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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ
1 指と脚
「金色の死 谷崎潤一郎大正期短篇集」(講談社文芸文庫)に収められた小品のうちから、『人面疽』(一九一八年)に続いて『青い花』(一九二五年)を読むなら、男の夢の対象となる両作品のヒロインが、実はイノセントである(と分るように書かれている)のがはっきり見てとれよう。前者の女優、歌川百合枝はアメリカ帰りで、「ロス・アンジェルスのグロオブ会社の専属俳優として、いろいろの役を勤めて居た」ことから、自分では演じた覚えのないフィルムの中での遍歴――前身は花魁で、アメリカ人船員と駆け落ちしての渡米後は「恐ろしく多情な、大胆な毒婦」として「身分の高い紳士連が幾人となく彼女に魅せられて生き血を吸われる」ことになる――が実人生のそれと重なるような錯覚を起こしがちだが、実は彼女の役どころは、「胆力と身軽さ」を生かした「女賊とか毒婦とか女探偵」であり、「キクコという日本の少女が、某国の軍事上の秘密を探るべく、間諜となって欧亜の大陸を股にかけ、芸者だの貴婦人だの曲馬師だのに変装する」荒唐無稽な活劇を演じこそすれ、実生活でのスキャンダルが取り沙汰された様子はなく、輸入されたフィルムが「内地人に多大の人気を博した結果」、「前例のない高給を以て」東京の映画会社に迎えられたという設定だ。

 また、後者の、十八歳の少女あぐりについて、主人公の岡田は、もし自分が今、あぐりと銀ブラしている最中の往来で倒れて死んだらと考え、薄情なあぐりの振舞いについて白昼夢に耽るが、これも全く彼女には関係がない。それどころか、いわばなりきりであり、彼が彼女の主体の位置を占有し、彼女の内面を自分語りしている。しかも冒頭、岡田は自分が近頃とみに痩せて「かつてはあんなにつやつやと肥えて居た肉と脂肪」が殺げ、「毎日々々、入浴の度びに全身を鏡に映しては、そつと肉附きの衰えた具合を検査するのが癖になつてしまつた」と嘆くが、そうならない以前、つい二三年前まではどうだったかというと――

《彼の体つきは女性的だと言はれて居た。友達と一緒に湯に這入つたりなんかすると、「どうだい、ちよつと斯う言ふ形をすると女のやうに見えるだらう、変な気を起こしちやいかんぜ」などと自慢をしたものだつたのに。》
 
 誰がお前なんかにという、あきれた内心の声が聞こえて来そうだが、本人は真剣この上なく、「就中女に似てゐたのは腰から下の部分だった。ムツチリした、色の白い、十八九の娘のそれのやうに円く隆起した臀の肉を、彼は鏡に映してウツトリとした覚えがある」というのだから手がつけられない。「入浴の度びに全身を鏡に映して」というのがそもそもナルシシズムの発露だったのだ――ちょっと『秘密』(同じく一九二五年)の主人公を思い出させるナルシストっぷりだが、しかし岡田の場合――

《股(もも)や膨らつ脛(ぱぎ)の線などが無恰好なくらゐに太つて居て、その脂ぎつた、豚のやうな醜い脚を、あぐりと一緒に入浴しながら、彼女のそれに比べて見るのが好きであつた。その当時やつと十五の少女だつたあぐりの脚の西洋人のやうにスツキリしたのが牛屋(ぎうや)の女中の脚みたいな彼のものと並べられる時、一層美しく見せるのをあぐりも喜んだし彼も喜んだ。》

というのだから、自信満々の女装者が自分より美しい「本物の女」に出会う『秘密』と違って勝負は最初からついており、しかもその脚は今は肉が落ちて骨が突き出し、胸は肋骨が浮いて「胃袋の上から喉の所までありありと透き徹つて」見え、「太鼓腹」も凹み、「脚の次に「女らしい」ので自慢をした腕」は「人間の腕と云ふよりは棒ッキレだ。胴体の両側に鉛筆がぶら下つて居るのだ」というのだからいったい何があったのか。

《一体こんなに痩せてしまつて、それでも生きて動いて居るのが不思議でもあり、有り難くもあり、自分ながら凄じくもある。――さう考へると、もうそれだけでも彼の神経は脅かされて急にグラグラと眩暈がする。後頭部がずしんと痺れてそのまゝ後ろへ引き倒されるやうな、膝頭がガクガクと曲りそうな気持になる。》

 この最後のグラグラはこの後何度か繰り返されて、全く心配してやるようなものではないことが判るが、それにしても驚きの衰えようである。

 もっと驚くのは、次のくだりの最後だろう。

《長い間に嘗め尽した歓楽と荒色の報ひであることは、――糖尿病のせいもあるけれどそれも報ひの一つであるから、今更嘆いても追つゝかないやうなものゝ、ただ恨めしいのはその報ひが意外に早く、(…)それも内臓の病気ではなく、外形の上に来たことである。まだ三十台だ。》

 三十八くらいなのかなと思うと、先へ行ってまたグラグラの時に三十五だと判明、しかもこれは数え年だから今なら三十四か三で通用する年だ。そういえば「やつと十五の」あぐりの方も満年齢なら十三四だったことになるが、こちらは「生れてからピアノのキイに触れるより外一度も堅いものに触れたことのないやうな、柔らかい、すんなりした指どもが、今日は一と入[しほ]なまめかしい色つやを帯びてゐる」。しかし直後に岡田は「若しこんな指が福寿草のやうに小さな鉢に植わつて居たら、どんなに可愛らしいだらう」と、あまり穏やかでも無邪気でもないことを思う――

《自分がだんだん年を取るのと反対に、此の手は不思議にも年一年と若々しさを増して来る。まだ十四五の折りにはそれは黄色く萎びてゐて、細かい皺が寄ってゐたのに、今では皮がピンと張り切つて、白く滑かに乾燥して、その癖どんな寒い日にでも粘ッこい膩肉(あぶらみ)がじつとりと、指輪の金が曇るくらゐに肌理に沁みてゐる。》

 衰えるわが身に代って芽生える「死人の指」――少女の屍体の部分を埋めるかのような連想が働く気味悪さに加え、『ハムレット』のガートルードの、オフィーリアの花輪に編み込まれた花についての科白――「淫らな羊飼いたちは下卑た名で呼ぶが、清純な乙女たちは「死人の指」と呼ぶ」――も思いあわされる(これを紫蘭とするのは坪内逍遥の誤訳で別の植物らしく、「死人の指」も花ではなく、根を指すらしい)。

『秘密』については、以前、主人公の「私」が女装を止め、謎の女の許に通いはじめる際の、劇的な変身ぶりをこう記述したことがある――【「私はすつかり服装を改めて、對の大島の上にゴム引きの外套を纏ひ、ざぶん、ざぶんと、甲斐絹張りの洋傘に、瀧のごとくたゝきつける雨の中を戸外(おもて)へ出た」。小紋を買うくだりで「大柄の女が着たものと見えて、小男の私には寸法も打つてつけであつた」とあるから長身のはずはないのだが、ゴム引きの外套と洋傘で完全防備し、石突は直ぐ天を指し、瀧のごとき雨中に(船腹を打つ波さながらのざぶん、ざぶんが凄い)すっくと立った雄々しい姿。】〔註〕

 とかく谷崎については、足フェチと言えば済まされると思われがちなようだが、足フェチと言い条「脚自体」が欲望をそそるわけはなく、問題は足の象徴作用であり、足はあくまで男の子が母の男根の不在を否認した際の男根の代理物なので、不在の「母の男根」はあぐりの足でも、手の指でもあり、また岡田自身のご自慢の脚や、『秘密』の語り手の女の着物に覆われた全身にもなるが、『秘密』ではその衣裳すら脱ぎ捨てられ、【「新堀の溝が往來一面に溢れてゐるので、私は足袋を懐へ入れたが、びしょびしょに濡れた素足が家並みのランプに照らされて、ぴかぴか光つて居た」というファリックな生足もあらわな成年男子が仁王立つ。】(前出拙稿)

 思えば『秘密』の主人公は、女装の快楽を次のように熱く語っていた。

《口邊を蔽うて居る頭巾の布(きれ)が、息の為めに熱く濕(うるほ)つて歩くたびに長い縮緬の腰巻の裾は、じやれるやうに脚へ縺れる。みぞおちから肋骨(あばら)の邊を堅く締め附けて居る丸帶と、骨盤の上を括つて居る扱帶(しごき)の加減で、私の體の血管には、自然と女のやうな血が流れ始め、男らしい気分や姿勢はだんだんとなくなつて行くやうであつた。》

 まさに女の恰好をするだけで「女の心」がそなわるのだ。

《芝居の辨天小僧のやうに、かう云ふ姿をして、さまざまの罪を犯したならば、どんなに面白いであろう。》

 さらに女装者はこうも告白する。

《或時は淋しい公園をぶらついて見たり、或時はもうはねる時分の活動小屋へ這入って、態(わざ)と男子席の方へまぎれ込んで見たり、はては、きわどい悪戯までやって見るのです。》

 今のは、もう明治の終りに書かれた『秘密』ではなく、大正も押しつまって登場した『屋根裏の散歩者』の郷田三郎の弁である。郷田は続ける――

《そして、服装による一種の錯覚から、さも自分が妲妃のお百だとか蟒蛇お由だとかいう毒婦にでもなった気持で、色々な男達を自由自在に飜弄する有様を想像しては、喜んでいるのです。》

『人面疽』の劇中劇の女優が映画内の人生で演じたのが「恐ろしく多情な、大胆な毒婦」だった(「身分の高い紳士連が幾人となく彼女に魅せられて…」)のが思い出されるし、すでに引いたように、その役を演じた覚えのない歌川百合枝の当たり役も「女賊とか毒婦とか女探偵」であり、劇中で「芸者だの貴婦人だの曲馬師だのに変装する」。
乱歩の郷田三郎も谷崎の『秘密』の語り手も探偵趣味の変装マニアで、女装して右に並べたような女のヴァリエーションを自在に演じ、男を魅了し、籠絡し、手玉に取ることを夢見ている。つまるところ、男たちが「女優」という特殊な女に演じさせようとする「女」とは、できれば彼ら自身がなりたかったものであり、本当は今でもそうなりたいのだとこれらの物語は告げている。

2 人形遊び
『青い花』の岡田の場合、リビドーが残らずあぐりに向けられて、一見こうした欲望――彼自身が「女」になることへの欲望――とは無縁のようだが、それは先に引いたような衰えゆえであり、そうでなければ「女のやう」な身体で男を誘惑できる(「服装による一種の錯覚」もなしに)と信じられたほどなのだから、女物の着付けの締めつけで女の気持ちになったり、「こつてり塗り附けたお白粉の下に、「男」と云ふ秘密が悉く隠されて、眼つきも口つきも女のやうに動き、女のやうに笑はうとする」という『秘密』の主人公よりはるかに自信家でおめでたく、また同性愛の抑圧を公然とひけらかしている。

 醜い男と美しい女の極端な対比は、乞食–人面疽と女優の対比とも同じだが、三十五にしてすでに瘋癲老人に身をやつしたかのような岡田の欲望は、先に引いた『秘密』の、女装を捨て、「ぴかぴか」の男根に変身して女の下へ行くというような手間もかけずにひたすらあぐりに集中する――

《彼は(…)その着物の下にある「女」の彫像を心に描く。一つ一つの優婉な鑿の痕をありありと胸に浮かべる。今日はその彫像をいろいろの宝石や鎖や絹で飾つてやるのだ。(…)そう思う時、愛する女の肢体の為めに[強調は引用者。「愛する女の為め」でないところに注意]買ひ物をすると云ふ事は、まるで夢のやうに楽しいものぢやないだらうか。》

 この直前では、

《あぐりと云ふものを考へる時、彼の頭の中は(…)真つ黒な天鷲絨の帷を垂らした暗室となる。――その暗室の中央に、裸体の女の大理石の像が立つて居る。その「女」が果たしてあぐりであるかどうかは分らないけれども、彼はそれをあぐりであると考へる。少なくとも、彼が愛してゐるあぐりはその「女」でなければならない、――頭の中のその彫像でなければならない、――それが此の世に動き出して生きているのがあぐりである。》

と、己れのピグマリオニズムを隠そうともしない上、「彫刻家ピグマリオン」の面目躍如の記述がさらに続く。

《彼女の肌からあの不似合な、不恰好な和服を剝ぎ取つて、一旦ムキ出しの「女」にして、それのあらゆる部分々々の屈曲に、輝きを与え、厚みを加え、生き生きとした波を打たせ、むつくりとした凹凸を作らせ、手頸、足頸、襟頸、――頸と云ふ頸をしなやかに際立たせるべく、洋服を着せてやるのだ。》

 むろん、「ムキ出しの『女』」などという素体に彼の関心はなく、ネルの着物の下のあぐりは、エディソンの地下室で黒いヴェール(「真つ黒な天鷲絨の帷」)の覆いの下にいる、潜在的にあらゆるタイプの――ただし男の想像しうるかぎりの――女になりうるがまだ何者でもない、ハダリー(『未来のイヴ』)からもあまり遠くないのだろう。彼らがそぞろ歩く横浜山下町の外国人街は、こうして、彼の人形遊びのための夢の舞台となる。

 それは「物静かな、人通りの少い、どつしりした洋館の並んで居る街」であり、「ひつそりした灰色の分厚な壁の建物の中に、ただウインドオのガラスだけが魚の眼のやうにきらりと光つて、それへ青空が映つて居る」街だ。「街とは云ふものの、それは恰も博物館の歩廊のやうな感じである」。また窓の中の商品も、「怪しくなまめかしく、たとへば海の底の花園じみた幻想を与へる」。萩原朔太郎の『定本青猫』の、「どうしてこんな情感の深い市街があるのだらう」という嘆息や、その挿画や、ジョルジョ・デ・キリコのアーチのある歩廊や無人の街を連想させる横浜の通りを往き来しながら、彼はこんなことを思いはじめる。

《彼の懐には金がある、そして彼女の服の下には白い肌がある。靴屋の店、帽子屋の店、宝石商、雑貨商、毛皮屋、織物屋――金さへ出せばそれらの店の品物がどれでも彼女の白い肌にぴつたり纏はり、しなやかな四肢に絡まり、彼女の肉体の一部となる。》

 このあたりはごく初歩的で分りやすかろう。一方に貨幣、一方に肌があり、貨幣は商品と交換されて彼女の肌を押しつつむ――だけではない、彼女の肉体の一部となる。自由間接話法で岡田はさらに言いつのる――

《西洋の女の衣裳は「着る物」ではない、皮膚の上層へもう一と重(かさね)被さる第二の皮膚だ。外から体を包むのではなく、直接皮膚へべつたりと滲み込む文身(いれずみ)の一種だ。》

「西洋の女」という権威づけにこだわることはあるまい。また、「西洋の女の衣裳」とは本当にそういうものだろうかという疑問についても同様だ。なぜなら、西洋の女も、西洋の女の衣裳とも無関係に、「藍地に大小あられの小紋を散らした女物の袷が眼に附いてから、急にそれが着て見たくてたまらなく」なった『秘密』の主人公が、すでに布地と肌との関係については、次のように雄弁に語っているからだ。

《女物に限らず、凡べて美しい絹物を見たり、触れたりする時は、何となく顫(ふる)ひ附きたくなつて、丁度戀人の肌の色を眺めるやうな快感の高潮に達することが屢々であつた。殊に私の大好きなお召や縮緬を、世間憚らず、恣(ほしいまま)に着飾ることの出来る女の境涯を、嫉ましく思ふことさへあつた。
 あの古着屋の店にだらりと生々しく下つて居る小紋縮緬の袷――あのしつとりした、重い冷たい布きれが粘つくやうに肉體を包む時の心好さを思ふと、私は思はず戦慄した。》

『青い花』の岡田はその「心好さ」を自分からは切り離してあぐりに投影しているのであり、あぐりとは、何よりもそのための依り代として必要不可欠な人形なのだ。

3 切れ地の皮 血のしたゝり
「しつとりした、重い冷たい布きれが粘つくやうに肉體を包む」――「直接皮膚へべつたりと滲み込む文身(いれずみ)」――しっとり、べったり、ねばつくように、「第二の皮膚」が「女」の表層に、文字のように浸透する。ここまではいい。しかしここで、驚くべき――しかし当然の――飛躍が起こる。

《――さう思つて眺める時、到る所の飾り窓にあるものが皆(みんな)あぐりの皮膚の一と片(ひら)、肌の斑点、血のしたゝりであるとも見える。》

 最前、銀座通りであぐりが、飾り窓にアクアマリンの指輪を見つけて指をかざした時も、五月の陽光を受けて「柔かい、すんなりした指どもが、今日は一と入[しほ]なまめかしい色つやを帯びてゐる」のを認めた後に、語りは「若しこんな指が福寿草のやうに小さな鉢に植わつて居たら」と、突然、切断され移植された指のイメージで私たちを驚かせたが、ここでも肌に密着する「彼女の肉体の一部」のはずだったものが不意に逆転し、あぐりの皮膚のひとひら、血のひとたらしとなって、飾り窓の中に出現する。

 この「肌の斑点、血のしたゝりであるとも見える」という記述は、あるいはボードレールの『宝石』の最終行から来ているのかもしれない。『宝石』は、色と光が音立てて触れあう金銀細工と宝石だけを身につけた、「私」の心を知り抜いた女が横たわり、房事の後、ランプの火が燃え尽きて暖炉が部屋を照らすばかりになり、炎が燃え上がるたび、女の琥珀色の肌が血にひたされるという趣向で、『悪の華』発禁の原因となった「禁断詩篇」の一つだが、原詩に負けない惨劇の気配が谷崎の一行にはあるし、「暗室の中央に、裸体の女の大理石の像が立つて居る」のくだりだけでも、「我は美し 人間よ/あたかも似たり 石の夢」ではじまる、ボードレールの『美』が連想される。この種の研究は沢山あるだろうし、すでに指摘があって何の不思議もないが、「直接皮膚へべつたりと滲み込む文身」というのも、ギュスターヴ・モローの、裸に装身具だけが描き込まれた踊るサロメの諸作を思わせる。

 横浜山下町に戻ろう。「彼」の語りは続いている――

《彼女は其れらの品物の中から自分の好きな皮膚を買つて、それを彼女の皮膚の一部へ貼り付ければよい。若しもお前が翡翠の耳環を買ふとすれば、それはお前の耳朶(みみたぼ)に美しい緑の吹き出物が出来たと思へ。あの毛皮屋の店頭にある、栗鼠の外套を着るとすれば、お前は毛なみがびろうどのやうにつやつやしい一匹の獣になつたと思へ。あの雑貨店に吊るしてある靴下を求めるなら、お前がそれを穿いた時からお前の足には絹の切れ地の皮が出来て、それにお前の暖かい血が通ふ。エナメル沓を穿くとすればお前の踵の柔かい肉は漆になつてピカピカ光る。可愛いあぐりよ!》

「彼女」から「お前」へ、仮定形から命令形へ、耳たぶの一点の緑から一匹の栗鼠そのものへ、移植された絹地に温かい血が通うかと思えば、肉がある種の化石かミイラのように、漆に浸透されて異様な光沢を放つ。マグリットの絵さながらの、ハイブリッド化、非人間化だ。

《彼処にあるものは、みんなお前と云ふ「女」の彫像へ当て嵌めて作られた、お前自身の脱け殻だ、お前の原型の部分々々だ。青い脱け殻でも、紫のでも、紅いのでも、あれはお前の体から剝がした皮だ、「お前」を彼処で売つて居るのだ、彼処でお前の脱け殻がお前の魂を待つて居るのだ、………お前はあんなに素晴らしい「お前のもの」を持つて居るのに、なぜぶくぶくした不恰好のフランネルの服なんかにくるまつて居る?》

 熱烈な信仰告白とともに疎外は進行し、ショウ・ウィンドウの中にはめくるめくレトリックのうちに輝くイデアのパーツが飾られ、彼女の装飾のためのはずだったものが彼女の本質へと逆転し、かくして、「狭い部屋の両側にガラス張りのケースがあつてそれへ幾つもの出来合ひの服が吊るされて居る」、「とあるレデー・メードの婦人服屋へ這入つた」時には、「ブラウスだのスカートだのが、――」「『女の胸』や、『女の腰』が、――衣紋架けにかけられて頭の上に下つて居る」と叙述される。

「皮膚の一と片、肌の斑点、血のしたゝり」からはじまった商品への自己疎外は、「切れ地の皮」、「剝がした皮」、「脱け殻」へと進み、「『女の胸』や、『女の腰』」に至った。番頭が細かい直しのためにあぐりの寸法を取る時、先刻彼が店の奥へ向かってブラウスの値を訊いたように、「此の女はいくらだね」と言うんじゃないか、「自分は今、奴隷市場に居るのぢやないか、そしてあぐりを売り物に出して、値を付けさせて居るのぢやないか」と岡田が思うのは必然だろう。

 彼らは「室の中央」の「背の低いガラス棚」に、「ペティコートや、シュミーズや、靴下や、コルセットや、いろいろのレースの小切れやらが飾られて居る」のを見る。「柔かい、ほんたうに女の皮膚よりも柔かい、チリチリとちゞれた縮緬だの、羽二重だの、繻子だの、滑かな冷や冷やとした切れ地ばかりである」。本当はそれは女の皮膚よりも柔かく好ましい、女の皮膚に取って替って、自分がそれに包まれるのを男が夢見る「滑かな冷や冷やとした切れ地」、「だらりと生々しく下つて居る小紋縮緬の袷――あのしつとりした、重い冷たい布きれ」(『秘密』)ではないのか。しかし彼は相変らずあぐりになりきって、語り手を通してあぐりの心を語る。

《あぐりは自分が、やがてそんな切れ地を着せられて西洋人形のやうになるのかと思ふと、番頭にジロジロ見られるのが恥かしくて、快活な、元気のいゝ彼女にも似ず妙に内気に縮こまりながら、その癖「此れも欲しい、彼(あ)れも欲しいと云ふやうに目を光らせる。」

 右の叙述のうち事実と一致するのは、「番頭にジロジロ見られるのが恥かしくて」「妙に内気に縮こまり」くらいだろう。「此れも欲しい、彼(あ)れも欲しいと云ふやうに」とは、岡田によって勝手に付け加えられた解釈だ。捏造される欲望。「あたし、どんなのがいゝか分らないけれど、………ねえ、どれにしようか知ら?」と「当惑したやうに」言うのが、かろうじて聞き取れる彼女自身の声である。

 このすぐあとで読者にも分るが、彼女は洋服を着るのもまるではじめてなのだ。だから銀座通りで岡田が倒れて死んでしまったあと、その「ポッケット」から大金を取り出し、幽霊になった彼に、

《ちよつと、幽霊さん、お前のお金であたしはこんな指輪を買つた、こんな綺麗なレースの附いたスカートを買つた、そら御覧、(と、そのスカートを捲くつて見せて)お前の好きな私の脚、――此の素晴らしい足を御覧。此の白い絹の靴下も、膝の所を結んである桃色のリボンの靴下留めも、みんなお前のお金で買つた。何とあたしは品物の見立てが上手じやなくつて?》

と言い放つあぐりは(むろん読者は岡田の妄想と承知して読むけれど)到底現実ではありえず、しかし『人面疽』の百合枝が劇中劇の役に引きずられて「恐ろしく多情な、大胆な毒婦」であるかに見誤られるのと同様に、岡田のポッケットから金を取り出すあぐりが、その金で「好きな物を買ひ好きな男と浮気をしても、あたしを恨む訳はないから、彼はあたしが多情な女であることを知り、それを許して居たばかりか、時にはそれを喜んでさへ居たのだから」と言う時、これが人形遣いの岡田の声色であることを忘れ、設定自体は荒唐無稽だが、実際あぐりは「わがままで贅沢好き」(文庫版解説)な娘であると受け取りがちというか、あえてそう誤読されるように書かれている。

 しかしあぐりが「番頭にジロジロ見られるのが恥かしくて」「妙に内気に縮こまりながら」「目を光らせる」のには、たった一つの理由しかあるまい。この直前「うす暗い奥から出て来た日本人の番頭」は、「此のお嬢さんがお召しになる?――どんなのがよござんすかな」と「言いながらあぐりの様子をジロジロと見ていた」。自分が番頭の目にどう映ったか、彼女にはよく分っている。親子には見えず、かといってどこぞの令嬢でもない。その美貌で、裕福な中年男の囲い物になり、高価な洋服を買い与えられようとしている若い女。彼女の出自については全く言及がないが、「わがままで贅沢好き」ゆえに今の生活に入ったなどということはありえまい。正妻になるというような大それた望みなど持たない、“わきまえ“もあるのだろう(『未来のイヴ』の話が出る時、決まって俗悪な魂と片付けられるアリシヤも、本当は明らかにこの系統の女である)。


 洋装の仕上げとなる翡翠の耳輪、真珠の頸飾、靴や帽子を買いととのえ、夕刻、彼らは婦人服屋へ戻ってくる。番頭にうながされ、

《しっとりと、一塊の雪のやうに柔かい物を片手にかゝえて、岡田はあぐりの後についてスクリーンの蔭へ這入つた。等身の姿見の前に進んで、彼女は相変らずむづかしい顔をしつゝも、静かに帯を解き始める。………岡田の頭の中にある「女」の彫像が其処に立つた。彼はチクチクと手に引つかゝる軽い絹を、彼女に手伝つて肌へ貼り着けてやりながら、ボタンを嵌め、ホックを押し、リボンを結び、彫像の周囲をぐるぐると廻る。》

「女」の「彫像をいろいろの宝石や鎖や絹で飾つてやる」という、「不似合な不恰好な和服を剝ぎ取つて、一旦ムキ出しの「女」にして、それのあらゆる部分々々の屈曲に、輝きを与え、厚みを加え」云々という、彼の望みは実現した。ここで岡田が「等身の姿見」(ヘンリー・ジキルの友人アタスン弁護士とジキルの執事がドアを破って押し入った時、ジキルの部屋にあったものでもある)の前に身を置いているのは示唆的だ。本来彼こそが、「入浴の度びに全身を鏡に映して」「ウットリ」するナルシスであったのだから。ウィリアム・ウィルスンなら彼自身を、ジキル博士なら醜いハイドを見出す姿見の前で、岡田は「他者としての女」に向きあった。

4 退行と死
 小説には、もうあと二つの文しか残っていない。

《あぐりの頬には其の時急に嬉しそうな、生き生きした笑いが上る。………岡田はまたグラグラと眩暈を感ずる。………》

 これが一篇の終りである。あぐりの顔にはなぜ笑みが浮かんだのか。岡田はなぜ「グラグラ」したのか。

 最初に「急にグラグラと眩暈が」したのは、彼が自分の健康状態を危ぶんだ時だった。実はこの短い物語は、尾張町の四つ角(どこだか分りますね?)で、あぐりを伴った岡田が友人と行き合って、痩せたと言われるところからはじまっていた。相手はあぐりとの関係ならすでに知っているので、別に冷やかされたわけではないのだが、外見への不意の批評は、思いがけない打撃となって彼に眩暈を起こさせた。

 二度目のグラグラは、飾り窓の指輪を前に、あぐりが「手の甲を岡田の鼻先へ持つて来て五本の指を伸ばしたり縮めたりし」た際のことだ。例の、福寿草のように小さな鉢から生える指の空想を展開する岡田の傍で、彼女はウィンドウの手すりに手を乗せて、「問題のアクアマリンの事は忘れたやうに自分の手ばかり視つめてゐる」。すると彼も同じところを見つめて、「この愛着の深い一片の肉の枝」をめぐる思い出と空想にふけり、「それが挑発するさまざまの密室の遊びを連想して、毒々しい刺戟に頭がズキズキする」。

《………ぢつと見ていると、岡田にはそれが手だとは思へなくなつて来る。………銀座の往来で、この十八歳の少女の裸体の一部、――手だけが此処にむき出されてゐるのだが、………肩のところもあゝなつて居る、胴のところも………腹のところもあゝなつて居る、………臀、………足、………それらが一つ一つ恐ろしくハッキリうかんで来て奇妙な這ふやうな形をする。》

というのだから、手だけではない、寸断された身体のパーツまでが、すでにあやしく這い出していたのだ。「見えるばかりでなく、それがどつしり、十三四貫の肉塊の重みとなつて感ぜられる」。グラグラが来て、岡田は後ろへ倒れそうになる。

 三度目のグラグラは、「耳には耳環をつけ、頸には頸飾をつけ、胸には絹だか麻だかのサラサラした半透明なブラウスをつけ、踵の高いきやしやな靴先でしなしなと………街を通る西洋人のやうに」なつたあぐりを想像し、あぐりも心得ていて「さう云ふ西洋人がやつて来ると、彼女はすかさずジロジロと見送つては、『あの首飾はどう? あの帽子はどう?』と云ふ風に」岡田に尋ね、「彼には若い西洋の婦人と云ふ婦人が、悉く洋服を着たあぐりに見える」という具合ながら、飾り窓の中の寸断された商品よりはまだトータルな「西洋婦人」という人間の姿をしたモデルであるだけ“まとも“に見える空想から、そうやって「可愛い小鳥のやうに仕立てた」彼女を「楽しい隠れ家を求むべく汽車に載せて連れて行く」空想に移った先で起こる。

《そこで遊びが始まるのだ、自分が始終夢に見て居る――たゞその為めにのみ生きてゐる――面白い遊びが始まるのだ………その時彼女は豹の如くに横はる、………頸飾と耳環を附けた豹の如くに横はる、(……)。あゝその遊び! 考へたゞけでも彼の魂はエクスタシーに引き込まれる。》

 これでブルブル、グラグラ、再び気が遠くなるのだから岡田の健康状態を気づかう必要などないというものだが、この猫族の女もまた、ボードレールの詩Le Léthé(忘却の川)を思わせる。装身具(だけ)を身に付けているのは、『宝石』の、心利いた愛人に通じようが、あぐりももう栗鼠や「可愛い小鳥」ではなく、フェルナン・クノップフの『愛撫』のチータや、『ヴェラーレンのために――天使』の虎女、要するにファム・ファタールとしてのスフィンクス(もちろんモローの画題でもある)だ。『美』の、人間たち(いや、男たち)に呼びかける美神la Beauté「石の夢」が、そもそもスフィンクスであった。

『忘却の川』は、詩人が自らの心臓(胸)の上に来るようにと、残酷で無慈悲な「熱愛された虎」を呼ぶことではじまり、(苦しみを忘れさせる薬)ネーペンテースと毒人参を「尖った胸の魅力的な先端から吸う」ことで終る。その胸は「かつて心を納めたことがない」。この受動性とマゾヒズムも、谷崎のテクストが大いに共有するものだ。しかもなぜあぐりに心がないのか――むしろあぐりにそれがあったらなぜ困るのかが、ちゃんと判るように書かれている。

 Le Léthéをあらためて読むと、詩人と情婦の関係が、臆面もなく母子関係の再現であるのに驚かされる。谷崎の小説では、このあと岡田が幼い愛娘や、「髷に結ったその児の母」や、彼自身の亡き母までもが現れるのを見るくだりがある――別に幻覚ではなく、映画的手法というか、彼女たちが幻として現れるのが観客にも見える趣向だが、彼女たちは無論あぐりのような女――ボードレールの場合、そういう女は、生殖/再生産から切り離された娼婦、情婦、レスビエンヌ等と呼ばれていた――の対立物だ。しかし、「裏切者や意地悪な者に対してさえ母であれ」(『秋の歌』)という恋人への懇願は、実のところその線引きを無効にし、恐しい/優しい母しか残さないだろう。

 そういえば先に引いた『秘密』の主人公、女姿の自分に見惚れ、通りをゆく女たちも自分に嫉妬していると疑わず、しかし到底敵わない本物の女に出会って一気に意気消沈してしまうが、相手はかつて彼が船の中で関係を持ちそのまま捨てた因縁の女で、「私は美貌を羨む嫉妬の情が、胸の中で次第次第に戀慕の情に變つて行くのを覚えた。女としての競争に敗れた私は、今一度男として彼女を征服して勝ち誇つてやりたい」――そう思って女の指示に従い、大雨の中を目かくしされて迎えの俥に乗る、ファリックな仁王立ちの様子は先に引いたが、その直後の、幌の中の記述はこうである。

《しめつぽい匂ひのする幌の上へ、ぱらぱらと雨の注ぐ音がする。疑ひもなく私の隣りには女が一人乗つて居る。お白粉の薫りと暖かい體温が、幌の中へ蒸すやうにこもつてゐた。(…)隣りに並んでゐる女は勿論T女であらうが、黙つて身じろぎもせずに腰かけてゐる。(…)海の上で知り合ひになつた夢のやうな女、大雨の晩の幌の中、夜の都會の秘密、盲目、沈黙――(…)》

【幌をかけた俥に閉じ込められた「私」は最前の勢いはどこへやら、目隠しを取ることさえせず、触覚と嗅覚だけの受け身の存在となる。女が「私」の「固く結んだ」唇を分け、「巻煙草」を押し込んで火をつける。「海の上で知り合ひになつた夢のやうな女」――といっても、そんなことが本当にあったのだろうか。女を夢中にさせただの、恋い焦がれる女を捨てただの、そんな一人前の密事は本の中ででも読んだのではないか。遮断された胎内で彼は口唇期に退行し、匂いと味に惑溺しながら夢を見続けているのではあるまいか――母のように世話を焼く、夢の女にさらわれてゆく夢を。】(前出拙稿)

 それかあらぬか岡田もまた、銀座の鋪道で自分が「急に気が違つてだらしなく泣き出すところを想像」する。「たつた今まで、年頃のお嬢さんを連れて(…)銀座通りを歩いて居た中年の紳士、――そのお嬢さんの伯父さんとも見える男が、急に顔の造作を縦横に歪めて「わあッ」と子供のやうに泣き出す」のだ。

 それにしても「お嬢さんの伯父さん」とは〈父〉の婉曲表現でなくて何であろう。無論岡田に〈父〉の役割を引き受ける気などありはしなくて、「あぐりちゃん、あぐりちゃん、僕はもう歩けないんだよう! おんぶしておくれよう!」とカラーやネクタイをうっちゃって「ペッタリと地面へ倒れ」、「早く洋服を脱がして柔かいものを着せておくれ、往来だつて構わないから、此処へ蒲団を敷いておくれ」と口走り、「二人の周りには真ッ昼間黒山のやうな人だかりだ、巡査がやつて来る、――あぐりは衆人環視の中で尋問される」――これはもう、道路に寝転がって泣き叫び母を困らせる甘やかされた幼児でしかなく、それをいい年の“中年紳士“が、十七も下の小娘相手にやっている(ところを夢想している)。気が遠くなり頭がグラグラしてあおのけに倒れて死ぬ空想も、死が受動性の極地だからだ。

 この前のところで、道に倒れて死ぬ空想のあと、岡田は、自分はもう本当に病気なのではないかと思いはじめ、銀座の舗装道路の堅さが踵から頭にまで響き、「足の肉を型にハメたやうに締めつけて居る」靴も、全身を絞り上げる「締め金やボタンやゴムや鞣皮」も、ガーターで「脛にぴんと引つ張られて居る」靴下も、尾錠で「骨盤の上に喰い込ませ、肩から襷がけに吊り上げ」たズボンも耐え難くなっていた。空想の中で泣きながら「滅茶々々にかなぐり捨てゝ暴れ廻る」ことになるカラーやネクタイは言うまでもない。『秘密』には、「みぞおちから肋骨(あばら)の邊を堅く締め附けて居る丸帶と、骨盤の上を括つて居る扱帶(しごき)の加減で、私の體の血管には、自然と女のやうな血が流れ始め、男らしい気分や姿勢はだんだんとなくなつて行くやうであつた」とあったが、“男装“の拘束をも厭うのであれば、衣裳全般をかなぐり捨て、むしろ全責任を放棄したい幼児退行願望症候群と言えよう。

5 最後の秘密
 フロイトに「小箱選びのモチーフ」なる小論があり、『ヴェニスの商人』の求婚者に課される表題の選択や、『リア王』におけるリアが選ぶのを拒んだ三人目の娘の意味を論じながら、男にとって不可避的な女との関係の三通りの形態を、産む女、性的対象としての女、破壊者としての女であると言っている。しかし、二番目のものは「母の像を標準にして選ぶ愛人としての女」なのだから結局は母しかおらず、第二の女はその不完全版、老いた母の代用物でしかないということになろう。そして三人目の女とは、「心のうちでは愛しているが黙っている」コーディリアの沈黙も、ポーシャの肖像を入れた鉛の箱もともにその象徴である、死神として男を再びその腕に受け入れる大地すなわち「死」なのである。リアがコーディリアの亡骸を抱いて現れる幕切れは、死せる英雄を戦場から運び去る古来の「死の女神」の像の逆転であり、娘を失った老人に「永遠の叡智が古い神話の衣をまとって、女の愛情をもはや断念せよ、死を選べ、死という必然性と和解せよと」言いきかせていると老フロイトは説くのだが、ほとんどそのパロディのように、老人を装う岡田は、小娘を母に仕立て上げ、その力強い腕に抱き取ってもらおうと目論んでいる。「黙つて身じろぎもせずに腰かけてゐる。(…)夜の都會の秘密、盲目、沈黙――」(『秘密』)のT女も無論そういう女であった。

 乱歩の『屋根裏の散歩者』の郷田三郎は明らかに明智小五郎の分身であり、彼を切り離してこそ探偵は、自らのうちから悪を分離したジキルのように明智(めいち)の側に身を置けるのだが、「探偵の分身としての女=女としての分身」なら、文学史的にはもっとはっきりした先蹤がある。「冒険家」adventurerシャーロック・ホームズに対する、adventuressアイリーン・アドラーだ。ワトスンが彼女をそう呼んで私たちに紹介するadventuressとは、「色々な男達を自由自在に飜弄」(『屋根裏の散歩者』)し、「身分の高い紳士連が幾人となく彼女に魅せられ」る(『人面疽』)、そして彼らを相手に色仕掛けでのし上がろうとする「多情な、大胆な毒婦」(同)という一典型であり、この小論のはじめで「男たちが「女優」という特殊な女に演じさせようとする「女」とは、できれば彼ら自身がなりたかったものであり、本当は今でもそうなりたいのだ」と書いた通りだ。ホームズが時折りアドラーの肖像写真を取り出して眺め入る仕草とは、ホモフォビックなシャーロッキアンの誤謬の霧から脱け出るなら、女としての自分へのナルシスティックな注視と判明しよう。

 自分は醜いという口実の下にあくまであぐり嬢をプレゼンテーションする岡田だが、相手が実は男ではないかという疑惑は、楽園の叙述のうちに蛇のように忍び込む。たとえば岡田の鼻先であぐりが「伸ばしたり縮めたりする」「五本の指」――「ぢつと見ていると、岡田にはそれが手だとは思へなくなつて来る」。たしかにその通りだ。しかしそれは続けて語り手が言うように「十八歳の少女の裸体の一部」がさらけ出されているからではなくて、ガートルードが口にする植物の名を思い出すまでもなく(福寿草のように小さな鉢から生える指の空想を岡田はしている)、それが男根象徴であるからだ。「この愛着の深い一片の肉の枝」をめぐる思い出と空想にふける岡田が、「それが挑発するさまざまの密室の遊びを連想して、毒々しい刺戟に頭がズキズキする」のは、もはやあぐりのせいではあるまい。岡田の衰弱を補填すべく、「一片の肉の枝」はメドゥーサ的に多数化された鎌首をもたげ、不思議の国の芋虫か茸のように伸びちぢみする。

 足フェティシストとは、母の男根の不在に直面しないためにその一歩手前に欲望を固着させる者のことだ。足フェティシズムは、安全極まりないがゆえに谷崎が公然と掲げた倒錯だが、あぐりにさせる“女装“――「いろいろの宝石や鎖や絹で飾つてやる」――の完成を目のあたりにして、岡田が気が遠くなるのは示唆的である。「他者としての女」が男であることをけっして見ないよう、岡田の意識は遠のくのだ。「愛する女の肢体の為に」買物をする楽しさを彼は語っていた。そうした薄い柔らかな生地は、愛する女の肢体(membre)を幾重にも覆い、“彼女“の性器(membre)を――女が男であることを――けっして顕わさせないためのヴェールなのだろう。

「あぐりの頬には其の時急に嬉しそうな、生き生きした笑いが上る」――これは虚無の笑いである。ショウ・ウィンドウの中で「いろいろのレースの小切れ」をまとった人形の目に一瞬宿ったかに見える光、絹の切れ地につかのま通った温かい血の赤らみに似て、現れるのと同じ速さでそれはすみやかに消えてゆく。


〔註〕鈴木薫「男と云ふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島」

# by kaoruSZ | 2022-05-22 19:30 | 文学 | Comments(0)

3

昨日、フラワーコミックス復刻版の1から4を購入。黄ばんだ5は、手持ちの1976年初版。4の表紙のエドガーに見覚えがあると思ったが、やっぱりこれも持っている(結果的にダブったが、持っていても在処が不明では……)。隣は『春の夢』(2017年)第一章の扉。良い絵だ。(2020年10月24日)

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ユニコーン』のあと雑誌掲載あって、しかも来月単行本で出るのか。全然知らなかった(最近まで全く興をそそられなかったから)。『ポーの一族』読み返して、やはり(現在を否定する意味ではなく)「時分の花」ってあるんだなと思う。


★ ★ ★ ★ ★


『小鳥の巣』でエドガーとアランがギムナジウムに現れたそもそもの理由(“誰が殺したクック・ロビン”)というか物語の口実、あのロビンも、川に落ちて流される子供だった(『春の夢』のノアと同じく)。「窓から落ちて死ぬ子供」も、マージの息子として『春の夢』に書き込まれていた。掲載順としてはポー・シリーズの最初になる『すきとおった銀の髪』、老いたる紳士チャールズ(といってもメリーベルと出会った時十四歳で、「三十年がすぎ去り」たから四十四に過ぎないが、まあ、四十で初老だから……それで「結婚二十五年め」とは、十九で結婚したわけか)が昔のままのメリーベルを見出し、「ああ あなたはきっとあの人の娘さんにちがいない あなたのお母さまはメリーベルとおっしゃるのでしょう?」と尋ねる場面は、『ユニコーン』のサルヴァトーレ・ルチオ父子とエステル(「あれから33年たつ」)の哀切な挿話として、男女を逆にし、年齢を高めて回帰している。もはや幼い恋ではなく、永遠の少女ではなしに。


 エドガーとメリーベルの異母兄オズワルド、彼らが去ったあと、図2のように“マドンナ”に慰められるが、これ、髪の色が違うだけで、オービンの思い人イゾルデだね(もう1934年だから、後者は断髪だが)。ここでマドンナが約束する結婚、子供、家庭こそ、オービンがエドガーを追わなかったら得られたはずのものだ。

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 【オズワルドとマドンナ】


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【オービンとイゾルデ】


 では、世のつねの幸せの代りに、オービンは何を取ったのか。「あの時あの人は私より 魔物の方を選んだのよ」(イゾルデ)。あの時とはこれよりさらに六年前、オービンは髪を伸ばしたままで(これは連載当時の時代精神を反映した、社会への抵抗、反体制のしるしだろう)、大人の男にならなかったのだ。それでもついに長髪の魔法使いを卒業することに決め、髪を切ってイゾルデに求婚しようとしたまさにその日に、エドガーに出会ってしまう。


 妖精や魔物を追いかけるオービンの設定については、先に「オカルトサブカル男」と呼んで批判的に言及したが、『ポーの村』と『グレンスミスの日記』に登場する、「サン・ダウン城のラトランド伯」に招待されて狩りに来た森で仲間とはぐれ、霧の中で鹿と間違えてメリーベルを撃ち、ポーの村の不死の一族に会ってその記録を日記に残した男爵グレンスミス(「ラトランド」とは『ピカデリー7時』のポリスター卿が突き止めて向かおうとした場所であり、城の名も夜に目覚める種族に縁がありそうな……)の、曾孫マルグリット・ヘッセンもまた、祖母が自分の父の日記を前に語ったポーの村の物語を子供の頃は信じたが、「でもやがておとなになる代価に……魔法や夢を支払った……」「ものをかくのはだからです その時だけわたしはこどもにもどれます 奇跡や魔法が使えます あなたも夢を見るでしょう?」と言っているので、作品の中では、実際これが芸術の定義なのだろう。


(作品としての)『日記』は「一八九九年クリスマスの朝」、グレンスミスが尋常の歳でみまかるところからはじまる。オービンは『エディス』で「わたし ジョン・オービンは一九〇〇年生まれなので 二十世紀の明けそめと同時に年をとり始め」と独白しているからほとんど入れ替わりに生を享け、グレンスミスの娘エリザベスの人生はそのまま激動の二十世紀の歴史に重なる。戦争、死別、貧困の中で、エリザベスの次女ユーリエは「もうずっと 一生 そんなバラの咲く村で暮らせたらどんなにいいでしょうね」と洩らし、末娘アンナの子マルグリットに「それは人間の世界のときの流れからははずれた谷間の村で 争いもなく」と語り聞かせるエリザベスは、夭逝したユーリエの言葉を思い出しつつ、「弱い人たちは とくに弱い人たちは かなうことのない夢をみるんですよ」と呟き、そして次ページではもはやエリザベスもアンナもおらず、二十七歳のマルグリットが甥のルイス(彼はエドガーたちが転入するガブリエル・スイス・ギムナジウムの生徒だ)に曾祖父の日記を見せている。「時はうつり 人々は生きて死に」(エリザベス)、「しあわせをとどめておけない」変転する世界と永遠の「夢」との対比を二十ページで描ききり、語りが現在に追いついたのだ。ルイスがエドガーを呼び止めるプロローグは、直結するエピローグとの間に六十年の歳月を挟んでいる。あらためて見れば『春の夢』もまた、戦争と家族離散と死と再会の話なのだが、そこでの出来事を経たエドガーとアランが、今度は戦後の西ドイツに渡って『小鳥の巣』の舞台に、謎の転入生として現れるとはとても思えない(前にも書いたようにそれを欠点とは思わない)。しかし彼らが確かに同じエドガーとアランでここがあの世界に通じていることは、生きているロビン・カーへの言及が『ユニコーン』に出てくることからも明らかだ。『春の夢』から十四年が過ぎ去った『小鳥の巣』の前年のヴェネツィアで、「ファルカにロビン・カーをやったら」とアランが口にするのだ。


『小鳥の巣』では二年前の五月、創立祭の前日に「図書室のうえの張り出し窓から川へおちて死んだ」ロビンは「まだ川のなか」だったから、彼らが話題にした際は実はもう川底だったことになる。「ミッドランズのモンゴメリーで夏になると会ってたじゃん」「あの頃 ロビンの祖父母が変な顔してたな ぼくらが変わらないから」「そうそうロビンをだましてさ エドガーったらさ/あの子すっかり信信じてたよ」と語られるロビンについては、『小鳥の巣』にそれより詳しく書かれているが、結局あそこではロビンは最後まで天使を信じて死んだことになっていた。しかしその前年の『ユニコーン』の老成した二人は、「成長すればサンタクロースも信じなくなる 子供の魔法はいつか消えるんだ」「魔法は消えても ぼくらは消えないけどね」という会話を交わしている。もはやオービンの、マルグリット・ヘッセンの、大人になる代りにあきらめなくてはならない魔法への固執も、「はるかな国の花や小鳥」をいつまでも夢見ていてよい存在への未練もここにはない。魔法が消えても残るもの、それこそが芸術だろう。


 一昨日のこと、「現代マンガ選集」というシリーズの一冊「異形の未来」と題するアンソロジーを本屋で見つけて開くと、71年にCOMに載った、萩尾望都の『ポーチで少女が子犬と』が入っていた。多分、昔一度読んでいると思う。しかしその時には、ブラッドベリやフレドリック・ブラウンに影響を受けたSF短篇くらいに思って見過してしまったと思われる。この少女が、ポーチで子犬と戯れながら考えているのが「魔法」のことであり、「空や窓や花のつぼみや葉っぱのうらの妖精」のことであると知って私はこの本を買った。そして読むうちにはじめて気がついた。ポーチで雨に濡れるのを喜び、「おとなって不思議ね! そんな楽しいこと考えないでどうやって生きていけるのかしらね?」といぶかしむ、何ごとかが起こるのを待ち、虹にみとれる、硬い線で描かれた大人たちの中に一人だけ無邪気で可愛らしく描かれ、彼らに文字通り指を差されて消滅させられるこの少女は、子供ではない!


「嬢ちゃんも 犬と遊ぶ年じゃないこと わかってるでしょう」と家政婦に言われる少女。だが、この子でなければ、誰が犬と遊ぶのにふさわしいというのか。ポーチで子犬と遊ぶのにまさにぴったりの絵柄に彼女は描かれているのに。「もう少し まってみません……?」と病床から身を起こして母親が言う。しかし返ってくるのは、「でも 三年まえからこうしてるんです」という言葉だ。(少なくとも三年前にはすでに彼女は、犬と遊ぶ年でも、雨なのに外にいたり、魔法のことを考えたり、虹の橋を渡りたいと思ったりする年とは見なされなくなっていたらしい)。


 だからこの少女はもうとっくに少女ではないのだろう。姿が子供のままなので読者は騙されるが、彼女は「おとなになる代価に魔法や夢を支払」わなかった者であり、もともとは無邪気な子供だったが本当は悪魔のような人間だと父に言われる、カフカの『判決』の主人公のようなものなのだろう。父親からの「判決」は周知のものであり、また『変身』のグレゴール・ザムザの場合は、即座の死を与えられはしないが、父親の投げつけたりんごが、めり込んだ背中でゆっくりと腐ってゆく。『少女がポーチで』の父親は黒眼鏡に目を隠して言葉少なく、影が薄いが、代りに家政婦が「すぐ家へはいって服をきがえないと 夕食ぬきにしますからね」と家政婦らしからぬことを言い、少女も「あんたと話したくないわ いつだって 高びしゃで 自信たっぷりで」と他の家族や訪問者には見せないはっきりした態度で言い返す。分をわきまえないこの家政婦、「わたしはいつだってまちがったことをしていませんから!」と主張する女は、病身で弱々しく、ただ一人少女をかばう言葉を口にする母の第二人格、というかその正体であり、「少女」が無邪気さの皮をかぶっているように、家政婦の姿をとっているのだろう【註】。

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 いずれにせよこの短篇ではっきりわかるのは、作品内で「魔法」と呼ばれているのがただの“サブカル、オカルト“ではなく、それを手放さなければ死をもって報いられる何ものかだったということだ。



【註】自分で撮って載せた写真を眺めて気がついた。先頭に立って少女を指差しているのも家政婦だ(次は姉)。

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# by kaoruSZ | 2022-02-09 07:22 | 批評 | Comments(0)

手許に『ポーの一族』ないので文庫版を手に入れ読み返そうとしたが近くで見つからず(家まで本を配達してもらうことはほとんどしない)、代りに『マージナル』を再読。実はこれ、tatarskiyさんに借りているもので、連載の初期に雑誌で見ながら途中で興味を失い、あんな終り方をしていたとはtatarskiyさんから聞くまで長年知らなかった。最後まで読んだあと、批判的な文章を書くと請け合いながら、そのままになっていたのだ。


今回あらためて通読したらいろいろ面白かった。もちろん、受胎した少年が海に溶けて不妊因子を無効化し、地球そのものが不毛(マージナル)な状態から甦るという母性信仰や、


「我われの見る夢はどこから来るのか/それは子宮が我われに見せた夢なんだ」

「胎児は子宮の見る夢の結晶体だ」

云々の作中のイワンのたわごと、果てはイワンの作った「夢の子供」が地球と同じ夢を見たのだと語られ、


「生命はみな/同じ夢を見ているのだろうか?/星星もまた?」


と締めくくられる子宮中心主義ポエムは、なんとも気持ち悪いばかりだ。女が子供を産むことは否定されても(そのとき女は母にならず芸術家になるかもしれない)、母性イデオロギーは少年の姿で回帰し、社会との和解を図る。産むのが女でなく、“少年”ならいいというものではない――最初にtatarskiyさんから聞いた、そして私が試みようとした批判も、このあたりにかかわるものであった。


悲劇の母


そもそも子宮なぞ、進化の過程で形成された実用的な器官にすぎないわけで、「自然界の基本は母体だが/母体の基本は子宮にある」(イワン)とか、子宮も地球も星星も同じ夢を見るなどというのは、人間中心主義のたわごとに過ぎない(イワンの過去のこうした言動を彼と親しい友人だったゴー博士から聞かされたメイヤードは、「変わった話だ/宗教的だね」と言うが、宗教とはまさしく宇宙を人間化するもの、共感不可能な物質とその作用でしかないものに人間のしるしを刻みつけるものであろう)。


「脳のどこかに/奥深く/眠りいる夢のことばは/子宮のものだ」――目を閉じた横顔と丸い乳房を見せる、ほとんど一ページを使った巨大な女‐母に重ねて、成長する胎児の段階的/連続的な姿が配され、なだれる長い髪に文字が連なる――「大皮質から/辺縁系をすぎて/視床下部へおちてゆく――そして子宮へ/胎児へかえっていく」

「胎児/この不思議な新しい異物/子宮は体の中の異邦部分だ/辺境だ/ここから先は時の流れすらちがう…/何億年の時を旅して分裂する卵胞」

「辺縁系を境にしてある原始的な脳が/胎児に語りかける何億年もの過去」


アーリンと若い恋人同士だったイワンによって夢みるように語られる、こうした牧歌的な“ポエム”は、しかし数ページ先ではその暗い裏側を見せることになる。友人が違法な研究をしているのではと、怪しみ、詰め寄るゴーに、自分は「夢の子供」がほしいのだとイワンが打ち明けるのだ。


「夢の子供だ/無限に幸福で誰とも共感性を持つ子供だ/苦しまない人間/恐怖も不安もない人間/子宮が美しい夢を見たら/苦しみのない魂を持つ子供が育つだろうか」

「恐怖も不安も/何億年もの原始の再現だ/原始の脳――視床下部に支配されるけものの感情!/理性の大脳皮質は何をしてる!?/辺縁系から先は手がつけられないというわけか?/何億年も前に脳にきざみつけられたトラウマから逃れられないのか?」


子宮の夢とされていたものが、ここで「何億年も前に脳にきざみつけられたトラウマ」に変っているのには理由がある。何億年も遡る必要など全くなく、たった十数年前、両親が離婚し、母と暮していた幼い彼は、突然訪ねてきた父が母に復縁を求め、拒絶されると母を暴行、強姦して、半年後に母が自殺するという、苦痛に満ちた、異常な、恐しい体験をしている。「苦しまない子供」とは、彼がなりたかったものなのだ。イワンの偏執は、次のように説明される。


「母は気絶していた/なぐられて/父が犯してる間/意識がなかったのだ」

「だが母はくるった/恐怖のあまり」

「ぼくは知りたい/母は気を失っていた/くるうほどに父を恐ろしがっていたのは/母の脳なのか/子宮だったのか」


ここからわかるのは、彼の脳と子宮との混同が、こうしてはじまったということだ。


「ぼくが夢に見るあの時の事件は/ぼく自身の恐怖なのか母の恐怖なのか」という、これに続く科白は、言うまでもなく、母と彼自身との混同を語っている。彼は、アーリンの卵子を使って作った「夢の子供」(男の四つ子)を、全員、母と同じキラの名で呼ぶ。彼(ら)は彼の母であり、苦しまない子供としての彼自身でもある。『ポーの一族』について追加の読解をtatarskiyさんから聞いた中にはいくつもの殺人(読者にはそれと知られない)が含まれていたが、それに倣うかに、私も一つ、隠された真実を見つけたように思う。イワンの母キラは、事件のあと「進行性の自己喪失症を起こして/半年後に自殺した」とあるが、この病名は空想的なものだし、助けが来た時、元夫に首を絞め上げられていたキラが、どうしてフィジカルな損傷によって、その場で、あるいはほどなく死なずに半年(「死ぬまでの半年間で別人のようになった」)生き延び、精神的な外傷がもとで死んだのか。半年という半端な時間差が引っかかってはいたのだが、「夢の子供」キラの「受胎」を思いあわせるなら、たぶんオリジナルのキラもこの時「受胎」していたのだろう。元夫からひどい暴力を受け、レイプされたあげくの妊娠。彼女の本当の絶望と自殺は、これに気づいた時起こったに違いない。


「夢の子供」キラの、胎児もろともの消滅――海への溶解――は、イワンの母キラの悲劇の、変形された反復であることを隠蔽しつつ起こり、「受胎したイワンの作品は/病んだ地球へのカンフル剤となって/地球をよみがえらせる…/ほら…脈動だ/聞こえないか/キラが呼びさました生への律動」――という、超能力者センザイ師[マスター]の高らかな宣言によるお墨付きを得て、物語に回収される。そして作品自体、「センター」によって修復され、よみがえったキラ(正確にはその兄弟)を見つけたグリンジャとアシジンが、彼を連れ帰って新しい名前をつけようとするところで終る。イワンとその母キラについての真相は最後まで隠されたまま、彼女の名前までが完全に抹消されることで終るのだ。


制度的な母


サブストーリーの〈母〉について先に考察することになったが、『マージナル』のメインプロットで前面に押し出される母は、言うまでもなく、男たちが崇める聖なる母、「ホウリ・マザ」である。汚染された地球ではD因子なるものに感染することで女は受胎能力を失うとされ、人工子宮から生まれた男しか存在しない(月や火星その他から来て滞在する男たちはいるが、土着の住民は外部世界の存在を知らず、過去の文化から切断され、歴史的・科学的な知を剥奪されている)。舞台となるモノドールは、イタリアの都市国家のような「都市[シティ]」と、周辺の村や町、砂漠からなり、都市の人々は古風で装飾的なローブをまとい、砂漠に住むのは(アラビアのロレンス風)アラブの風俗でラクダや馬を駆る部族である。マザの住まう「聖堂」の「センター」は、彼らのあずかり知らぬ技術と権力を持つ中枢で、彼らは「登録」した精子と血によって、唯一の「マザ」が息子を産んで彼らに与えてくれると信じており、実際そうやって「センター」から子供を受け取り、社会を存続させている。


「マージナルのプロジェクトは/カンパニーが月の市民から卵子を買って/それを地球に輸送し/センターの無菌の地下で受精させる」

「精子はすでに病気に対する抗体をもつマージナルの市民のもの/この抗体はY遺伝子[ママ]にのみつくために男しか生まれてこない」


「カンパニー」から派遣されて「ユーフラテス地区」長官の地位にあるメイヤードは、火星から密入国してきたゴー博士にこう説明する。ここは性行為と生殖が完全に切り離され、無関係な世界なのだ――というか、マージナルの男たちは、人間の生殖について子供のような空想的知識しか持っていないと思われるので、それが関係しうることさえ、知られていないと言うべきだろう。


外から見れば(それは読者の立場でもあるが)マージナルは女のいない世界だが、彼らにとっては女イコールマザ、つまり性的対象としての女抜きで一足飛びにマザがいる。「聖堂」への「登録」のために精液を採取する際、彼らが何を想像しているのかは謎であるが、少なくとも女でないことは確かだろう。そもそも彼らは〈女〉のイメージを持っていない。モノドールの市長(ヴェネツィア共和国のドージェのようなものだが、指輪を投げ入れて海と結婚するのではなく、新しい「マザ」の“第一夫” になる)の一人息子ミカルは、死期の近づいた父(彼らは三十を過ぎると急激に老化し、短命に終る)の命で、過去の文化について不完全ながら蔵書と知の蓄積を持つ「図書の家」を訪れ、かつては人口の半分が「女[ウーマン]」だったという驚くべき事実を明かされるが、あなたはセンターの人から「“オンナノコ”みたいだといわれませんか」と問われて、「いわれます…センターの医学用語で/色子[イロコ]の時期のことだって……」と答え、「幼いウーマンを表わす言葉です」と訂正されている。明らかに彼らは「オンナ」という語さえ知らないのだ。


性行為が生殖から切り離され、男だけしかいないのだったら、歴史上最も性的に自由な社会が実現してもいいはずだが(AIDS禍直前のアメリカのゲイの場合のように)、『マージナル』の世界はそういうものでもなく、「念者」と「色子」と称する制度があって、「色子」の時期を過ぎると「念者」になり、やがて息子を持つことになる――どのみち息子が十代のうちに、寿命が尽きてしまうのだが。少年が、念者か父という後ろ盾を持たず、恒産がない場合は、色子宿で売春することになる。


実際、『マージナル』の冒頭には、砂漠から都市にやってきた男が少年を買うエピソードがあるが、翌日起る「マザ」の死で、「センター」はこの色子の少年チトを次のマザにすることを、急遽、決定する(しかし彼はその夜殺される)。「ぼくらは色子の時期に何人かはマザの資質を持った者がいるんだけど/マザがいるあいだは資質は眠ってて/マザがいなくなると次の誰かが目覚めるって」というのが聖堂の教師からミカルが受けた教えである。しかし、リスト(市民はセンターの完全な管理下にある)を見ながら、チトに代る「マザ」の候補者を選ぶ際、彼の父は、まだ時間はあるというメイヤードと、次のような会話を交している。


「――しかし――手術は?」

「手術?/それは/マザを市民に公開してからでもかまわないでしょう/裸を見せるわけじゃないから」

「……胸部は…」

「胸をふくらませる手術はかんたんです。一日あれば」/「その気になれば/市長/あなたにだって胸ぐらい/つくれるんですから」

「なんの話だ/わしに胸などつくってどうするんだ/なんの話をしてるんだメイヤード!」

「失礼……冗談です/市長」

「わ わしはマザの/神聖なマザの話をしているんだと思っていたが」

メイヤードの態度は意味深長だ。表面上は、この制度に対する彼の考えを示すものだが、実はこれは伏線で、むろん彼は自分の話をしているのだ。


あわただしく作り替えられ、美しい人形となった新しい「マザ」ハレルヤ(実は拉致された「図書の家」のエメラダ)は、しかしお披露目に引き出された市民の面前で墜死を遂げ、市長となったミカルは、キラをマザだと言いつのる。『マージナル』のサブプロットは、彼らの中で誰がマザかの探求であり、終りちかくアシジンがメイヤードにかける言葉も、「おまえは……/マザなのか…?」である。


もちろん、メイヤードはマザではない。問いの仕方が間違っているのだ。『マージナル』の退屈な制度的同性愛と、マザとキラと彼をめぐる人々の織りなすメインプロットの蔭にあるのは、誰が〈ホモ〉であり、〈女〉とは誰なのかという問題で、それが読み取れるのでなかったら、私がこうしてこれを書いていることもなかった。


夢の母


「きみはホモじゃなかったのか」

「だって男ばっかの世界ですからねえ/4年赴任すれば交代できるとはいえ/女っけなしはつらいですよ」と愚痴る「センター」の職員ポールに、こう尋ねるのはメイヤードだ。ポールは答える。

「ホモですが母親から生まれましたから/なんとなくそこらをうろつくだけでも/女がいてほしいですねえ」


文庫版『マージナル』第三巻の女性解説者による「単に女っけがないのが私にはつらいだけかもしれない」発言とひとまとめにして、直前のメイヤードの科白「くだらん」で片づけられてしかるべき、あるいはその上ヘリで焼き払いでもすべきたわごとだが(メイヤードは、ポールの「市長の息子のミカルなんか/XYの単性ですが/色子期というだけで女の子みたいですからねえ/センターの者なんかミカルを見に/ときどき聖堂区のほうへ散歩に出てますよ」に対してこう言っている)、不細工な〈ホモ〉のポールがミカルと接点を持ち、結果的にミカルがハレルヤの正体を知るのは、いうまでもなく彼が「女の子みたい」だからではなく、男の子だからである。


〈ホモ〉という語が出てくるのは全篇でここだけだが、この世界でも、地球外から赴任してくる人々は「人種化された同性愛者」概念を持っているらしい。もちろん、(男同士の性交渉が標準の、というか、それ以外存在しない)マージナルの住人にそれはないので、本来、ポールのような男には天国のはずなのだ。しかしマージナルでは、「XYの単性」でなく、XXYであることは特別な意味を持つ。新たなマザ候補リストに不満げなメイヤードに、職員のマルコは、彼らが十三歳から十五歳で、親、財産、念者を持たない、よりすぐりだと強調してつけ加える。「それに/XXYですよ」。


もっとカリスマ的な美形はいないかとメイヤード。「そんな……女と同じというわけにはいきませんよ」と言いながらも、マルコは言葉を継ぐ。「しかし/きれいですねえ(…)」「…両性具有率が多いのもこの4・5年の色子の特徴です」


だとしたら、マージナルの人々は、他世界(私たちの世界も含め)の人間と生物学的によほど違っていることになる。XXYとは、XX(女)にYが付いたものではない。XYに余分なXが付いたもので、Y染色体があるとはすなわち男、出生以前に性分化は終っており、男性としての生殖機能が阻害されることはあっても、「両性具有率が多い」などという事実はないからだ。


「成人になると男性化して両性のものも単性化する」とされるマージナルの住人の、(成人前の)「色子期」とは、要するにエラステースとエローメノス、念者と若衆といった文化をなぞりつつ、擬似生物学的根拠を付与したもので、「夢の子供」キラも、結果的にこのような「色子」をマクシマムにしたものになっている。アシジンとグリンジャとの三角関係の中にあって、キラは女性化する。『闇の左手』のように、完全に身体が変化するのだ。


「……キラが……目を…/覚ました…」そう呟く少年に、「おまえがキラだ/ちがうのか」とグリンジャはいぶかしむ。キラは四つ子の兄弟共有の名前、その女性人格が目覚めたと、通常は理解されるのだろう。「そう/ぼくが/キラ/だ…」と少年は応える。「あんたと対応する…」。それは器官が女のものになり、異性間性交可能な身体になるということだ。(……灯の……/せいか…?/こんなに…/きれいな子だったか…?)ランプに照らし出されたキラの顔に、グリンジャは密かに驚嘆する。

「おまえみたいに…?/いつのまにか――男の部分が消えてしまうのは――/……はじめてみる」

「すぐもとにもどる/いまだけだ/あんたが触れて/キラが対応したせいだ」


キラとは誰か。その名前の元になったイワンの母だ。イワンが作ったのは、実のところ〈娘〉であり、娘として甦った彼の母ではなかったのか。少年であるのは隠蔽の結果だが、〈キラ〉が「対応」するとき、真実があらわになる。キラたちが十歳を過ぎた頃、もうすぐ自分とキラとの子供が作れるとイワンが言った(それで目が覚めた)と、キラたちの母アーリンは証言している。イワンの「夢の子供」は本当は「夢の女」――母の再来であり、受胎した子もろとも自らを滅ぼした最初のキラと違い、彼の望みを叶えるために到来し、彼を見捨てず、彼によって、彼のために、彼とのあいだに子供を産む、少年の姿をした母なのだ。


 イワンの「夢」は、もともと彼の異常な個人史から発したもので(地球の再生のためという合理化が部分的になされているが)、本来、大状況とは無関係の、マッド・サイエンティストの妄想だ。違法な研究で火星の大学を追われた彼とアーリンが、受胎不可能になった地球へ逃げて森にこもり、イワンが妻の卵子を使って実験を続けた結果できた、妄想の現実化がキラである。「マザ」とは「センター」の、あるいはその背後の「カンパニー」の傀儡であるのだから、キラがマザではないかとは、はじめは無知からの誤解であるが、キラの“受胎”が確認されると、少年が出産することへの期待は、いわば公式のものとなる。最終的にキラは「病んだ地球の夢」を自分の夢とし(センザイ師いわく、「夢の子供が/地球と同じ/夢を見たんだ……)」、自らは身ごもったまま(イワンの母と同じだ)死ぬが、地球はそれによって“活性化”され、氷漬け状態で生存していたキラの同胞(四つ子の一人)の片側の卵巣を取り出して千六百人の赤ん坊を作り、その体液や細胞や遺伝子を研究することで、地球上で受胎が可能になる秘密を探るという希望に満ちたヴィジョンが(自らも双子、つまり天然クローンの医者によって)語られるという、なんともエグい展開になる。


現実の母


「夢の子供」とはすなわち「夢の母」であり、地球と同じ夢を見て、不毛の星に生命を取り戻す――これがメインプロットの正義であるため、同じ夢を見なかった――見ることを拒否した――“現実の母”は、著しく厳しい評価を受けている。


 すべての人間が「マザ」の息子であるとされる地球で、唯一“現実の母”だったアーリンは、自ら“怪物“と呼ぶ超能力者の子供たちに、イワンや彼らと同じ夢――イワンとキラの間の子を作る夢――を見る(テレパシーで共有する)よう強要されてゴー博士に助けを求め、通信を傍受した「カンパニー」によって救出される。ゴーが地球に来るのに手間取っている間に、アーリンの供述を受けたカンパニーは、イワンと子供たちを森ごと焼き払っていた(この真の理由はあとで明らかになる)。ゴーは、彼女がイワンの研究をなかったものにしたがっていることを否認し、「アーリンが陥っているのは一時的な錯乱だ! 自分の子供じゃないか!」と言う。そうだろうか。女の身体から前もって取り出した卵を使い、母体から分離された場所で発生させられることで、イワンの夢の子供たちは、受胎した母によって殺される(イワンの弟か妹のように)ことを、あらかじめまぬかれていた。イワンは、女なしで子供を生み出そうとした古典的なフランケンシュタイン博士であり、マテリアルとしてだけ利用された「フランケンシュタインの怪物の母」は、最終的に子供たちを殺すことを選択したのだ。


 新マザ、ハレルヤの公開が決まり、アシジンが、マザがよみがえると口にした時、キラは「マム…?/アーリンが…?」と顔色を変えるが、これからは若いマザがみんなのためにたくさんの子供をくれると聞くと、「ぼくはもういいんだ/何もしなくても」「イワンのために子供を産まなくてもいいんだ」と叫んで狂喜する。見ていたゴーはぞっとして、(だが/キラは/受胎してるのに! 子供は/イワンの夢だ/それも強迫的な//キラの望みでもなんでもない)と思う。にもかかわらず、ゴーは、マージナルで調査を続ける人類学者ネズを味方につけようとする際、「重要なのは/キラが受胎してるってことだ//この子だ!/見てくれ/イワンの作品だ/地球の未来だ!/不毛の地を救える!」とイワンの代理人のように主張する。イワンの動機がそんなものでないことを、誰よりもよく知っているはずなのに。


 子供は(自分ではなく)マザが産むんだと必死で抗弁するキラに、「きみはアーリンを恐れてるんだ」とゴーは決めつける。まるでアーリンが悪いかのように。実際には、キラはイワンに不当な「夢」を押しつけられていたのであり、やっとその重荷から逃れられたと思ったのに、別の「夢」に乗り換えさせられようとしているのだ。「マザの世界は終り/新たなプロジェクトに移行する/それがキラだ」と力説するゴー博士によって。


実際には、アーリンこそがキラたちを恐れていたのだし、それも無理もない理由からだった。だが、ゴーは、アーリンのSOSに応えて地球にやってきたはずなのに、いつの間にか彼女に批判的になっている。双子の医者がキラたちの生育環境を評する時、彼らの親は、「理想しか見えないイワン/子供がこわいアーリン」と称されている。子供がこわいアーリン? こわがって当然の怪物なのに、彼女は、母として彼らを受け入れなかったことを非難されている。一方イワンは、完全に免責されているのである。


理想どころか、イワンこそが、悲劇的な子供時代に端を発する妄想に、皆を巻き込んだのである。彼の母キラは、彼を見捨てて死んだーー受胎した子とともに。だから彼は、受胎抜きで子供を作った。子供時代のトラウマから、キラたち(母たち)は彼を救ってくれた。彼自身でもある「苦しまない子供」は、父と対立することのないとして父から愛され、イワンは自らの父とも和解することができたかもしれない。しかしイワンのインセストの夢はアーリンを離反させ、彼女の逃亡によって、水入らずの小宇宙は(文字通り)崩壊した。


 こうしたことが全部誤魔化され、ゴーはまるでイワンが理想主義者であり、彼自身がイワンのあとを継ぐかに振舞っている。キラの胎内の子は失われたが、あたかもイワンの死後も続く呪いのように、アーリンの卵子に代り今度はキラの卵子を使って、これからも、公式の事業となった実験は継続されるのである。


メイヤードという〈女〉 


地球上での受胎を可能にさせるプロジェクトが正義とされる時、メイヤードは〈悪〉を一身に担うことになる。たしかに、「センター」から子供が与えられなくなっている事態は、マージナルの男たちのあいだに不満と不信と不安を煽り、「マザ」とメイヤードと市長の暗殺を企てる一派まで出るほどだが、それは迷信的な理由からに過ぎなかった。また、メイヤードは「カンパニー」の末端で地球を任されているだけであり、マージナルでの実験を終了させて地球を「始末」するというのは、そもそも「カンパニー」の決めたことである。


 それでもメイヤードは、新たなプロジェクトがイワンとかかわりがあるように、地球の“不毛”とかかわりがある。表題の「マージナル」の意味は、作中で示された限りでは「限界」「不毛」「ギリギリの」であるが、彼の役職の別名(通称)「マルグレーヴ」とは、「辺境伯」と訳されるタイトルであり、この「辺境」とは「マージナル」のもう一つの語意だろう。そしてそれはイワンの、「子宮は体の中の異邦部分だ/辺境だ」という文句につながってゆく。


イワンが“受胎”を目指す実験を行っていたのに対し、メイヤードは、ドームに覆われた都市の地下深くひそむ無数の人工子宮という、入れ子になった母体によって、マージナルの男たちを再生産していた。すでに述べたように、その際使われる卵子は月の市民から買われたものであり、アーリンに要求されたような母性イデオロギーとははなから無縁なのである。そしてイワンが、火星の大学を追放されて地球という辺境に逃げてきたように、メイヤードは、いわば自己流謫の結果、地球にいる。彼らは、故郷にも、今いる場所にも属さない、異邦のマージナル・マン(境界人)だ。


 ここまででも明らかな二人のカウンターパート性は、キラの父親というポジションをめぐって、頂点に達する。夢遊状態のキラは、イワンが「アーリンとエゼキェルで」キラを作ったとメイヤードに告げる。エゼキェル――“エゼキェル因子“とは、極めて稀ではあるが、それを持つ者の半数に進行性の視覚障害が見られ、遺伝子に高い確率で突然変異を引き起こすもので、この因子を持つ者は、子孫を残すことを禁止されている。実はメイヤードはこの因子の保有者であり、かつて人工心臓の手術を受けたが、その際、助手として入ったイワンは、密かに彼の血液を採取しておき、「夢の子供」製造にあたってそれを流用したのだった。


 イワンとキラとの父子関係が明示的に否定されることはなく、フランケンシュタイン的な意味での創造主としての、父イワンの地位は揺らがないとはいえ、このことによってキラは、「メイヤードの息子」と呼ばれている(もともとマージナルの男たちは精子血液をセンターに差し出して子を得ているので、筋は通っている[?])。「カンパニー」がイワンとキラたちを殲滅したのも、エゼキェル因子ゆえであった。しかし、そのせいでキラが受胎可能になったと知れると、エゼキェル因子は一転して善玉になり、キラが子供を産むことを望まず、自分の命の終りとともに地球のl終りを見届けようとするメイヤードは、タナトスの体現者としての悪人になる。


 その髪型とサングラスから手塚治虫の美少年の悪役ロックを髣髴とさせるメイヤードは、サングラスなしには十分な視力を得られず、進行性の病気を幾つも抱えている。そしてイワンと同様、メイヤードにもまた、自らのプロジェクトと彼自身を同一視する個人的理由がある。「ここはマージナル/男ばかりの不毛の世界」と、十二年前、到着したばかりのメイヤードが口にしたのを、意味のわからぬままに覚えていた、当時少年だったアシジンは、だから彼に問う。「あれはおまえ自身のことなのか」


 だが、真の〈悪〉は、物語の表面的な整合性とはズレたところにあるだろう。メイヤードは〈悪〉である。なぜなら、「色子」の時期の、オンナノコのような(両性具有的な)少年でも、ポールのように明示的なーー異性愛の男と相互補完的で、そもそも彼らがいることで異性愛者が存在できるーー種族としての同性愛の男でもない、また、特定の男との接触で実際に身体が変化し、異性間性交可能になるキラでもない、女性化する男がメイヤードであるからだ。


 メイヤードは他人に触れられることを極端に嫌うが、それは、その身体が、触られるにふさわしい受動性を持つからこそである。ゴー博士との最初の面会の際、サングラスを叩き落されて、彼は、その見えない眼とヴァルネラビリティとをあらわにする。「センター」に拘束され、スクリーンのメイヤードと対峙したアシジンは、映像だと教えられてもなお、メイヤードに接近して口づけ、彼をたじろがせる。そして終盤、薬を与えられなければ死ぬと騙されていたことを、二人で閉じ込められたエレヴェーターの中で知ったアシジンに飛びかかられたメイヤードの、嘘つきの舌を引っこぬいてやると食いつかれて血を流すエロティックな受動性。制御不能になったエレヴェーターは地下のダムへ下降して、キラの潜在能力が引き起こした洪水に呑まれ、気を失ったメイヤードを助け上げて服を脱がせたアンジンは、治療の結果の傷だらけのメイヤードの、右胸がふくらんでいるのを見る。病気の進行を防ぐために、女性ホルモンを投与されていたのだ。


 市長に胸くらい簡単に作れると言った時、メイヤードはたしかに彼自身のことを言っていた。おまえはマザなのか、とアシジンに訊かれてメイヤードは笑い、「女がいない世界はここだけだ/何もかも作りごとだ/そうさ/このわたしの/体のように/ああ/うっとうしい/この作りごとには/うんざりだ!」と言うが、ハレルヤと彼自身は峻別されるべきものなので、むしろアシジンは、おまえは〈女〉なのかと訊くべきであった。もちろんアシジンとマージナルの男たちにとって、この二つは未分化だ。


 女性性とは器官の問題ではなく、また生物学的なものでもない。メイヤードの右の乳房は授乳のためのものではなく、たんに、彼の受動性が可視化されたものだ。キラのように受胎を目的とし、男に対応してそうなるわけではない、非器官的な、不要な女性性――彼の罹っているのはになる病であり、にではない。「男ばかりのあわれな世界」とは彼が身をおいている世界のことであっても、彼自身のことではない。短い「時分の花」を咲かせる少年としてしか女性性を知らず、長持ちしない女である少年との擬似異性愛が同性愛と見誤られるあわれな世界で、唯一、目的を持たない女性性を持つマージナル・マンがメイヤードであるのだ。


「マージナルの人間どもが願ってやまぬマザ!/女?/女がほしいか?/月にも火星にも女なんかいくらでもいる」(メイヤード)


 しかしメイヤードの場合、外の世界にいるそうした女たちすべてと同じく――そして、男に対して女になり、受胎するキラと違って――「女であること」と「マザであること」とは別のものであり、それゆえに〈悪〉なのである。


(つづく)


# by kaoruSZ | 2021-05-22 03:37 | 批評 | Comments(0)

『はるかな国の花や小鳥』の次に置かれている、ジョン・オービン初登場のエピソードで、彼はエドガーがハロルド・リーを訪ねた時の例の帽子をかぶっており、一篇はまさしく『ホームズの帽子』と名づけられている。直接シャーロック・ホームズには関係ないが……というか、オービンの「魔法使いの目」、「女のように」長い髪、霊感、魔物、ネス湖の怪物探しといったものは、玩具箱に雑然と放り込まれた子供部屋のガラクタで、彼が世のつねの“大人の男“ではないことのしるしであり、「ホームズの帽子」もそうしたアイテムの一つなのだろう。


 それはまた萩尾望都にとってのマンガ、いつまでもそんなものにかかずりあっていないで大人にならなくてはいけないと、両親から見なされていたものでもあったろう。すでにマンガ家として有名になっていてさえ、それでいつマンガはやめるんだと親から尋ねられたという話を読んだことがある。


「ぼくも年ですからね! いつまでも若くないし!」

「ここらで腰をおちつけ職をもって」

と、髪を切ってイゾルデにアピールするオービン。しかし結局は周知のものを追って彼女に求婚しそこねてしまう。それから四十年以上の歳月ののち、『エディス』の結びで、「そしてわたしは最初のページを始める」「ーーエドガーおまえに わたしのはるかなおまえに そして そのポーの 一族によせてーーと」と書きしるす禿げ頭のオービン。これはほとんど二十世紀小説のパロディだ。オービンは、本当なら、芸術家として創造されるべきだったのだろうーー怪異を追って東奔西走する、子供っぽいオカルトサブカル男ではなく。


· これは、「大人になる-マンガを捨てる」ことの対極を、「いつまでもはるかな国の花や小鳥の夢をみている」としかイメージしえなかった作者の認識に見あったものとも言えようが、実際に彼女の作品を文学だ芸術だと持てはやす男たちもおおかたそういう輩でしかなかった/ないといえよう。むろんオービンは彼らよりはるかにましであるが。


 ところでtatarskiyさんと電話で話したら、『ピカデリー7時』のポリスター卿の顔はエドガー・ポーの顔を下敷きにしたのだろうと言われた。これは全く思ったこともなかったし、咄嗟に意味が呑み込めず、にわかには信じられなかったが最後には納得。少女マンガ的に変形されたポーの顔であり、少女妻を育てる男とは(私たちはそう思っていないが)、一般に共有されている通俗的なポーのイメージだというのだ。いや、ポーは断じてそういう人ではないのだが! あれをよくできた話だと書いたのは、ヘテロセクシュアリティの構造として普遍的なものを、少女マンガの甘やかさを最大に生かしつつ示し得ていると思ったからでもある。

·

『すきとおった銀の髪』の昔から、人間と吸血鬼の対比は、前者が老い、後者は永遠の若さと美しさを保つーー限られた時間しか生きられない人間は、短い人生の中で偶然出会うことになった彼らの姿を垣間見るーーというのが基本だったはずだ。『エディス』でも、もはや切る髪もないオービンは、「まったく年をとった…年をとった…」と呟き、「時が…止まっている……」とエドガーの顔を思い浮かべる。あるいは、森の中のリデルは、家に戻されても、育ての親のエドガーとアランが迎えに現れるのを窓辺で待っていた。思えば作者も読者も若かった。結婚し、子を産み、老いるという常道に外れた側に自分が身を置きうると容易に信じられたのだ。


 しかし『春の夢』の終りでは、吸血鬼になった少女が 、「あの人たちのしているのは死んだ人の話」「あたしは……思い出になってしまった」と、親しい人々の口の端(は)にもはや死者としてしか上らぬわが身を、世界からの深い疎外を嘆く。実はオービンではなく、髪が真白になりながら永遠に十六歳の(実年齢は三十前の)ブランカの方が老いている。オービンは若い人間が想像した老人であり、ブランカは、もはや自分のものではない「春の夢」を、正確には「春の夢を見られた頃」を、思い出すしかない老人なのだ。


 フラワーコミックス最終巻で『一週間』『エディス』と読み継いだあとに『春の夢』を読んだのは正しかったようだ。言うまでもなくこれは四十年ぶりの発表の順序そのままであり、『エディス』に時間的に接続するのは、続篇第二巻、その空白の四十年間を眠り続けていたエドガーが復活する『ユニコーン』である。だが、クロノロジックな再構成がぴたりと決まるような作品を書くのは凡庸な作家と決まっている……『春の夢』の作者はもちろんそうではない。


『エディス』でエドガーとアランが消えたことはいったん置いておき、欧州での二次大戦終結時のエピソードを作ったかに見えながら、実は四十年前に書かれた『一週間』『エディス』とこの新たな話は夢にも切れずつながっている。それは、新たに登場するキャラクターが、最終話でのエドガーとアランの燃えさかる家からの脱出を可能にする伏線となっているといった、物語技法上の問題ではない。そうではなく、エドガーの不在中ひとり置いて行かれたアランが、川をへだてた別荘に滞在する二人の少女と仲良くなる『一週間』が、一見無邪気で牧歌的な可愛らしい小品でありつつ、アランが(見かけの)年齢相応の、女の子を扱いなれたプレイボーイとして振舞う話だったこと、続く『エディス』は、アランがはっきりエディスに恋し、エドガーに対立して、メリーベルの代りの少女を得ようとした話だったことのまさしく続きで『春の歌』があるからだ。しかも今度は攻守ところを変え、少女に近づき(“気”が足りなくて寝ていたアランは、彼女を「口説いてたね」とエドガーに言う)、浮気する(「僕が眠ってると君は浮気するんだ」とアラン)のはエドガーの方である。


 しかも相手は、『一週間』の二人組やエディスのような幼さを残すロウティーンではなく、十四歳と称する彼より二つ年上のユダヤ系ドイツ人で、両親と別れて出国し、母の妹の夫である英国人オットマー氏の下に弟と身を寄せ、気を張って生きている。シューベルトの歌曲集「冬の歌」の一曲「春の夢」(「冬に春の夢を見る私を/窓辺の葉が笑うだろう」)を巧みに使って、作者は、少女が、年下とは思えぬ大人びた少年にそれまで押し殺してきた内面を打ち明け、胸ときめかして心ひかれるだけでなく(「なにか事情があるのね……亡命してきた王子様? ウフフまさか」)、エドガーに彼女について「きみはぼくの 春の夢だーーー」と独白させ、二人がひかれ合うさまを描き出す。エドガーがこのような積極的なヘテロセクシュアルな主体とされたのははじめてだろう。


 だから、世界が若かった時代の、いつまでもはるかな国の花や小鳥を夢見ていてよかった頃とはなにかが恐しく違ってしまったのだけれど、それでも、四十年前のカタストロフとの連続性は、例えば従姉妹どうしの対照的な少女たちにとってアランが「川むこう」の少年だったように、エドガーがはじめて見かけた少女は「小川の向こうの館の人」と説明され、理由をアランに告げずにエドガーが家をあける期間がどちらも一週間であることに、あるいは次の二つの絵のささやかな一致にはっきり見てとることができる。一枚目は『一週間』のラストで夕方にはまたアランに会えるつもりでいる少女たちの前から永遠に立ち去る二人、二枚目は一週間留守にすると言ってアランを置いて出かける、『春の夢』のエドガーである。


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『春の夢』と『ユニコーン』は、監督が交代した結果、ファンの深い失望を引き起しかねない続篇のようなものだ。個人的には、絵柄は最初違和感があっても読むうちに馴れたし、映画の比喩を続けるなら、特に『春の夢』は脚本が極めて優れており、完成度の高い一本だ。キャストは、少年二人以外は登場人物がすっかり入れ替わっているので一新され、アーサー・クエントン卿だけは同じ役者のまま若メイクで行けただろう(発表時と一致させた二〇一六年が舞台の「ユニコーン」冒頭でエドガーがスマホを「その電話機 今 みんな使ってるんだね」と言い、自宅にいるアーサー卿がラセンコードの黒電話でそれを受ける一方、パソコンに向かって通信販売を利用しているのが個人的にはウケた)。

 エドガー役はかつての少年と較べると薹が立ったけれど同じ俳優で(ジャン-ピエール・メルヴィルの『恐るべき子供たち』の子供たちのように)、アラン役だった子はすっかり背も伸びてイメージが変ってしまったのでオーディションでつめかけた候補者の中から美少年を選んだが、全然アランじゃないと不評ーーといった感じである。しかしこれは監督が同じでも所詮避けられないことだったのだ。映画のたとえはこの辺でやめるが、作品に覚えていてもらえた作者などいない(天澤退二郎)のだし、作品が完成したあとは作者は死んでいる(ブランショ)のだから、萩尾もエドガーと同じ四十年という死に等しい眠りからめざめて、もはや自分のものではない作品に挑んだ、いや所有権や特権を主張したところで何の役にも立たない、作者を見分けることのない作品に身をゆだねたというべきだろう

 すでに述べた通りエドガーとアランの役割が逆転して『一週間』で女の子相手に“浮気”していたアランの位置をエドガーが占めた結果、はみ出したアランは、新たな登場人物によって受け止められる。それが、一九二五年のパリ万博で彼らが出会ったという別系統の吸血鬼ファルカだが、これは別に過去のエピソードが明らかになるとか、それまで伏せられていた秘密が語られるとかいったものではない。十二世紀に東欧で領主だったファルカは、気(エネジー)が洩れて眠りがちなアラン(止まらない出血のようなものだろう。実際、エドガーは「貧血気味のアラン」と言っている)を治す力を持ち、「用があればいつでも鳥がオレに伝えてくれる」と言い残していた。エドガーがファルカを戸外で呼ぶと、やがて十九年ぶりに彼が現れる。まるでランプの精かマグマ大使、遠隔通信と瞬間移動が可能なファルカは、オールマイティのトリックスターのようだが、これだけでも作品の変質は明らかだろう。エドガーがいわば上位の存在に頼るなどおよそありえぬことであった。

 ファルカは、手紙が届いて“一週間”留守にすることになったエドガーの代りにアランの相手をし(『一週間』の少女たちの役回りだ)、アランを癒し、ブランカと顔合わせし、三十年後の『エディス』での、猛火に包まれた家からのエドガーの脱出を可能にする伏線となり、エドガーとアランとブランカの三角形に、アランをめぐるもう一つの三角形を加えることになる。「口説いてた」とか「浮気」とかいう言葉を使って、エドガーとブランカのボーイ・ミーツ・ガールを暗い目で眺めていたアランは、瀕死のブランカを生き延びさせようと、エドガーがファルカに彼女を吸血鬼にしてくれるよう頼む(自分がやったのではアランのように血の薄い仲間しか生み出せないから)とき、ブランカが手に入れば自分は必要なくなり捨てられる、だからファルカと行く、と言い出す。以前からアランを望んでいたファルカは喜んで、「ブランカに我が“ギフト”を与えようそして ブランカはエドガーに アランはオレに!」と宣言する。この危機はエドガーの二ページに渡る雄弁によって回避され「ブランカオレの花嫁大切にするよ」と、まだ目覚めないブランカをアランの代りに抱えてファルカは姿を消す。少年の頃、兄の領主の死によって、身籠った嫂を娶り、やがて義理の息子と妻に愛情を注ぐようになったファルカのエピソードはほほえましいが、これは糖衣を被せられたものであり、陽気ではっちゃけた「“男装の麗人”風」女装でオネエを演じる鳥たちの王、愛すべきファルカの本質は、男の子をさらう“ハンノキの王”、バイセクシュアルのジル・ド・レだろう。


# by kaoruSZ | 2021-04-10 16:18 | 批評 | Comments(0)

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 部屋を片づけつつ発掘された本につい読みふけるうち、フラワーコミックス版「ポーの一族」最終巻を見つけた。せっかくなので、はるかな時を隔てて再会するこれらの物語は、現在の自分の目にどう映るかとページを繰った。それでも最初、『はるかな国の花や小鳥』は飛ばそうかと思っていた。「憎むのはいや 悲しむのもいや」と言って自分を捨てた男を思いつづけ、三十前で儚くなったあと、「たぶん生まれながらの妖精だったのです」と語られる少女のような女の、甘ったるい話が耐えられないと思ったからだ。ところが、読んでみると、そういう話では全くなかった。


 もちろん、薔薇の咲く家で少年たちの合唱隊を指揮し、ばあやの焼き立てパイを切り分け、迷い込んだエドガーを「私の青い目のユニコーン」と呼び、いつも「幸せそうに」笑い、昔の恋人の死を知って自殺を図り、その三年後に病死したエリゼルのことが、「あの人は夢に浮かぶはるかな国の住人だったのでした」と語りおさめられることに変りはない。「遠い少女を思い出させる」エリゼルを、失った妹メリーベルに重ねることで、エドガーの彼女への思い入れを無理なく見せる設定も巧みなものだ。しかし一篇のキモはそんなところにはなかった。いつになくエドガーがセンチメンタルなこの短篇で、彼はまるで、過去に介入して運命を変えようとして、かえって防ごうとした当の事件を引き起こしてしまう、タイムトラヴェラーのような役割をつとめている。しかも本人に全くその意図も意識もないままに。作中人物の誰にもそのことは気づかれないし、おおかたの読者にも気づかれまい。


 エドガーのタイムマシンは一台の自転車であり、行先は近郊のホービス市だ。むろん彼は過去ではなく、十年前のひと夏、エリゼルの恋人だった、現在のハロルド・リーを訪ねてゆく。「エルゼリを知ってる?」「エルゼリ…? だれのことだね?」という短い会話を交わすために。暗くなって戻った彼は、「あの人あなたのこと」……覚えていなかったよ、とは言えず、「覚えてたよ」とエルゼリに告げる。「あの人 どうだった」と現在の男の外見を尋ねるエルゼリの返事は少々変だ。普通、覚えていたというのなら、自分のことをどう言っていたかを知りたく思うものではなかろうか。恋人がたとえおぼえてなくとも彼女は平気なのではーーとエドガーが言うとおり、彼女はまるで、「あの人 あなたのこと覚えていなかったよ」と言われたかのように反応している。そしてそれは、自分のことなど男が頭の片隅にも残していないであろうことを彼女がすでに知っており、それをかたくなに意識から排除し、否認しているからに他なるまい。


 だが、エドガーの、善意と優しさからの嘘は、すぐに確実な効果をもたらした。ハロルド事故死の報にエリゼルは自殺を図るが、それはエドガーが、彼はあなたの名前すら覚えていなかったと真実を伝えていれば、たとえその時はどんなに辛くとも、避けられたかもしれないことだ。彼の心の中になおも自分がいると、自らの思い込みのみならず、他者の言葉によっても追認されてしまったために、「自分を覚えている」男を失ったとき、エルゼリは死ぬしかなかった。だからこそエドガーは部屋に飛び込んで助けたエルゼリが目ざめる前に、アランを促し町を去るのだろうーー彼自身は知らなくても作品は知っている。


「いつかあの人は夢からさめることがあるのかしら…」とエドガーは独語する(この直後に事故の場面が続く)が、彼女の夢をつなぎとめたのは他ならぬ彼自身なのだ。そして、ハロルドの命を奪った事故もまた、エドガーの介入がなければ起こらなかったことだ。エルゼリとは誰だったかと考えつつ自宅を出たハロルド・リーは、一見エドガーに似た自転車乗りの少年の後ろ姿にはっとして、追いすがろうとし、声をかける。その背後に迫る馬車。振り向く少年。ばあやからエルゼリに伝えられるとき、それは「自転車にのった子がころぶのを助けて 自分は馬車の下じきになったんです」と変形されている。だから、注意深い読者以外には真実は見えないようになっているのだし、作中人物の誰ひとり(エドガー自身も含めて)、ハロルドの死が、エドガーのお節介の結果であることを知らない。


 エドガーがもしハロルドの応えを隠さずエルゼリに伝えていたら、彼女は過去を思い切ることができ、かつての恋人の死の報せに遭っても、手首にナイフを当てずに済んだろうか。いや、その時はハロルドが自転車の少年を追うこともなく、したがって馬車の下敷きになることもなかったはずなのだ。


 エドガーとアランが去ったあと、作品はもう一ページしか残っていない。


「その人は それから三年の後病気でなくなったと聞きます」


という匿名の語り手の伝聞による報告と、


「たぶん生まれながらの妖精だったのです」


「あの人は夢に浮かぶはるかな国の住人だったのでした」


という断言、そしてその間(あい)を縫って薔薇の蔓のように絡まる、


「わたしが住むのはバラの庭」


「くちずさむのは愛の歌」


「日々思うのはやさしいひと」


という纏綿たる“ポエム“の裏には、しかしエルゼリが押し殺し、表情にも意識の表面にも出すことを拒絶した、負の感情が隠れている。たぶんそれが、彼女の知らないところで、エドガーの姿をとってハロルド・リーを訪ねて行ったのだし、次にはエドガーの知らないところで、無関係な少年の姿を借りて反復され、不実な恋人を死に追いやった。エドガーはハロルドのメッセージを逆にして伝えたが、真意はあやまたずエルゼリに届いて、彼は復讐されたのだ。


「あの人きっと奥様を愛し」


「生まれた子どもを愛し 家庭を愛しているのでしょう でもわたしは幸せ」


「一人バラの庭 とても幸せ」


と呟く、“少女のような女”の手を全く汚すことなしに。


 たぶんこういう書き方ができるところが、萩尾望都の才能なのだろう。それは、作者が女の登場人物を悪意や敵意や憎しみを、つまりは自我を持った人間として描けなかったのではないかという疑いとはまた別のものだ。この頃の萩尾の筆致は、マンガでしかできない表現の可能性をきわめる探求と実践として、甘美で魅力的であり、もうこれはマンガではなく小説だといったたぐいの賛辞がいかに馬鹿らしかったかわかるし、たとえばこの一冊を見るかぎり、エドガーとアランの関係は同性愛というようなものではなく、「やおい少女」に敵対的で、男が女にやってきたことを女が男にやるのかと被害者づらしたゲイ当事者()のみならず、ホモフォビックな批評家にも評判がよかったのも頷ける。


 ハロルドが少年をエドガーと誤認するところで、私はニコラス・ローグの映画『赤い影』を連想したが、それはシリーズの最終話『エディス』で、水を渡る赤いドレスのエドガーを見たからでもある。エドガーは「小鬼」と呼ばれ、『赤い影』の死んだ娘と思えたものの正体は小○であるが、いずれも死への案内人だ。


 ここまで書いてからポーの一族の新作を読んでしまったので、それと無関係に続けることは無理になったが、『赤い影』がヴェネツィアを舞台にしたフィルムであることには触れておこう。偶然にしても、新作『春の夢』で水辺は死と危難に深く結びついているし、死者の行先、死者と再会できる場所は、他ならぬヴェネツィアであるからだ。幼い娘を水の事故で亡くした夫婦は、旅先の水の都で、娘がかつて着ていたのとそっくりの赤いフードつきマント姿の“影”に出会う。鹿撃ち帽にインバネス?(完全にホームズスタイルかと今気づいたーーちなみにグラナダT V版でジェレミー・ブレットによって一掃される前は、ホームズといえばあの帽子、しかもチェックで、山高帽のダンディが思い浮かべられることはなかった)という恰好で自転車に乗ったエドガーの場合もまた、同じ恰好の人物が容易に彼と見誤られ得た。


 もう一点指摘しておこう。今回読み返した最終巻は『ピカデリー午前7時』を冒頭に据えているが、『はるかな国…』で、エドガーがエルゼリのどんな意思を代行して男を死なせたかを見たあとでは、ここでも彼が代行者として、最後にメッセージを届けていることに気づかぬわけにはいかない。代行者と言っても、養女リリアに、恋人と幸せにというメッセージを送るのは、ポリスター卿の意思ではない。彼は「花嫁を育てていた」(エドガー)のだから。これはよくできた話だ。


「お父さまのようなおじさま」

「孤児のあたしをひきとって育ててくれたおじさま」

「ハンサムで…やさしくて…」

「大好きなお父さま」

リリアから見たこの素敵なおじさまとは、理想化された父、近親姦タブーをまぬかれたその代理であり、娘の願望だーーむろん、孤児になることが、孤児でない子供だけが持ちうる夢であるように、現実に娘に手を出すような父を持たない幸福な娘にのみ可能な願望だが。『ピカデリー7時』は、オルコットの『八人のいとこ』を思い出させる。私事を言えばこの本も、いとこたちのお下がりの一冊として私のもとに来たのだが、少し大きくなる頃には、少女ローズの後見人となった魅力的なアレック叔父さんが、正体を隠した理想の父であることに気づいていた。『若草物語』の、かた苦しい生活信条や出来過ぎた母の影は微塵もなく、自由な男である叔父さんは、女たちの(からの)抑圧からローズを解放する。しかも彼女は、姉妹ではなく、男ばかり七人のいとこにーーその称賛のまなざしにーー囲まれている(エルゼリのバラの庭に集まるのが、男の子ばかりなのが思い合わせられる。彼らは、エルゼリに気に入られたエドガーに因縁をつけるーーそして帰り討ちに遭うーーほどに彼女に夢中なのだ)。


『八人のいとこ』には、別の意味でエルゼリに似た「ピース大おばさん」もいる。結婚式の朝、婚約者の死の報せを受け、みんなはやさしいピースがそのまま死んでしまうかと思いました(本が手元に見つからないので記憶で書いている)という、しかしその打撃に耐えて生きのび、いつも微笑を浮べて他人に尽し、その名の通り穏やかで、いつも手仕事にいそしむ老婦人……エルゼリ以上にあらゆる葛藤を避けた、恋人を失った女である。


 オルコットの影響は確実にあるという気がしてきたが、影響関係抜きで、薔薇つながりでもう一つーー交際していた男が町を去ると屋敷に閉じこもり、数十年間姿を見せなかったミス・エミリー(“A rose for Emily”)の場合だ。エミリーが死んだとき、町の人々は真実を知る(ちなみに、タイトルを除けば、こちらには薔薇は一本も出てこない)。


 フォークナーの短篇は極北だが、リアリズムというわけではない。リアルなのは、父親に愛されて育った娘が、自然過程によって別の若い男に心を移す、『ピカデリー7時』の方だ。清純そのものの美少女リリアは、すでにの目を盗んで恋人と待ち合わせるまでに成長している。「最愛の娘よ しあわせに わたしは遠くよりふたりのしあわせをいのる」という偽手紙で、父の敗北を完全なものにするエドガーだが、もともと、発端の、ポリスター卿宛ての電文「アスツク ポーツネル」で、彼の死の原因を作ってしまってもいたのだ。エドガーたちを待って旅行が中止され、リリアはポールと会えなくなり、ポールの同僚ラッドとクックは、主人が不在のはずのポリスター邸に盗みに入ってリリアの父と鉢合わせする。持ち去られた黒いトランクを百ポンドで買うという、エドガー代行のポリスター卿のメッセージに、「朝7時ピカデリー」と、リリアと恋人のポールが新たに逢引を約した時刻でラッドが応じるのは偶然ではない(「それにしても7時とはね 偶然にもデートの時間」とエドガーはとぼけているが)。


 午前七時、ラッドが持って現れるポリスター卿の黒トランクは、彼の換喩であり、彼自身だ。エドガーがわざと警察に情報を与えたので、リリアは“おじさま”がそこに現れるとあらかじめ警部から言い含められる。ポールが現れ、ラッドに抱えられたトランクが現れ、そしてあとには、若い二人へのポリスター卿の許しのメッセージが残される。彼とともに消滅した目的地の地図を持たぬまま、黒いトランクとともに、彼の行先だった地方へ旅するエドガーたち。「なんのために」と問うアランに、「なんということもなく」とエドガーは応えるが、そんなことはあるまい。それに続く、「その黒いトランクは彼だよ 彼の墓標だ」という科白によって、タイトルとして掲げられた「ピカデリー7時」に何が起こったかを読者にはっきり知らせるためだ。そこは恋人との待ち合せの場所であると同時に、おじさまとの再会、そして別れの、時と場所でもあった。これはよく企まれた話である。


# by kaoruSZ | 2021-04-10 09:21 | 批評 | Comments(0)