージナル」のもう一つの語意だろう。そしてそれはイワンの、「子宮は体の中の異邦部分だ/辺境だ」という文句につながってゆく。
イワンが“受胎”を目指す実験を行っていたのに対し、メイヤードは、ドームに覆われた都市の地下深くひそむ無数の人工子宮という、入れ子になった母体によって、マージナルの男たちを再生産していた。すでに述べたように、その際使われる卵子は月の市民から買われたものであり、アーリンに要求されたような母性イデオロギーとははなから無縁なのである。そしてイワンが、火星の大学を追放されて地球という辺境に逃げてきたように、メイヤードは、いわば自己流謫の結果、地球にいる。彼らは、故郷にも、今いる場所にも属さない、異邦のマージナル・マン(境界人)だ。
ここまででも明らかな二人のカウンターパート性は、キラの父親というポジションをめぐって、頂点に達する。夢遊状態のキラは、イワンが「アーリンとエゼキェルで」キラを作ったとメイヤードに告げる。エゼキェル――“エゼキェル因子“とは、極めて稀ではあるが、それを持つ者の半数に進行性の視覚障害が見られ、遺伝子に高い確率で突然変異を引き起こすもので、この因子を持つ者は、子孫を残すことを禁止されている。実はメイヤードはこの因子の保有者であり、かつて人工心臓の手術を受けたが、その際、助手として入ったイワンは、密かに彼の血液を採取しておき、「夢の子供」製造にあたってそれを流用したのだった。
イワンとキラとの父子関係が明示的に否定されることはなく、フランケンシュタイン的な意味での創造主としての、父イワンの地位は揺らがないとはいえ、このことによってキラは、「メイヤードの息子」と呼ばれている(もともとマージナルの男たちは精子と血液をセンターに差し出して子を得ているので、筋は通っている[?])。「カンパニー」がイワンとキラたちを殲滅したのも、エゼキェル因子ゆえであった。しかし、そのせいでキラが受胎可能になったと知れると、エゼキェル因子は一転して善玉になり、キラが子供を産むことを望まず、自分の命の終りとともに地球のl終りを見届けようとするメイヤードは、タナトスの体現者としての悪人になる。
その髪型とサングラスから手塚治虫の美少年の悪役ロックを髣髴とさせるメイヤードは、サングラスなしには十分な視力を得られず、進行性の病気を幾つも抱えている。そしてイワンと同様、メイヤードにもまた、自らのプロジェクトと彼自身を同一視する個人的理由がある。「ここはマージナル/男ばかりの不毛の世界」と、十二年前、到着したばかりのメイヤードが口にしたのを、意味のわからぬままに覚えていた、当時少年だったアシジンは、だから彼に問う。「あれはおまえ自身のことなのか」
だが、真の〈悪〉は、物語の表面的な整合性とはズレたところにあるだろう。メイヤードは〈悪〉である。なぜなら、「色子」の時期の、オンナノコのような(両性具有的な)少年でも、ポールのように明示的なーー異性愛の男と相互補完的で、そもそも彼らがいることで異性愛者が存在できるーー種族としての同性愛の男でもない、また、特定の男との接触で実際に身体が変化し、異性間性交可能になるキラでもない、女性化する男がメイヤードであるからだ。
メイヤードは他人に触れられることを極端に嫌うが、それは、その身体が、触られるにふさわしい受動性を持つからこそである。ゴー博士との最初の面会の際、サングラスを叩き落されて、彼は、その見えない眼とヴァルネラビリティとをあらわにする。「センター」に拘束され、スクリーンのメイヤードと対峙したアシジンは、映像だと教えられてもなお、メイヤードに接近して口づけ、彼をたじろがせる。そして終盤、薬を与えられなければ死ぬと騙されていたことを、二人で閉じ込められたエレヴェーターの中で知ったアシジンに飛びかかられたメイヤードの、嘘つきの舌を引っこぬいてやると食いつかれて血を流すエロティックな受動性。制御不能になったエレヴェーターは地下のダムへ下降して、キラの潜在能力が引き起こした洪水に呑まれ、気を失ったメイヤードを助け上げて服を脱がせたアンジンは、治療の結果の傷だらけのメイヤードの、右胸がふくらんでいるのを見る。病気の進行を防ぐために、女性ホルモンを投与されていたのだ。
市長に胸くらい簡単に作れると言った時、メイヤードはたしかに彼自身のことを言っていた。おまえはマザなのか、とアシジンに訊かれてメイヤードは笑い、「女がいない世界はここだけだ/何もかも作りごとだ/そうさ/このわたしの/体のように/ああ/うっとうしい/この作りごとには/うんざりだ!」と言うが、ハレルヤと彼自身は峻別されるべきものなので、むしろアシジンは、おまえは〈女〉なのかと訊くべきであった。もちろんアシジンとマージナルの男たちにとって、この二つは未分化だ。
女性性とは器官の問題ではなく、また生物学的なものでもない。メイヤードの右の乳房は授乳のためのものではなく、たんに、彼の受動性が可視化されたものだ。キラのように受胎を目的とし、男に対応してそうなるわけではない、非器官的な、不要な女性性――彼の罹っているのは女になる病であり、母にではない。「男ばかりのあわれな世界」とは彼が身をおいている世界のことであっても、彼自身のことではない。短い「時分の花」を咲かせる少年としてしか女性性を知らず、長持ちしない女である少年との擬似異性愛が同性愛と見誤られるあわれな世界で、唯一、目的を持たない女性性を持つマージナル・マンがメイヤードであるのだ。
「マージナルの人間どもが願ってやまぬマザ!/女?/女がほしいか?/月にも火星にも女なんかいくらでもいる」(メイヤード)
しかしメイヤードの場合、外の世界にいるそうした女たちすべてと同じく――そして、男に対して女になり、受胎するキラと違って――「女であること」と「マザであること」とは別のものであり、それゆえに〈悪〉なのである。
(つづく)
“はるかな国“再訪(2)
2021年 04月 10日2
『はるかな国の花や小鳥』の次に置かれている、ジョン・オービン初登場のエピソードで、彼はエドガーがハロルド・リーを訪ねた時の例の帽子をかぶっており、一篇はまさしく『ホームズの帽子』と名づけられている。直接シャーロック・ホームズには関係ないが……というか、オービンの「魔法使いの目」、「女のように」長い髪、霊感、魔物、ネス湖の怪物探しといったものは、玩具箱に雑然と放り込まれた子供部屋のガラクタで、彼が世のつねの“大人の男“ではないことのしるしであり、「ホームズの帽子」もそうしたアイテムの一つなのだろう。
それはまた萩尾望都にとってのマンガ、いつまでもそんなものにかかずりあっていないで大人にならなくてはいけないと、両親から見なされていたものでもあったろう。すでにマンガ家として有名になっていてさえ、それでいつマンガはやめるんだと親から尋ねられたという話を読んだことがある。
「ぼくも年ですからね! いつまでも若くないし!」
「ここらで腰をおちつけ職をもって」
と、髪を切ってイゾルデにアピールするオービン。しかし結局は周知のものを追って彼女に求婚しそこねてしまう。それから四十年以上の歳月ののち、『エディス』の結びで、「…そしてわたしは最初のページを始める」「ーーエドガーおまえに わたしのはるかなおまえに そして そのポーの 一族によせてーーと」と書きしるす禿げ頭のオービン。これはほとんど二十世紀小説のパロディだ。オービンは、本当なら、芸術家として創造されるべきだったのだろうーー怪異を追って東奔西走する、子供っぽいオカルトサブカル男ではなく。
· これは、「大人になる-マンガを捨てる」ことの対極を、「いつまでもはるかな国の花や小鳥の夢をみている」としかイメージしえなかった作者の認識に見あったものとも言えようが、実際に彼女の作品を文学だ芸術だと持てはやす男たちもおおかたそういう輩でしかなかった/ないといえよう。むろんオービンは彼らよりはるかにましであるが。
ところでtatarskiyさんと電話で話したら、『ピカデリー7時』のポリスター卿の顔はエドガー・ポーの顔を下敷きにしたのだろうと言われた。これは全く思ったこともなかったし、咄嗟に意味が呑み込めず、にわかには信じられなかったが最後には納得。少女マンガ的に変形されたポーの顔であり、少女妻を育てる男とは(私たちはそう思っていないが)、一般に共有されている通俗的なポーのイメージだというのだ。いや、ポーは断じてそういう人ではないのだが! あれをよくできた話だと書いたのは、ヘテロセクシュアリティの構造として普遍的なものを、少女マンガの甘やかさを最大に生かしつつ示し得ていると思ったからでもある。
·
『すきとおった銀の髪』の昔から、人間と吸血鬼の対比は、前者が老い、後者は永遠の若さと美しさを保つーー限られた時間しか生きられない人間は、短い人生の中で偶然出会うことになった彼らの姿を垣間見るーーというのが基本だったはずだ。『エディス』でも、もはや切る髪もないオービンは、「まったく年をとった…年をとった…」と呟き、「時が…止まっている……」とエドガーの顔を思い浮かべる。あるいは、森の中のリデルは、家に戻されても、育ての親のエドガーとアランが迎えに現れるのを窓辺で待っていた。思えば作者も読者も若かった。結婚し、子を産み、老いるという常道に外れた側に自分が身を置きうると容易に信じられたのだ。
しかし『春の夢』の終りでは、吸血鬼になった少女が 、「あの人たちのしているのは死んだ人の話」「あたしは……思い出になってしまった」と、親しい人々の口の端(は)にもはや死者としてしか上らぬわが身を、世界からの深い疎外を嘆く。実はオービンではなく、髪が真白になりながら永遠に十六歳の(実年齢は三十前の)ブランカの方が老いている。オービンは若い人間が想像した老人であり、ブランカは、もはや自分のものではない「春の夢」を、正確には「春の夢を見られた頃」を、思い出すしかない老人なのだ。
フラワーコミックス最終巻で『一週間』『エディス』と読み継いだあとに『春の夢』を読んだのは正しかったようだ。言うまでもなくこれは四十年ぶりの発表の順序そのままであり、『エディス』に時間的に接続するのは、続篇第二巻、その空白の四十年間を眠り続けていたエドガーが復活する『ユニコーン』である。だが、クロノロジックな再構成がぴたりと決まるような作品を書くのは凡庸な作家と決まっている……『春の夢』の作者はもちろんそうではない。
『エディス』でエドガーとアランが消えたことはいったん置いておき、欧州での二次大戦終結時のエピソードを作ったかに見えながら、実は四十年前に書かれた『一週間』『エディス』とこの新たな話は夢にも切れずつながっている。それは、新たに登場するキャラクターが、最終話でのエドガーとアランの燃えさかる家からの脱出を可能にする伏線となっているといった、物語技法上の問題ではない。そうではなく、エドガーの不在中ひとり置いて行かれたアランが、川をへだてた別荘に滞在する二人の少女と仲良くなる『一週間』が、一見無邪気で牧歌的な可愛らしい小品でありつつ、アランが(見かけの)年齢相応の、女の子を扱いなれたプレイボーイとして振舞う話だったこと、続く『エディス』は、アランがはっきりエディスに恋し、エドガーに対立して、メリーベルの代りの少女を得ようとした話だったことのまさしく続きで『春の歌』があるからだ。しかも今度は攻守ところを変え、少女に近づき(“気”が足りなくて寝ていたアランは、彼女を「口説いてたね」とエドガーに言う)、浮気する(「僕が眠ってると君は浮気するんだ」とアラン)のはエドガーの方である。
しかも相手は、『一週間』の二人組やエディスのような幼さを残すロウティーンではなく、十四歳と称する彼より二つ年上のユダヤ系ドイツ人で、両親と別れて出国し、母の妹の夫である英国人オットマー氏の下に弟と身を寄せ、気を張って生きている。シューベルトの歌曲集「冬の歌」の一曲「春の夢」(「冬に春の夢を見る私を/窓辺の葉が笑うだろう」)を巧みに使って、作者は、少女が、年下とは思えぬ大人びた少年にそれまで押し殺してきた内面を打ち明け、胸ときめかして心ひかれるだけでなく(「なにか事情があるのね……亡命してきた王子様? ウフフまさか」)、エドガーに彼女について「きみはぼくの 春の夢だーーー」と独白させ、二人がひかれ合うさまを描き出す。エドガーがこのような積極的なヘテロセクシュアルな主体とされたのははじめてだろう。
だから、世界が若かった時代の、いつまでもはるかな国の花や小鳥を夢見ていてよかった頃とはなにかが恐しく違ってしまったのだけれど、それでも、四十年前のカタストロフとの連続性は、例えば従姉妹どうしの対照的な少女たちにとってアランが「川むこう」の少年だったように、エドガーがはじめて見かけた少女は「小川の向こうの館の人」と説明され、理由をアランに告げずにエドガーが家をあける期間がどちらも一週間であることに、あるいは次の二つの絵のささやかな一致にはっきり見てとることができる。一枚目は『一週間』のラストで夕方にはまたアランに会えるつもりでいる少女たちの前から永遠に立ち去る二人、二枚目は一週間留守にすると言ってアランを置いて出かける、『春の夢』のエドガーである。


“はるかな国”再訪(1)
2021年 04月 10日1
部屋を片づけつつ発掘された本につい読みふけるうち、フラワーコミックス版「ポーの一族」最終巻を見つけた。せっかくなので、はるかな時を隔てて再会するこれらの物語は、現在の自分の目にどう映るかとページを繰った。それでも最初、『はるかな国の花や小鳥』は飛ばそうかと思っていた。「憎むのはいや 悲しむのもいや」と言って自分を捨てた男を思いつづけ、三十前で儚くなったあと、「たぶん生まれながらの妖精だったのです」と語られる“少女のような女”の、甘ったるい話が耐えられないと思ったからだ。ところが、読んでみると、そういう話では全くなかった。
もちろん、薔薇の咲く家で少年たちの合唱隊を指揮し、ばあやの焼き立てパイを切り分け、迷い込んだエドガーを「私の青い目のユニコーン」と呼び、いつも「幸せそうに」笑い、昔の恋人の死を知って自殺を図り、その三年後に病死したエリゼルのことが、「あの人は夢に浮かぶはるかな国の住人だったのでした」と語りおさめられることに変りはない。「遠い少女を思い出させる」エリゼルを、失った妹メリーベルに重ねることで、エドガーの彼女への思い入れを無理なく見せる設定も巧みなものだ。しかし一篇のキモはそんなところにはなかった。いつになくエドガーがセンチメンタルなこの短篇で、彼はまるで、過去に介入して運命を変えようとして、かえって防ごうとした当の事件を引き起こしてしまう、タイムトラヴェラーのような役割をつとめている。しかも本人に全くその意図も意識もないままに。作中人物の誰にもそのことは気づかれないし、おおかたの読者にも気づかれまい。
エドガーのタイムマシンは一台の自転車であり、行先は近郊のホービス市だ。むろん彼は過去ではなく、十年前のひと夏、エリゼルの恋人だった、現在のハロルド・リーを訪ねてゆく。「エルゼリを知ってる?」「エルゼリ…? だれのことだね?」という短い会話を交わすために。暗くなって戻った彼は、「あの人あなたのこと」……覚えていなかったよ、とは言えず、「覚えてたよ」とエルゼリに告げる。「あの人 どうだった」と現在の男の外見を尋ねるエルゼリの返事は少々変だ。普通、覚えていたというのなら、自分のことをどう言っていたかを知りたく思うものではなかろうか。恋人がたとえおぼえてなくとも彼女は平気なのではーーとエドガーが言うとおり、彼女はまるで、「あの人 あなたのこと覚えていなかったよ」と言われたかのように反応している。そしてそれは、自分のことなど男が頭の片隅にも残していないであろうことを彼女がすでに知っており、それをかたくなに意識から排除し、否認しているからに他なるまい。
だが、エドガーの、善意と優しさからの嘘は、すぐに確実な効果をもたらした。ハロルド事故死の報にエリゼルは自殺を図るが、それはエドガーが、彼はあなたの名前すら覚えていなかったと真実を伝えていれば、たとえその時はどんなに辛くとも、避けられたかもしれないことだ。彼の心の中になおも自分がいると、自らの思い込みのみならず、他者の言葉によっても追認されてしまったために、「自分を覚えている」男を失ったとき、エルゼリは死ぬしかなかった。だからこそエドガーは部屋に飛び込んで助けたエルゼリが目ざめる前に、アランを促し町を去るのだろうーー彼自身は知らなくても作品は知っている。
「いつかあの人は夢からさめることがあるのかしら…」とエドガーは独語する(この直後に事故の場面が続く)が、彼女の夢をつなぎとめたのは他ならぬ彼自身なのだ。そして、ハロルドの命を奪った事故もまた、エドガーの介入がなければ起こらなかったことだ。エルゼリとは誰だったかと考えつつ自宅を出たハロルド・リーは、一見エドガーに似た自転車乗りの少年の後ろ姿にはっとして、追いすがろうとし、声をかける。その背後に迫る馬車。振り向く少年。ばあやからエルゼリに伝えられるとき、それは「自転車にのった子がころぶのを助けて 自分は馬車の下じきになったんです」と変形されている。だから、注意深い読者以外には真実は見えないようになっているのだし、作中人物の誰ひとり(エドガー自身も含めて)、ハロルドの死が、エドガーのお節介の結果であることを知らない。
エドガーがもしハロルドの応えを隠さずエルゼリに伝えていたら、彼女は過去を思い切ることができ、かつての恋人の死の報せに遭っても、手首にナイフを当てずに済んだろうか。いや、その時はハロルドが自転車の少年を追うこともなく、したがって馬車の下敷きになることもなかったはずなのだ。
エドガーとアランが去ったあと、作品はもう一ページしか残っていない。
「その人は それから三年の後病気でなくなったと聞きます」
という匿名の語り手の伝聞による報告と、
「たぶん生まれながらの妖精だったのです」
「あの人は夢に浮かぶはるかな国の住人だったのでした」
という断言、そしてその間(あい)を縫って薔薇の蔓のように絡まる、
「わたしが住むのはバラの庭」
「くちずさむのは愛の歌」
「日々思うのはやさしいひと」
という纏綿たる“ポエム“の裏には、しかしエルゼリが押し殺し、表情にも意識の表面にも出すことを拒絶した、負の感情が隠れている。たぶんそれが、彼女の知らないところで、エドガーの姿をとってハロルド・リーを訪ねて行ったのだし、次にはエドガーの知らないところで、無関係な少年の姿を借りて反復され、不実な恋人を死に追いやった。エドガーはハロルドのメッセージを逆にして伝えたが、真意はあやまたずエルゼリに届いて、彼は復讐されたのだ。
「あの人きっと奥様を愛し」
「生まれた子どもを愛し 家庭を愛しているのでしょう でもわたしは幸せ」
「一人バラの庭 とても…幸せ」
と呟く、“少女のような女”の手を全く汚すことなしに。
たぶんこういう書き方ができるところが、萩尾望都の才能なのだろう。それは、作者が女の登場人物を悪意や敵意や憎しみを、つまりは自我を持った人間として描けなかったのではないかという疑いとはまた別のものだ。この頃の萩尾の筆致は、マンガでしかできない表現の可能性をきわめる探求と実践として、甘美で魅力的であり、もうこれはマンガではなく小説だといったたぐいの賛辞がいかに馬鹿らしかったかわかるし、たとえばこの一冊を見るかぎり、エドガーとアランの関係は同性愛というようなものではなく、「やおい少女」に敵対的で、男が女にやってきたことを女が男にやるのかと被害者づらしたゲイ当事者()のみならず、ホモフォビックな批評家にも評判がよかったのも頷ける。
ハロルドが少年をエドガーと誤認するところで、私はニコラス・ローグの映画『赤い影』を連想したが、それはシリーズの最終話『エディス』で、水を渡る赤いドレスのエドガーを見たからでもある。エドガーは「小鬼」と呼ばれ、『赤い影』の死んだ娘と思えたものの正体は小○であるが、いずれも死への案内人だ。
ここまで書いてからポーの一族の新作を読んでしまったので、それと無関係に続けることは無理になったが、『赤い影』がヴェネツィアを舞台にしたフィルムであることには触れておこう。偶然にしても、新作『春の夢』で水辺は死と危難に深く結びついているし、死者の行先、死者と再会できる場所は、他ならぬヴェネツィアであるからだ。幼い娘を水の事故で亡くした夫婦は、旅先の水の都で、娘がかつて着ていたのとそっくりの赤いフードつきマント姿の“影”に出会う。鹿撃ち帽にインバネス?(完全にホームズスタイルかと今気づいたーーちなみにグラナダT V版でジェレミー・ブレットによって一掃される前は、ホームズといえばあの帽子、しかもチェックで、山高帽のダンディが思い浮かべられることはなかった)という恰好で自転車に乗ったエドガーの場合もまた、同じ恰好の人物が容易に彼と見誤られ得た。
もう一点指摘しておこう。今回読み返した最終巻は『ピカデリー午前7時』を冒頭に据えているが、『はるかな国…』で、エドガーがエルゼリのどんな意思を代行して男を死なせたかを見たあとでは、ここでも彼が代行者として、最後にメッセージを届けていることに気づかぬわけにはいかない。代行者と言っても、養女リリアに、恋人と幸せにというメッセージを送るのは、ポリスター卿の意思ではない。彼は「花嫁を育てていた」(エドガー)のだから。これはよくできた話だ。
「お父さまのようなおじさま」
「孤児のあたしをひきとって育ててくれたおじさま」
「ハンサムで…やさしくて…」
「大好きなお父さま」
リリアから見たこの素敵なおじさまとは、理想化された父、近親姦タブーをまぬかれたその代理であり、娘の願望だーーむろん、孤児になることが、孤児でない子供だけが持ちうる夢であるように、現実に娘に手を出すような父を持たない幸福な娘にのみ可能な願望だが。『ピカデリー7時』は、オルコットの『八人のいとこ』を思い出させる。私事を言えばこの本も、いとこたちのお下がりの一冊として私のもとに来たのだが、少し大きくなる頃には、少女ローズの後見人となった魅力的なアレック叔父さんが、正体を隠した理想の父であることに気づいていた。『若草物語』の、かた苦しい生活信条や出来過ぎた母の影は微塵もなく、自由な男である叔父さんは、女たちの(からの)抑圧からローズを解放する。しかも彼女は、姉妹ではなく、男ばかり七人のいとこにーーその称賛のまなざしにーー囲まれている(エルゼリのバラの庭に集まるのが、男の子ばかりなのが思い合わせられる。彼らは、エルゼリに気に入られたエドガーに因縁をつけるーーそして帰り討ちに遭うーーほどに彼女に夢中なのだ)。
『八人のいとこ』には、別の意味でエルゼリに似た「ピース大おばさん」もいる。結婚式の朝、婚約者の死の報せを受け、みんなはやさしいピースがそのまま死んでしまうかと思いました(本が手元に見つからないので記憶で書いている)という、しかしその打撃に耐えて生きのび、いつも微笑を浮べて他人に尽し、その名の通り穏やかで、いつも手仕事にいそしむ老婦人……エルゼリ以上にあらゆる葛藤を避けた、恋人を失った女である。
オルコットの影響は確実にあるという気がしてきたが、影響関係抜きで、薔薇つながりでもう一つーー交際していた男が町を去ると屋敷に閉じこもり、数十年間姿を見せなかったミス・エミリー(“A rose for Emily”)の場合だ。エミリーが死んだとき、町の人々は真実を知る(ちなみに、タイトルを除けば、こちらには薔薇は一本も出てこない)。
フォークナーの短篇は極北だが、リアリズムというわけではない。リアルなのは、父親に愛されて育った娘が、自然過程によって別の若い男に心を移す、『ピカデリー7時』の方だ。清純そのものの美少女リリアは、すでに“父”の目を盗んで恋人と待ち合わせるまでに成長している。「最愛の娘よ しあわせに わたしは遠くよりふたりのしあわせをいのる」という偽手紙で、父の敗北を完全なものにするエドガーだが、もともと、発端の、ポリスター卿宛ての電文「アスツク ポーツネル」で、彼の死の原因を作ってしまってもいたのだ。エドガーたちを待って旅行が中止され、リリアはポールと会えなくなり、ポールの同僚ラッドとクックは、主人が不在のはずのポリスター邸に盗みに入ってリリアの父と鉢合わせする。持ち去られた黒いトランクを百ポンドで買うという、エドガー代行のポリスター卿のメッセージに、「朝7時ピカデリー」と、リリアと恋人のポールが新たに逢引を約した時刻でラッドが応じるのは偶然ではない(「それにしても7時とはね 偶然にもデートの時間」とエドガーはとぼけているが)。
午前七時、ラッドが持って現れるポリスター卿の黒トランクは、彼の換喩であり、彼自身だ。エドガーがわざと警察に情報を与えたので、リリアは“おじさま”がそこに現れるとあらかじめ警部から言い含められる。ポールが現れ、ラッドに抱えられたトランクが現れ、そしてあとには、若い二人へのポリスター卿の許しのメッセージが残される。彼とともに消滅した目的地の地図を持たぬまま、黒いトランクとともに、彼の行先だった地方へ旅するエドガーたち。「なんのために」と問うアランに、「なんということもなく」とエドガーは応えるが、そんなことはあるまい。それに続く、「その黒いトランクは彼だよ 彼の墓標だ」という科白によって、タイトルとして掲げられた「ピカデリー7時」に何が起こったかを読者にはっきり知らせるためだ。そこは恋人との待ち合せの場所であると同時に、“おじさま”との再会、そして別れの、時と場所でもあった。これはよく企まれた話である。


















