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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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昨日、フラワーコミックス復刻版の1から4を購入。黄ばんだ5は、手持ちの1976年初版。4の表紙のエドガーに見覚えがあると思ったが、やっぱりこれも持っている(結果的にダブったが、持っていても在処が不明では……)。隣は『春の夢』(2017年)第一章の扉。良い絵だ。(2020年10月24日)

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ユニコーン』のあと雑誌掲載あって、しかも来月単行本で出るのか。全然知らなかった(最近まで全く興をそそられなかったから)。『ポーの一族』読み返して、やはり(現在を否定する意味ではなく)「時分の花」ってあるんだなと思う。


★ ★ ★ ★ ★


『小鳥の巣』でエドガーとアランがギムナジウムに現れたそもそもの理由(“誰が殺したクック・ロビン”)というか物語の口実、あのロビンも、川に落ちて流される子供だった(『春の夢』のノアと同じく)。「窓から落ちて死ぬ子供」も、マージの息子として『春の夢』に書き込まれていた。掲載順としてはポー・シリーズの最初になる『すきとおった銀の髪』、老いたる紳士チャールズ(といってもメリーベルと出会った時十四歳で、「三十年がすぎ去り」たから四十四に過ぎないが、まあ、四十で初老だから……それで「結婚二十五年め」とは、十九で結婚したわけか)が昔のままのメリーベルを見出し、「ああ あなたはきっとあの人の娘さんにちがいない あなたのお母さまはメリーベルとおっしゃるのでしょう?」と尋ねる場面は、『ユニコーン』のサルヴァトーレ・ルチオ父子とエステル(「あれから33年たつ」)の哀切な挿話として、男女を逆にし、年齢を高めて回帰している。もはや幼い恋ではなく、永遠の少女ではなしに。


 エドガーとメリーベルの異母兄オズワルド、彼らが去ったあと、図2のように“マドンナ”に慰められるが、これ、髪の色が違うだけで、オービンの思い人イゾルデだね(もう1934年だから、後者は断髪だが)。ここでマドンナが約束する結婚、子供、家庭こそ、オービンがエドガーを追わなかったら得られたはずのものだ。

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 【オズワルドとマドンナ】


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【オービンとイゾルデ】


 では、世のつねの幸せの代りに、オービンは何を取ったのか。「あの時あの人は私より 魔物の方を選んだのよ」(イゾルデ)。あの時とはこれよりさらに六年前、オービンは髪を伸ばしたままで(これは連載当時の時代精神を反映した、社会への抵抗、反体制のしるしだろう)、大人の男にならなかったのだ。それでもついに長髪の魔法使いを卒業することに決め、髪を切ってイゾルデに求婚しようとしたまさにその日に、エドガーに出会ってしまう。


 妖精や魔物を追いかけるオービンの設定については、先に「オカルトサブカル男」と呼んで批判的に言及したが、『ポーの村』と『グレンスミスの日記』に登場する、「サン・ダウン城のラトランド伯」に招待されて狩りに来た森で仲間とはぐれ、霧の中で鹿と間違えてメリーベルを撃ち、ポーの村の不死の一族に会ってその記録を日記に残した男爵グレンスミス(「ラトランド」とは『ピカデリー7時』のポリスター卿が突き止めて向かおうとした場所であり、城の名も夜に目覚める種族に縁がありそうな……)の、曾孫マルグリット・ヘッセンもまた、祖母が自分の父の日記を前に語ったポーの村の物語を子供の頃は信じたが、「でもやがておとなになる代価に……魔法や夢を支払った……」「ものをかくのはだからです その時だけわたしはこどもにもどれます 奇跡や魔法が使えます あなたも夢を見るでしょう?」と言っているので、作品の中では、実際これが芸術の定義なのだろう。


(作品としての)『日記』は「一八九九年クリスマスの朝」、グレンスミスが尋常の歳でみまかるところからはじまる。オービンは『エディス』で「わたし ジョン・オービンは一九〇〇年生まれなので 二十世紀の明けそめと同時に年をとり始め」と独白しているからほとんど入れ替わりに生を享け、グレンスミスの娘エリザベスの人生はそのまま激動の二十世紀の歴史に重なる。戦争、死別、貧困の中で、エリザベスの次女ユーリエは「もうずっと 一生 そんなバラの咲く村で暮らせたらどんなにいいでしょうね」と洩らし、末娘アンナの子マルグリットに「それは人間の世界のときの流れからははずれた谷間の村で 争いもなく」と語り聞かせるエリザベスは、夭逝したユーリエの言葉を思い出しつつ、「弱い人たちは とくに弱い人たちは かなうことのない夢をみるんですよ」と呟き、そして次ページではもはやエリザベスもアンナもおらず、二十七歳のマルグリットが甥のルイス(彼はエドガーたちが転入するガブリエル・スイス・ギムナジウムの生徒だ)に曾祖父の日記を見せている。「時はうつり 人々は生きて死に」(エリザベス)、「しあわせをとどめておけない」変転する世界と永遠の「夢」との対比を二十ページで描ききり、語りが現在に追いついたのだ。ルイスがエドガーを呼び止めるプロローグは、直結するエピローグとの間に六十年の歳月を挟んでいる。あらためて見れば『春の夢』もまた、戦争と家族離散と死と再会の話なのだが、そこでの出来事を経たエドガーとアランが、今度は戦後の西ドイツに渡って『小鳥の巣』の舞台に、謎の転入生として現れるとはとても思えない(前にも書いたようにそれを欠点とは思わない)。しかし彼らが確かに同じエドガーとアランでここがあの世界に通じていることは、生きているロビン・カーへの言及が『ユニコーン』に出てくることからも明らかだ。『春の夢』から十四年が過ぎ去った『小鳥の巣』の前年のヴェネツィアで、「ファルカにロビン・カーをやったら」とアランが口にするのだ。


『小鳥の巣』では二年前の五月、創立祭の前日に「図書室のうえの張り出し窓から川へおちて死んだ」ロビンは「まだ川のなか」だったから、彼らが話題にした際は実はもう川底だったことになる。「ミッドランズのモンゴメリーで夏になると会ってたじゃん」「あの頃 ロビンの祖父母が変な顔してたな ぼくらが変わらないから」「そうそうロビンをだましてさ エドガーったらさ/あの子すっかり信信じてたよ」と語られるロビンについては、『小鳥の巣』にそれより詳しく書かれているが、結局あそこではロビンは最後まで天使を信じて死んだことになっていた。しかしその前年の『ユニコーン』の老成した二人は、「成長すればサンタクロースも信じなくなる 子供の魔法はいつか消えるんだ」「魔法は消えても ぼくらは消えないけどね」という会話を交わしている。もはやオービンの、マルグリット・ヘッセンの、大人になる代りにあきらめなくてはならない魔法への固執も、「はるかな国の花や小鳥」をいつまでも夢見ていてよい存在への未練もここにはない。魔法が消えても残るもの、それこそが芸術だろう。


 一昨日のこと、「現代マンガ選集」というシリーズの一冊「異形の未来」と題するアンソロジーを本屋で見つけて開くと、71年にCOMに載った、萩尾望都の『ポーチで少女が子犬と』が入っていた。多分、昔一度読んでいると思う。しかしその時には、ブラッドベリやフレドリック・ブラウンに影響を受けたSF短篇くらいに思って見過してしまったと思われる。この少女が、ポーチで子犬と戯れながら考えているのが「魔法」のことであり、「空や窓や花のつぼみや葉っぱのうらの妖精」のことであると知って私はこの本を買った。そして読むうちにはじめて気がついた。ポーチで雨に濡れるのを喜び、「おとなって不思議ね! そんな楽しいこと考えないでどうやって生きていけるのかしらね?」といぶかしむ、何ごとかが起こるのを待ち、虹にみとれる、硬い線で描かれた大人たちの中に一人だけ無邪気で可愛らしく描かれ、彼らに文字通り指を差されて消滅させられるこの少女は、子供ではない!


「嬢ちゃんも 犬と遊ぶ年じゃないこと わかってるでしょう」と家政婦に言われる少女。だが、この子でなければ、誰が犬と遊ぶのにふさわしいというのか。ポーチで子犬と遊ぶのにまさにぴったりの絵柄に彼女は描かれているのに。「もう少し まってみません……?」と病床から身を起こして母親が言う。しかし返ってくるのは、「でも 三年まえからこうしてるんです」という言葉だ。(少なくとも三年前にはすでに彼女は、犬と遊ぶ年でも、雨なのに外にいたり、魔法のことを考えたり、虹の橋を渡りたいと思ったりする年とは見なされなくなっていたらしい)。


 だからこの少女はもうとっくに少女ではないのだろう。姿が子供のままなので読者は騙されるが、彼女は「おとなになる代価に魔法や夢を支払」わなかった者であり、もともとは無邪気な子供だったが本当は悪魔のような人間だと父に言われる、カフカの『判決』の主人公のようなものなのだろう。父親からの「判決」は周知のものであり、また『変身』のグレゴール・ザムザの場合は、即座の死を与えられはしないが、父親の投げつけたりんごが、めり込んだ背中でゆっくりと腐ってゆく。『少女がポーチで』の父親は黒眼鏡に目を隠して言葉少なく、影が薄いが、代りに家政婦が「すぐ家へはいって服をきがえないと 夕食ぬきにしますからね」と家政婦らしからぬことを言い、少女も「あんたと話したくないわ いつだって 高びしゃで 自信たっぷりで」と他の家族や訪問者には見せないはっきりした態度で言い返す。分をわきまえないこの家政婦、「わたしはいつだってまちがったことをしていませんから!」と主張する女は、病身で弱々しく、ただ一人少女をかばう言葉を口にする母の第二人格、というかその正体であり、「少女」が無邪気さの皮をかぶっているように、家政婦の姿をとっているのだろう【註】。

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 いずれにせよこの短篇ではっきりわかるのは、作品内で「魔法」と呼ばれているのがただの“サブカル、オカルト“ではなく、それを手放さなければ死をもって報いられる何ものかだったということだ。



【註】自分で撮って載せた写真を眺めて気がついた。先頭に立って少女を指差しているのも家政婦だ(次は姉)。

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# by kaoruSZ | 2022-02-09 07:22 | 批評 | Comments(0)

手許に『ポーの一族』ないので文庫版を手に入れ読み返そうとしたが近くで見つからず(家まで本を配達してもらうことはほとんどしない)、代りに『マージナル』を再読。実はこれ、tatarskiyさんに借りているもので、連載の初期に雑誌で見ながら途中で興味を失い、あんな終り方をしていたとはtatarskiyさんから聞くまで長年知らなかった。最後まで読んだあと、批判的な文章を書くと請け合いながら、そのままになっていたのだ。


今回あらためて通読したらいろいろ面白かった。もちろん、受胎した少年が海に溶けて不妊因子を無効化し、地球そのものが不毛(マージナル)な状態から甦るという母性信仰や、


「我われの見る夢はどこから来るのか/それは子宮が我われに見せた夢なんだ」

「胎児は子宮の見る夢の結晶体だ」

云々の作中のイワンのたわごと、果てはイワンの作った「夢の子供」が地球と同じ夢を見たのだと語られ、


「生命はみな/同じ夢を見ているのだろうか?/星星もまた?」


と締めくくられる子宮中心主義ポエムは、なんとも気持ち悪いばかりだ。女が子供を産むことは否定されても(そのとき女は母にならず芸術家になるかもしれない)、母性イデオロギーは少年の姿で回帰し、社会との和解を図る。産むのが女でなく、“少年”ならいいというものではない――最初にtatarskiyさんから聞いた、そして私が試みようとした批判も、このあたりにかかわるものであった。


悲劇の母


そもそも子宮なぞ、進化の過程で形成された実用的な器官にすぎないわけで、「自然界の基本は母体だが/母体の基本は子宮にある」(イワン)とか、子宮も地球も星星も同じ夢を見るなどというのは、人間中心主義のたわごとに過ぎない(イワンの過去のこうした言動を彼と親しい友人だったゴー博士から聞かされたメイヤードは、「変わった話だ/宗教的だね」と言うが、宗教とはまさしく宇宙を人間化するもの、共感不可能な物質とその作用でしかないものに人間のしるしを刻みつけるものであろう)。


「脳のどこかに/奥深く/眠りいる夢のことばは/子宮のものだ」――目を閉じた横顔と丸い乳房を見せる、ほとんど一ページを使った巨大な女‐母に重ねて、成長する胎児の段階的/連続的な姿が配され、なだれる長い髪に文字が連なる――「大皮質から/辺縁系をすぎて/視床下部へおちてゆく――そして子宮へ/胎児へかえっていく」

「胎児/この不思議な新しい異物/子宮は体の中の異邦部分だ/辺境だ/ここから先は時の流れすらちがう…/何億年の時を旅して分裂する卵胞」

「辺縁系を境にしてある原始的な脳が/胎児に語りかける何億年もの過去」


アーリンと若い恋人同士だったイワンによって夢みるように語られる、こうした牧歌的な“ポエム”は、しかし数ページ先ではその暗い裏側を見せることになる。友人が違法な研究をしているのではと、怪しみ、詰め寄るゴーに、自分は「夢の子供」がほしいのだとイワンが打ち明けるのだ。


「夢の子供だ/無限に幸福で誰とも共感性を持つ子供だ/苦しまない人間/恐怖も不安もない人間/子宮が美しい夢を見たら/苦しみのない魂を持つ子供が育つだろうか」

「恐怖も不安も/何億年もの原始の再現だ/原始の脳――視床下部に支配されるけものの感情!/理性の大脳皮質は何をしてる!?/辺縁系から先は手がつけられないというわけか?/何億年も前に脳にきざみつけられたトラウマから逃れられないのか?」


子宮の夢とされていたものが、ここで「何億年も前に脳にきざみつけられたトラウマ」に変っているのには理由がある。何億年も遡る必要など全くなく、たった十数年前、両親が離婚し、母と暮していた幼い彼は、突然訪ねてきた父が母に復縁を求め、拒絶されると母を暴行、強姦して、半年後に母が自殺するという、苦痛に満ちた、異常な、恐しい体験をしている。「苦しまない子供」とは、彼がなりたかったものなのだ。イワンの偏執は、次のように説明される。


「母は気絶していた/なぐられて/父が犯してる間/意識がなかったのだ」

「だが母はくるった/恐怖のあまり」

「ぼくは知りたい/母は気を失っていた/くるうほどに父を恐ろしがっていたのは/母の脳なのか/子宮だったのか」


ここからわかるのは、彼の脳と子宮との混同が、こうしてはじまったということだ。


「ぼくが夢に見るあの時の事件は/ぼく自身の恐怖なのか母の恐怖なのか」という、これに続く科白は、言うまでもなく、母と彼自身との混同を語っている。彼は、アーリンの卵子を使って作った「夢の子供」(男の四つ子)を、全員、母と同じキラの名で呼ぶ。彼(ら)は彼の母であり、苦しまない子供としての彼自身でもある。『ポーの一族』について追加の読解をtatarskiyさんから聞いた中にはいくつもの殺人(読者にはそれと知られない)が含まれていたが、それに倣うかに、私も一つ、隠された真実を見つけたように思う。イワンの母キラは、事件のあと「進行性の自己喪失症を起こして/半年後に自殺した」とあるが、この病名は空想的なものだし、助けが来た時、元夫に首を絞め上げられていたキラが、どうしてフィジカルな損傷によって、その場で、あるいはほどなく死なずに半年(「死ぬまでの半年間で別人のようになった」)生き延び、精神的な外傷がもとで死んだのか。半年という半端な時間差が引っかかってはいたのだが、「夢の子供」キラの「受胎」を思いあわせるなら、たぶんオリジナルのキラもこの時「受胎」していたのだろう。元夫からひどい暴力を受け、レイプされたあげくの妊娠。彼女の本当の絶望と自殺は、これに気づいた時起こったに違いない。


「夢の子供」キラの、胎児もろともの消滅――海への溶解――は、イワンの母キラの悲劇の、変形された反復であることを隠蔽しつつ起こり、「受胎したイワンの作品は/病んだ地球へのカンフル剤となって/地球をよみがえらせる…/ほら…脈動だ/聞こえないか/キラが呼びさました生への律動」――という、超能力者センザイ師[マスター]の高らかな宣言によるお墨付きを得て、物語に回収される。そして作品自体、「センター」によって修復され、よみがえったキラ(正確にはその兄弟)を見つけたグリンジャとアシジンが、彼を連れ帰って新しい名前をつけようとするところで終る。イワンとその母キラについての真相は最後まで隠されたまま、彼女の名前までが完全に抹消されることで終るのだ。


制度的な母


サブストーリーの〈母〉について先に考察することになったが、『マージナル』のメインプロットで前面に押し出される母は、言うまでもなく、男たちが崇める聖なる母、「ホウリ・マザ」である。汚染された地球ではD因子なるものに感染することで女は受胎能力を失うとされ、人工子宮から生まれた男しか存在しない(月や火星その他から来て滞在する男たちはいるが、土着の住民は外部世界の存在を知らず、過去の文化から切断され、歴史的・科学的な知を剥奪されている)。舞台となるモノドールは、イタリアの都市国家のような「都市[シティ]」と、周辺の村や町、砂漠からなり、都市の人々は古風で装飾的なローブをまとい、砂漠に住むのは(アラビアのロレンス風)アラブの風俗でラクダや馬を駆る部族である。マザの住まう「聖堂」の「センター」は、彼らのあずかり知らぬ技術と権力を持つ中枢で、彼らは「登録」した精子と血によって、唯一の「マザ」が息子を産んで彼らに与えてくれると信じており、実際そうやって「センター」から子供を受け取り、社会を存続させている。


「マージナルのプロジェクトは/カンパニーが月の市民から卵子を買って/それを地球に輸送し/センターの無菌の地下で受精させる」

「精子はすでに病気に対する抗体をもつマージナルの市民のもの/この抗体はY遺伝子[ママ]にのみつくために男しか生まれてこない」


「カンパニー」から派遣されて「ユーフラテス地区」長官の地位にあるメイヤードは、火星から密入国してきたゴー博士にこう説明する。ここは性行為と生殖が完全に切り離され、無関係な世界なのだ――というか、マージナルの男たちは、人間の生殖について子供のような空想的知識しか持っていないと思われるので、それが関係しうることさえ、知られていないと言うべきだろう。


外から見れば(それは読者の立場でもあるが)マージナルは女のいない世界だが、彼らにとっては女イコールマザ、つまり性的対象としての女抜きで一足飛びにマザがいる。「聖堂」への「登録」のために精液を採取する際、彼らが何を想像しているのかは謎であるが、少なくとも女でないことは確かだろう。そもそも彼らは〈女〉のイメージを持っていない。モノドールの市長(ヴェネツィア共和国のドージェのようなものだが、指輪を投げ入れて海と結婚するのではなく、新しい「マザ」の“第一夫” になる)の一人息子ミカルは、死期の近づいた父(彼らは三十を過ぎると急激に老化し、短命に終る)の命で、過去の文化について不完全ながら蔵書と知の蓄積を持つ「図書の家」を訪れ、かつては人口の半分が「女[ウーマン]」だったという驚くべき事実を明かされるが、あなたはセンターの人から「“オンナノコ”みたいだといわれませんか」と問われて、「いわれます…センターの医学用語で/色子[イロコ]の時期のことだって……」と答え、「幼いウーマンを表わす言葉です」と訂正されている。明らかに彼らは「オンナ」という語さえ知らないのだ。


性行為が生殖から切り離され、男だけしかいないのだったら、歴史上最も性的に自由な社会が実現してもいいはずだが(AIDS禍直前のアメリカのゲイの場合のように)、『マージナル』の世界はそういうものでもなく、「念者」と「色子」と称する制度があって、「色子」の時期を過ぎると「念者」になり、やがて息子を持つことになる――どのみち息子が十代のうちに、寿命が尽きてしまうのだが。少年が、念者か父という後ろ盾を持たず、恒産がない場合は、色子宿で売春することになる。


実際、『マージナル』の冒頭には、砂漠から都市にやってきた男が少年を買うエピソードがあるが、翌日起る「マザ」の死で、「センター」はこの色子の少年チトを次のマザにすることを、急遽、決定する(しかし彼はその夜殺される)。「ぼくらは色子の時期に何人かはマザの資質を持った者がいるんだけど/マザがいるあいだは資質は眠ってて/マザがいなくなると次の誰かが目覚めるって」というのが聖堂の教師からミカルが受けた教えである。しかし、リスト(市民はセンターの完全な管理下にある)を見ながら、チトに代る「マザ」の候補者を選ぶ際、彼の父は、まだ時間はあるというメイヤードと、次のような会話を交している。


「――しかし――手術は?」

「手術?/それは/マザを市民に公開してからでもかまわないでしょう/裸を見せるわけじゃないから」

「……胸部は…」

「胸をふくらませる手術はかんたんです。一日あれば」/「その気になれば/市長/あなたにだって胸ぐらい/つくれるんですから」

「なんの話だ/わしに胸などつくってどうするんだ/なんの話をしてるんだメイヤード!」

「失礼……冗談です/市長」

「わ わしはマザの/神聖なマザの話をしているんだと思っていたが」

メイヤードの態度は意味深長だ。表面上は、この制度に対する彼の考えを示すものだが、実はこれは伏線で、むろん彼は自分の話をしているのだ。


あわただしく作り替えられ、美しい人形となった新しい「マザ」ハレルヤ(実は拉致された「図書の家」のエメラダ)は、しかしお披露目に引き出された市民の面前で墜死を遂げ、市長となったミカルは、キラをマザだと言いつのる。『マージナル』のサブプロットは、彼らの中で誰がマザかの探求であり、終りちかくアシジンがメイヤードにかける言葉も、「おまえは……/マザなのか…?」である。


もちろん、メイヤードはマザではない。問いの仕方が間違っているのだ。『マージナル』の退屈な制度的同性愛と、マザとキラと彼をめぐる人々の織りなすメインプロットの蔭にあるのは、誰が〈ホモ〉であり、〈女〉とは誰なのかという問題で、それが読み取れるのでなかったら、私がこうしてこれを書いていることもなかった。


夢の母


「きみはホモじゃなかったのか」

「だって男ばっかの世界ですからねえ/4年赴任すれば交代できるとはいえ/女っけなしはつらいですよ」と愚痴る「センター」の職員ポールに、こう尋ねるのはメイヤードだ。ポールは答える。

「ホモですが母親から生まれましたから/なんとなくそこらをうろつくだけでも/女がいてほしいですねえ」


文庫版『マージナル』第三巻の女性解説者による「単に女っけがないのが私にはつらいだけかもしれない」発言とひとまとめにして、直前のメイヤードの科白「くだらん」で片づけられてしかるべき、あるいはその上ヘリで焼き払いでもすべきたわごとだが(メイヤードは、ポールの「市長の息子のミカルなんか/XYの単性ですが/色子期というだけで女の子みたいですからねえ/センターの者なんかミカルを見に/ときどき聖堂区のほうへ散歩に出てますよ」に対してこう言っている)、不細工な〈ホモ〉のポールがミカルと接点を持ち、結果的にミカルがハレルヤの正体を知るのは、いうまでもなく彼が「女の子みたい」だからではなく、男の子だからである。


〈ホモ〉という語が出てくるのは全篇でここだけだが、この世界でも、地球外から赴任してくる人々は「人種化された同性愛者」概念を持っているらしい。もちろん、(男同士の性交渉が標準の、というか、それ以外存在しない)マージナルの住人にそれはないので、本来、ポールのような男には天国のはずなのだ。しかしマージナルでは、「XYの単性」でなく、XXYであることは特別な意味を持つ。新たなマザ候補リストに不満げなメイヤードに、職員のマルコは、彼らが十三歳から十五歳で、親、財産、念者を持たない、よりすぐりだと強調してつけ加える。「それに/XXYですよ」。


もっとカリスマ的な美形はいないかとメイヤード。「そんな……女と同じというわけにはいきませんよ」と言いながらも、マルコは言葉を継ぐ。「しかし/きれいですねえ(…)」「…両性具有率が多いのもこの4・5年の色子の特徴です」


だとしたら、マージナルの人々は、他世界(私たちの世界も含め)の人間と生物学的によほど違っていることになる。XXYとは、XX(女)にYが付いたものではない。XYに余分なXが付いたもので、Y染色体があるとはすなわち男、出生以前に性分化は終っており、男性としての生殖機能が阻害されることはあっても、「両性具有率が多い」などという事実はないからだ。


「成人になると男性化して両性のものも単性化する」とされるマージナルの住人の、(成人前の)「色子期」とは、要するにエラステースとエローメノス、念者と若衆といった文化をなぞりつつ、擬似生物学的根拠を付与したもので、「夢の子供」キラも、結果的にこのような「色子」をマクシマムにしたものになっている。アシジンとグリンジャとの三角関係の中にあって、キラは女性化する。『闇の左手』のように、完全に身体が変化するのだ。


「……キラが……目を…/覚ました…」そう呟く少年に、「おまえがキラだ/ちがうのか」とグリンジャはいぶかしむ。キラは四つ子の兄弟共有の名前、その女性人格が目覚めたと、通常は理解されるのだろう。「そう/ぼくが/キラ/だ…」と少年は応える。「あんたと対応する…」。それは器官が女のものになり、異性間性交可能な身体になるということだ。(……灯の……/せいか…?/こんなに…/きれいな子だったか…?)ランプに照らし出されたキラの顔に、グリンジャは密かに驚嘆する。

「おまえみたいに…?/いつのまにか――男の部分が消えてしまうのは――/……はじめてみる」

「すぐもとにもどる/いまだけだ/あんたが触れて/キラが対応したせいだ」


キラとは誰か。その名前の元になったイワンの母だ。イワンが作ったのは、実のところ〈娘〉であり、娘として甦った彼の母ではなかったのか。少年であるのは隠蔽の結果だが、〈キラ〉が「対応」するとき、真実があらわになる。キラたちが十歳を過ぎた頃、もうすぐ自分とキラとの子供が作れるとイワンが言った(それで目が覚めた)と、キラたちの母アーリンは証言している。イワンの「夢の子供」は本当は「夢の女」――母の再来であり、受胎した子もろとも自らを滅ぼした最初のキラと違い、彼の望みを叶えるために到来し、彼を見捨てず、彼によって、彼のために、彼とのあいだに子供を産む、少年の姿をした母なのだ。


 イワンの「夢」は、もともと彼の異常な個人史から発したもので(地球の再生のためという合理化が部分的になされているが)、本来、大状況とは無関係の、マッド・サイエンティストの妄想だ。違法な研究で火星の大学を追われた彼とアーリンが、受胎不可能になった地球へ逃げて森にこもり、イワンが妻の卵子を使って実験を続けた結果できた、妄想の現実化がキラである。「マザ」とは「センター」の、あるいはその背後の「カンパニー」の傀儡であるのだから、キラがマザではないかとは、はじめは無知からの誤解であるが、キラの“受胎”が確認されると、少年が出産することへの期待は、いわば公式のものとなる。最終的にキラは「病んだ地球の夢」を自分の夢とし(センザイ師いわく、「夢の子供が/地球と同じ/夢を見たんだ……)」、自らは身ごもったまま(イワンの母と同じだ)死ぬが、地球はそれによって“活性化”され、氷漬け状態で生存していたキラの同胞(四つ子の一人)の片側の卵巣を取り出して千六百人の赤ん坊を作り、その体液や細胞や遺伝子を研究することで、地球上で受胎が可能になる秘密を探るという希望に満ちたヴィジョンが(自らも双子、つまり天然クローンの医者によって)語られるという、なんともエグい展開になる。


現実の母


「夢の子供」とはすなわち「夢の母」であり、地球と同じ夢を見て、不毛の星に生命を取り戻す――これがメインプロットの正義であるため、同じ夢を見なかった――見ることを拒否した――“現実の母”は、著しく厳しい評価を受けている。


 すべての人間が「マザ」の息子であるとされる地球で、唯一“現実の母”だったアーリンは、自ら“怪物“と呼ぶ超能力者の子供たちに、イワンや彼らと同じ夢――イワンとキラの間の子を作る夢――を見る(テレパシーで共有する)よう強要されてゴー博士に助けを求め、通信を傍受した「カンパニー」によって救出される。ゴーが地球に来るのに手間取っている間に、アーリンの供述を受けたカンパニーは、イワンと子供たちを森ごと焼き払っていた(この真の理由はあとで明らかになる)。ゴーは、彼女がイワンの研究をなかったものにしたがっていることを否認し、「アーリンが陥っているのは一時的な錯乱だ! 自分の子供じゃないか!」と言う。そうだろうか。女の身体から前もって取り出した卵を使い、母体から分離された場所で発生させられることで、イワンの夢の子供たちは、受胎した母によって殺される(イワンの弟か妹のように)ことを、あらかじめまぬかれていた。イワンは、女なしで子供を生み出そうとした古典的なフランケンシュタイン博士であり、マテリアルとしてだけ利用された「フランケンシュタインの怪物の母」は、最終的に子供たちを殺すことを選択したのだ。


 新マザ、ハレルヤの公開が決まり、アシジンが、マザがよみがえると口にした時、キラは「マム…?/アーリンが…?」と顔色を変えるが、これからは若いマザがみんなのためにたくさんの子供をくれると聞くと、「ぼくはもういいんだ/何もしなくても」「イワンのために子供を産まなくてもいいんだ」と叫んで狂喜する。見ていたゴーはぞっとして、(だが/キラは/受胎してるのに! 子供は/イワンの夢だ/それも強迫的な//キラの望みでもなんでもない)と思う。にもかかわらず、ゴーは、マージナルで調査を続ける人類学者ネズを味方につけようとする際、「重要なのは/キラが受胎してるってことだ//この子だ!/見てくれ/イワンの作品だ/地球の未来だ!/不毛の地を救える!」とイワンの代理人のように主張する。イワンの動機がそんなものでないことを、誰よりもよく知っているはずなのに。


 子供は(自分ではなく)マザが産むんだと必死で抗弁するキラに、「きみはアーリンを恐れてるんだ」とゴーは決めつける。まるでアーリンが悪いかのように。実際には、キラはイワンに不当な「夢」を押しつけられていたのであり、やっとその重荷から逃れられたと思ったのに、別の「夢」に乗り換えさせられようとしているのだ。「マザの世界は終り/新たなプロジェクトに移行する/それがキラだ」と力説するゴー博士によって。


実際には、アーリンこそがキラたちを恐れていたのだし、それも無理もない理由からだった。だが、ゴーは、アーリンのSOSに応えて地球にやってきたはずなのに、いつの間にか彼女に批判的になっている。双子の医者がキラたちの生育環境を評する時、彼らの親は、「理想しか見えないイワン/子供がこわいアーリン」と称されている。子供がこわいアーリン? こわがって当然の怪物なのに、彼女は、母として彼らを受け入れなかったことを非難されている。一方イワンは、完全に免責されているのである。


理想どころか、イワンこそが、悲劇的な子供時代に端を発する妄想に、皆を巻き込んだのである。彼の母キラは、彼を見捨てて死んだーー受胎した子とともに。だから彼は、受胎抜きで子供を作った。子供時代のトラウマから、キラたち(母たち)は彼を救ってくれた。彼自身でもある「苦しまない子供」は、父と対立することのないとして父から愛され、イワンは自らの父とも和解することができたかもしれない。しかしイワンのインセストの夢はアーリンを離反させ、彼女の逃亡によって、水入らずの小宇宙は(文字通り)崩壊した。


 こうしたことが全部誤魔化され、ゴーはまるでイワンが理想主義者であり、彼自身がイワンのあとを継ぐかに振舞っている。キラの胎内の子は失われたが、あたかもイワンの死後も続く呪いのように、アーリンの卵子に代り今度はキラの卵子を使って、これからも、公式の事業となった実験は継続されるのである。


メイヤードという〈女〉 


地球上での受胎を可能にさせるプロジェクトが正義とされる時、メイヤードは〈悪〉を一身に担うことになる。たしかに、「センター」から子供が与えられなくなっている事態は、マージナルの男たちのあいだに不満と不信と不安を煽り、「マザ」とメイヤードと市長の暗殺を企てる一派まで出るほどだが、それは迷信的な理由からに過ぎなかった。また、メイヤードは「カンパニー」の末端で地球を任されているだけであり、マージナルでの実験を終了させて地球を「始末」するというのは、そもそも「カンパニー」の決めたことである。


 それでもメイヤードは、新たなプロジェクトがイワンとかかわりがあるように、地球の“不毛”とかかわりがある。表題の「マージナル」の意味は、作中で示された限りでは「限界」「不毛」「ギリギリの」であるが、彼の役職の別名(通称)「マルグレーヴ」とは、「辺境伯」と訳されるタイトルであり、この「辺境」とは「マージナル」のもう一つの語意だろう。そしてそれはイワンの、「子宮は体の中の異邦部分だ/辺境だ」という文句につながってゆく。


イワンが“受胎”を目指す実験を行っていたのに対し、メイヤードは、ドームに覆われた都市の地下深くひそむ無数の人工子宮という、入れ子になった母体によって、マージナルの男たちを再生産していた。すでに述べたように、その際使われる卵子は月の市民から買われたものであり、アーリンに要求されたような母性イデオロギーとははなから無縁なのである。そしてイワンが、火星の大学を追放されて地球という辺境に逃げてきたように、メイヤードは、いわば自己流謫の結果、地球にいる。彼らは、故郷にも、今いる場所にも属さない、異邦のマージナル・マン(境界人)だ。


 ここまででも明らかな二人のカウンターパート性は、キラの父親というポジションをめぐって、頂点に達する。夢遊状態のキラは、イワンが「アーリンとエゼキェルで」キラを作ったとメイヤードに告げる。エゼキェル――“エゼキェル因子“とは、極めて稀ではあるが、それを持つ者の半数に進行性の視覚障害が見られ、遺伝子に高い確率で突然変異を引き起こすもので、この因子を持つ者は、子孫を残すことを禁止されている。実はメイヤードはこの因子の保有者であり、かつて人工心臓の手術を受けたが、その際、助手として入ったイワンは、密かに彼の血液を採取しておき、「夢の子供」製造にあたってそれを流用したのだった。


 イワンとキラとの父子関係が明示的に否定されることはなく、フランケンシュタイン的な意味での創造主としての、父イワンの地位は揺らがないとはいえ、このことによってキラは、「メイヤードの息子」と呼ばれている(もともとマージナルの男たちは精子血液をセンターに差し出して子を得ているので、筋は通っている[?])。「カンパニー」がイワンとキラたちを殲滅したのも、エゼキェル因子ゆえであった。しかし、そのせいでキラが受胎可能になったと知れると、エゼキェル因子は一転して善玉になり、キラが子供を産むことを望まず、自分の命の終りとともに地球のl終りを見届けようとするメイヤードは、タナトスの体現者としての悪人になる。


 その髪型とサングラスから手塚治虫の美少年の悪役ロックを髣髴とさせるメイヤードは、サングラスなしには十分な視力を得られず、進行性の病気を幾つも抱えている。そしてイワンと同様、メイヤードにもまた、自らのプロジェクトと彼自身を同一視する個人的理由がある。「ここはマージナル/男ばかりの不毛の世界」と、十二年前、到着したばかりのメイヤードが口にしたのを、意味のわからぬままに覚えていた、当時少年だったアシジンは、だから彼に問う。「あれはおまえ自身のことなのか」


 だが、真の〈悪〉は、物語の表面的な整合性とはズレたところにあるだろう。メイヤードは〈悪〉である。なぜなら、「色子」の時期の、オンナノコのような(両性具有的な)少年でも、ポールのように明示的なーー異性愛の男と相互補完的で、そもそも彼らがいることで異性愛者が存在できるーー種族としての同性愛の男でもない、また、特定の男との接触で実際に身体が変化し、異性間性交可能になるキラでもない、女性化する男がメイヤードであるからだ。


 メイヤードは他人に触れられることを極端に嫌うが、それは、その身体が、触られるにふさわしい受動性を持つからこそである。ゴー博士との最初の面会の際、サングラスを叩き落されて、彼は、その見えない眼とヴァルネラビリティとをあらわにする。「センター」に拘束され、スクリーンのメイヤードと対峙したアシジンは、映像だと教えられてもなお、メイヤードに接近して口づけ、彼をたじろがせる。そして終盤、薬を与えられなければ死ぬと騙されていたことを、二人で閉じ込められたエレヴェーターの中で知ったアシジンに飛びかかられたメイヤードの、嘘つきの舌を引っこぬいてやると食いつかれて血を流すエロティックな受動性。制御不能になったエレヴェーターは地下のダムへ下降して、キラの潜在能力が引き起こした洪水に呑まれ、気を失ったメイヤードを助け上げて服を脱がせたアンジンは、治療の結果の傷だらけのメイヤードの、右胸がふくらんでいるのを見る。病気の進行を防ぐために、女性ホルモンを投与されていたのだ。


 市長に胸くらい簡単に作れると言った時、メイヤードはたしかに彼自身のことを言っていた。おまえはマザなのか、とアシジンに訊かれてメイヤードは笑い、「女がいない世界はここだけだ/何もかも作りごとだ/そうさ/このわたしの/体のように/ああ/うっとうしい/この作りごとには/うんざりだ!」と言うが、ハレルヤと彼自身は峻別されるべきものなので、むしろアシジンは、おまえは〈女〉なのかと訊くべきであった。もちろんアシジンとマージナルの男たちにとって、この二つは未分化だ。


 女性性とは器官の問題ではなく、また生物学的なものでもない。メイヤードの右の乳房は授乳のためのものではなく、たんに、彼の受動性が可視化されたものだ。キラのように受胎を目的とし、男に対応してそうなるわけではない、非器官的な、不要な女性性――彼の罹っているのはになる病であり、にではない。「男ばかりのあわれな世界」とは彼が身をおいている世界のことであっても、彼自身のことではない。短い「時分の花」を咲かせる少年としてしか女性性を知らず、長持ちしない女である少年との擬似異性愛が同性愛と見誤られるあわれな世界で、唯一、目的を持たない女性性を持つマージナル・マンがメイヤードであるのだ。


「マージナルの人間どもが願ってやまぬマザ!/女?/女がほしいか?/月にも火星にも女なんかいくらでもいる」(メイヤード)


 しかしメイヤードの場合、外の世界にいるそうした女たちすべてと同じく――そして、男に対して女になり、受胎するキラと違って――「女であること」と「マザであること」とは別のものであり、それゆえに〈悪〉なのである。


(つづく)


# by kaoruSZ | 2021-05-22 03:37 | 批評 | Comments(0)

『はるかな国の花や小鳥』の次に置かれている、ジョン・オービン初登場のエピソードで、彼はエドガーがハロルド・リーを訪ねた時の例の帽子をかぶっており、一篇はまさしく『ホームズの帽子』と名づけられている。直接シャーロック・ホームズには関係ないが……というか、オービンの「魔法使いの目」、「女のように」長い髪、霊感、魔物、ネス湖の怪物探しといったものは、玩具箱に雑然と放り込まれた子供部屋のガラクタで、彼が世のつねの“大人の男“ではないことのしるしであり、「ホームズの帽子」もそうしたアイテムの一つなのだろう。


 それはまた萩尾望都にとってのマンガ、いつまでもそんなものにかかずりあっていないで大人にならなくてはいけないと、両親から見なされていたものでもあったろう。すでにマンガ家として有名になっていてさえ、それでいつマンガはやめるんだと親から尋ねられたという話を読んだことがある。


「ぼくも年ですからね! いつまでも若くないし!」

「ここらで腰をおちつけ職をもって」

と、髪を切ってイゾルデにアピールするオービン。しかし結局は周知のものを追って彼女に求婚しそこねてしまう。それから四十年以上の歳月ののち、『エディス』の結びで、「そしてわたしは最初のページを始める」「ーーエドガーおまえに わたしのはるかなおまえに そして そのポーの 一族によせてーーと」と書きしるす禿げ頭のオービン。これはほとんど二十世紀小説のパロディだ。オービンは、本当なら、芸術家として創造されるべきだったのだろうーー怪異を追って東奔西走する、子供っぽいオカルトサブカル男ではなく。


· これは、「大人になる-マンガを捨てる」ことの対極を、「いつまでもはるかな国の花や小鳥の夢をみている」としかイメージしえなかった作者の認識に見あったものとも言えようが、実際に彼女の作品を文学だ芸術だと持てはやす男たちもおおかたそういう輩でしかなかった/ないといえよう。むろんオービンは彼らよりはるかにましであるが。


 ところでtatarskiyさんと電話で話したら、『ピカデリー7時』のポリスター卿の顔はエドガー・ポーの顔を下敷きにしたのだろうと言われた。これは全く思ったこともなかったし、咄嗟に意味が呑み込めず、にわかには信じられなかったが最後には納得。少女マンガ的に変形されたポーの顔であり、少女妻を育てる男とは(私たちはそう思っていないが)、一般に共有されている通俗的なポーのイメージだというのだ。いや、ポーは断じてそういう人ではないのだが! あれをよくできた話だと書いたのは、ヘテロセクシュアリティの構造として普遍的なものを、少女マンガの甘やかさを最大に生かしつつ示し得ていると思ったからでもある。

·

『すきとおった銀の髪』の昔から、人間と吸血鬼の対比は、前者が老い、後者は永遠の若さと美しさを保つーー限られた時間しか生きられない人間は、短い人生の中で偶然出会うことになった彼らの姿を垣間見るーーというのが基本だったはずだ。『エディス』でも、もはや切る髪もないオービンは、「まったく年をとった…年をとった…」と呟き、「時が…止まっている……」とエドガーの顔を思い浮かべる。あるいは、森の中のリデルは、家に戻されても、育ての親のエドガーとアランが迎えに現れるのを窓辺で待っていた。思えば作者も読者も若かった。結婚し、子を産み、老いるという常道に外れた側に自分が身を置きうると容易に信じられたのだ。


 しかし『春の夢』の終りでは、吸血鬼になった少女が 、「あの人たちのしているのは死んだ人の話」「あたしは……思い出になってしまった」と、親しい人々の口の端(は)にもはや死者としてしか上らぬわが身を、世界からの深い疎外を嘆く。実はオービンではなく、髪が真白になりながら永遠に十六歳の(実年齢は三十前の)ブランカの方が老いている。オービンは若い人間が想像した老人であり、ブランカは、もはや自分のものではない「春の夢」を、正確には「春の夢を見られた頃」を、思い出すしかない老人なのだ。


 フラワーコミックス最終巻で『一週間』『エディス』と読み継いだあとに『春の夢』を読んだのは正しかったようだ。言うまでもなくこれは四十年ぶりの発表の順序そのままであり、『エディス』に時間的に接続するのは、続篇第二巻、その空白の四十年間を眠り続けていたエドガーが復活する『ユニコーン』である。だが、クロノロジックな再構成がぴたりと決まるような作品を書くのは凡庸な作家と決まっている……『春の夢』の作者はもちろんそうではない。


『エディス』でエドガーとアランが消えたことはいったん置いておき、欧州での二次大戦終結時のエピソードを作ったかに見えながら、実は四十年前に書かれた『一週間』『エディス』とこの新たな話は夢にも切れずつながっている。それは、新たに登場するキャラクターが、最終話でのエドガーとアランの燃えさかる家からの脱出を可能にする伏線となっているといった、物語技法上の問題ではない。そうではなく、エドガーの不在中ひとり置いて行かれたアランが、川をへだてた別荘に滞在する二人の少女と仲良くなる『一週間』が、一見無邪気で牧歌的な可愛らしい小品でありつつ、アランが(見かけの)年齢相応の、女の子を扱いなれたプレイボーイとして振舞う話だったこと、続く『エディス』は、アランがはっきりエディスに恋し、エドガーに対立して、メリーベルの代りの少女を得ようとした話だったことのまさしく続きで『春の歌』があるからだ。しかも今度は攻守ところを変え、少女に近づき(“気”が足りなくて寝ていたアランは、彼女を「口説いてたね」とエドガーに言う)、浮気する(「僕が眠ってると君は浮気するんだ」とアラン)のはエドガーの方である。


 しかも相手は、『一週間』の二人組やエディスのような幼さを残すロウティーンではなく、十四歳と称する彼より二つ年上のユダヤ系ドイツ人で、両親と別れて出国し、母の妹の夫である英国人オットマー氏の下に弟と身を寄せ、気を張って生きている。シューベルトの歌曲集「冬の歌」の一曲「春の夢」(「冬に春の夢を見る私を/窓辺の葉が笑うだろう」)を巧みに使って、作者は、少女が、年下とは思えぬ大人びた少年にそれまで押し殺してきた内面を打ち明け、胸ときめかして心ひかれるだけでなく(「なにか事情があるのね……亡命してきた王子様? ウフフまさか」)、エドガーに彼女について「きみはぼくの 春の夢だーーー」と独白させ、二人がひかれ合うさまを描き出す。エドガーがこのような積極的なヘテロセクシュアルな主体とされたのははじめてだろう。


 だから、世界が若かった時代の、いつまでもはるかな国の花や小鳥を夢見ていてよかった頃とはなにかが恐しく違ってしまったのだけれど、それでも、四十年前のカタストロフとの連続性は、例えば従姉妹どうしの対照的な少女たちにとってアランが「川むこう」の少年だったように、エドガーがはじめて見かけた少女は「小川の向こうの館の人」と説明され、理由をアランに告げずにエドガーが家をあける期間がどちらも一週間であることに、あるいは次の二つの絵のささやかな一致にはっきり見てとることができる。一枚目は『一週間』のラストで夕方にはまたアランに会えるつもりでいる少女たちの前から永遠に立ち去る二人、二枚目は一週間留守にすると言ってアランを置いて出かける、『春の夢』のエドガーである。


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『春の夢』と『ユニコーン』は、監督が交代した結果、ファンの深い失望を引き起しかねない続篇のようなものだ。個人的には、絵柄は最初違和感があっても読むうちに馴れたし、映画の比喩を続けるなら、特に『春の夢』は脚本が極めて優れており、完成度の高い一本だ。キャストは、少年二人以外は登場人物がすっかり入れ替わっているので一新され、アーサー・クエントン卿だけは同じ役者のまま若メイクで行けただろう(発表時と一致させた二〇一六年が舞台の「ユニコーン」冒頭でエドガーがスマホを「その電話機 今 みんな使ってるんだね」と言い、自宅にいるアーサー卿がラセンコードの黒電話でそれを受ける一方、パソコンに向かって通信販売を利用しているのが個人的にはウケた)。

 エドガー役はかつての少年と較べると薹が立ったけれど同じ俳優で(ジャン-ピエール・メルヴィルの『恐るべき子供たち』の子供たちのように)、アラン役だった子はすっかり背も伸びてイメージが変ってしまったのでオーディションでつめかけた候補者の中から美少年を選んだが、全然アランじゃないと不評ーーといった感じである。しかしこれは監督が同じでも所詮避けられないことだったのだ。映画のたとえはこの辺でやめるが、作品に覚えていてもらえた作者などいない(天澤退二郎)のだし、作品が完成したあとは作者は死んでいる(ブランショ)のだから、萩尾もエドガーと同じ四十年という死に等しい眠りからめざめて、もはや自分のものではない作品に挑んだ、いや所有権や特権を主張したところで何の役にも立たない、作者を見分けることのない作品に身をゆだねたというべきだろう

 すでに述べた通りエドガーとアランの役割が逆転して『一週間』で女の子相手に“浮気”していたアランの位置をエドガーが占めた結果、はみ出したアランは、新たな登場人物によって受け止められる。それが、一九二五年のパリ万博で彼らが出会ったという別系統の吸血鬼ファルカだが、これは別に過去のエピソードが明らかになるとか、それまで伏せられていた秘密が語られるとかいったものではない。十二世紀に東欧で領主だったファルカは、気(エネジー)が洩れて眠りがちなアラン(止まらない出血のようなものだろう。実際、エドガーは「貧血気味のアラン」と言っている)を治す力を持ち、「用があればいつでも鳥がオレに伝えてくれる」と言い残していた。エドガーがファルカを戸外で呼ぶと、やがて十九年ぶりに彼が現れる。まるでランプの精かマグマ大使、遠隔通信と瞬間移動が可能なファルカは、オールマイティのトリックスターのようだが、これだけでも作品の変質は明らかだろう。エドガーがいわば上位の存在に頼るなどおよそありえぬことであった。

 ファルカは、手紙が届いて“一週間”留守にすることになったエドガーの代りにアランの相手をし(『一週間』の少女たちの役回りだ)、アランを癒し、ブランカと顔合わせし、三十年後の『エディス』での、猛火に包まれた家からのエドガーの脱出を可能にする伏線となり、エドガーとアランとブランカの三角形に、アランをめぐるもう一つの三角形を加えることになる。「口説いてた」とか「浮気」とかいう言葉を使って、エドガーとブランカのボーイ・ミーツ・ガールを暗い目で眺めていたアランは、瀕死のブランカを生き延びさせようと、エドガーがファルカに彼女を吸血鬼にしてくれるよう頼む(自分がやったのではアランのように血の薄い仲間しか生み出せないから)とき、ブランカが手に入れば自分は必要なくなり捨てられる、だからファルカと行く、と言い出す。以前からアランを望んでいたファルカは喜んで、「ブランカに我が“ギフト”を与えようそして ブランカはエドガーに アランはオレに!」と宣言する。この危機はエドガーの二ページに渡る雄弁によって回避され「ブランカオレの花嫁大切にするよ」と、まだ目覚めないブランカをアランの代りに抱えてファルカは姿を消す。少年の頃、兄の領主の死によって、身籠った嫂を娶り、やがて義理の息子と妻に愛情を注ぐようになったファルカのエピソードはほほえましいが、これは糖衣を被せられたものであり、陽気ではっちゃけた「“男装の麗人”風」女装でオネエを演じる鳥たちの王、愛すべきファルカの本質は、男の子をさらう“ハンノキの王”、バイセクシュアルのジル・ド・レだろう。


# by kaoruSZ | 2021-04-10 16:18 | 批評 | Comments(0)

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 部屋を片づけつつ発掘された本につい読みふけるうち、フラワーコミックス版「ポーの一族」最終巻を見つけた。せっかくなので、はるかな時を隔てて再会するこれらの物語は、現在の自分の目にどう映るかとページを繰った。それでも最初、『はるかな国の花や小鳥』は飛ばそうかと思っていた。「憎むのはいや 悲しむのもいや」と言って自分を捨てた男を思いつづけ、三十前で儚くなったあと、「たぶん生まれながらの妖精だったのです」と語られる少女のような女の、甘ったるい話が耐えられないと思ったからだ。ところが、読んでみると、そういう話では全くなかった。


 もちろん、薔薇の咲く家で少年たちの合唱隊を指揮し、ばあやの焼き立てパイを切り分け、迷い込んだエドガーを「私の青い目のユニコーン」と呼び、いつも「幸せそうに」笑い、昔の恋人の死を知って自殺を図り、その三年後に病死したエリゼルのことが、「あの人は夢に浮かぶはるかな国の住人だったのでした」と語りおさめられることに変りはない。「遠い少女を思い出させる」エリゼルを、失った妹メリーベルに重ねることで、エドガーの彼女への思い入れを無理なく見せる設定も巧みなものだ。しかし一篇のキモはそんなところにはなかった。いつになくエドガーがセンチメンタルなこの短篇で、彼はまるで、過去に介入して運命を変えようとして、かえって防ごうとした当の事件を引き起こしてしまう、タイムトラヴェラーのような役割をつとめている。しかも本人に全くその意図も意識もないままに。作中人物の誰にもそのことは気づかれないし、おおかたの読者にも気づかれまい。


 エドガーのタイムマシンは一台の自転車であり、行先は近郊のホービス市だ。むろん彼は過去ではなく、十年前のひと夏、エリゼルの恋人だった、現在のハロルド・リーを訪ねてゆく。「エルゼリを知ってる?」「エルゼリ…? だれのことだね?」という短い会話を交わすために。暗くなって戻った彼は、「あの人あなたのこと」……覚えていなかったよ、とは言えず、「覚えてたよ」とエルゼリに告げる。「あの人 どうだった」と現在の男の外見を尋ねるエルゼリの返事は少々変だ。普通、覚えていたというのなら、自分のことをどう言っていたかを知りたく思うものではなかろうか。恋人がたとえおぼえてなくとも彼女は平気なのではーーとエドガーが言うとおり、彼女はまるで、「あの人 あなたのこと覚えていなかったよ」と言われたかのように反応している。そしてそれは、自分のことなど男が頭の片隅にも残していないであろうことを彼女がすでに知っており、それをかたくなに意識から排除し、否認しているからに他なるまい。


 だが、エドガーの、善意と優しさからの嘘は、すぐに確実な効果をもたらした。ハロルド事故死の報にエリゼルは自殺を図るが、それはエドガーが、彼はあなたの名前すら覚えていなかったと真実を伝えていれば、たとえその時はどんなに辛くとも、避けられたかもしれないことだ。彼の心の中になおも自分がいると、自らの思い込みのみならず、他者の言葉によっても追認されてしまったために、「自分を覚えている」男を失ったとき、エルゼリは死ぬしかなかった。だからこそエドガーは部屋に飛び込んで助けたエルゼリが目ざめる前に、アランを促し町を去るのだろうーー彼自身は知らなくても作品は知っている。


「いつかあの人は夢からさめることがあるのかしら…」とエドガーは独語する(この直後に事故の場面が続く)が、彼女の夢をつなぎとめたのは他ならぬ彼自身なのだ。そして、ハロルドの命を奪った事故もまた、エドガーの介入がなければ起こらなかったことだ。エルゼリとは誰だったかと考えつつ自宅を出たハロルド・リーは、一見エドガーに似た自転車乗りの少年の後ろ姿にはっとして、追いすがろうとし、声をかける。その背後に迫る馬車。振り向く少年。ばあやからエルゼリに伝えられるとき、それは「自転車にのった子がころぶのを助けて 自分は馬車の下じきになったんです」と変形されている。だから、注意深い読者以外には真実は見えないようになっているのだし、作中人物の誰ひとり(エドガー自身も含めて)、ハロルドの死が、エドガーのお節介の結果であることを知らない。


 エドガーがもしハロルドの応えを隠さずエルゼリに伝えていたら、彼女は過去を思い切ることができ、かつての恋人の死の報せに遭っても、手首にナイフを当てずに済んだろうか。いや、その時はハロルドが自転車の少年を追うこともなく、したがって馬車の下敷きになることもなかったはずなのだ。


 エドガーとアランが去ったあと、作品はもう一ページしか残っていない。


「その人は それから三年の後病気でなくなったと聞きます」


という匿名の語り手の伝聞による報告と、


「たぶん生まれながらの妖精だったのです」


「あの人は夢に浮かぶはるかな国の住人だったのでした」


という断言、そしてその間(あい)を縫って薔薇の蔓のように絡まる、


「わたしが住むのはバラの庭」


「くちずさむのは愛の歌」


「日々思うのはやさしいひと」


という纏綿たる“ポエム“の裏には、しかしエルゼリが押し殺し、表情にも意識の表面にも出すことを拒絶した、負の感情が隠れている。たぶんそれが、彼女の知らないところで、エドガーの姿をとってハロルド・リーを訪ねて行ったのだし、次にはエドガーの知らないところで、無関係な少年の姿を借りて反復され、不実な恋人を死に追いやった。エドガーはハロルドのメッセージを逆にして伝えたが、真意はあやまたずエルゼリに届いて、彼は復讐されたのだ。


「あの人きっと奥様を愛し」


「生まれた子どもを愛し 家庭を愛しているのでしょう でもわたしは幸せ」


「一人バラの庭 とても幸せ」


と呟く、“少女のような女”の手を全く汚すことなしに。


 たぶんこういう書き方ができるところが、萩尾望都の才能なのだろう。それは、作者が女の登場人物を悪意や敵意や憎しみを、つまりは自我を持った人間として描けなかったのではないかという疑いとはまた別のものだ。この頃の萩尾の筆致は、マンガでしかできない表現の可能性をきわめる探求と実践として、甘美で魅力的であり、もうこれはマンガではなく小説だといったたぐいの賛辞がいかに馬鹿らしかったかわかるし、たとえばこの一冊を見るかぎり、エドガーとアランの関係は同性愛というようなものではなく、「やおい少女」に敵対的で、男が女にやってきたことを女が男にやるのかと被害者づらしたゲイ当事者()のみならず、ホモフォビックな批評家にも評判がよかったのも頷ける。


 ハロルドが少年をエドガーと誤認するところで、私はニコラス・ローグの映画『赤い影』を連想したが、それはシリーズの最終話『エディス』で、水を渡る赤いドレスのエドガーを見たからでもある。エドガーは「小鬼」と呼ばれ、『赤い影』の死んだ娘と思えたものの正体は小○であるが、いずれも死への案内人だ。


 ここまで書いてからポーの一族の新作を読んでしまったので、それと無関係に続けることは無理になったが、『赤い影』がヴェネツィアを舞台にしたフィルムであることには触れておこう。偶然にしても、新作『春の夢』で水辺は死と危難に深く結びついているし、死者の行先、死者と再会できる場所は、他ならぬヴェネツィアであるからだ。幼い娘を水の事故で亡くした夫婦は、旅先の水の都で、娘がかつて着ていたのとそっくりの赤いフードつきマント姿の“影”に出会う。鹿撃ち帽にインバネス?(完全にホームズスタイルかと今気づいたーーちなみにグラナダT V版でジェレミー・ブレットによって一掃される前は、ホームズといえばあの帽子、しかもチェックで、山高帽のダンディが思い浮かべられることはなかった)という恰好で自転車に乗ったエドガーの場合もまた、同じ恰好の人物が容易に彼と見誤られ得た。


 もう一点指摘しておこう。今回読み返した最終巻は『ピカデリー午前7時』を冒頭に据えているが、『はるかな国…』で、エドガーがエルゼリのどんな意思を代行して男を死なせたかを見たあとでは、ここでも彼が代行者として、最後にメッセージを届けていることに気づかぬわけにはいかない。代行者と言っても、養女リリアに、恋人と幸せにというメッセージを送るのは、ポリスター卿の意思ではない。彼は「花嫁を育てていた」(エドガー)のだから。これはよくできた話だ。


「お父さまのようなおじさま」

「孤児のあたしをひきとって育ててくれたおじさま」

「ハンサムで…やさしくて…」

「大好きなお父さま」

リリアから見たこの素敵なおじさまとは、理想化された父、近親姦タブーをまぬかれたその代理であり、娘の願望だーーむろん、孤児になることが、孤児でない子供だけが持ちうる夢であるように、現実に娘に手を出すような父を持たない幸福な娘にのみ可能な願望だが。『ピカデリー7時』は、オルコットの『八人のいとこ』を思い出させる。私事を言えばこの本も、いとこたちのお下がりの一冊として私のもとに来たのだが、少し大きくなる頃には、少女ローズの後見人となった魅力的なアレック叔父さんが、正体を隠した理想の父であることに気づいていた。『若草物語』の、かた苦しい生活信条や出来過ぎた母の影は微塵もなく、自由な男である叔父さんは、女たちの(からの)抑圧からローズを解放する。しかも彼女は、姉妹ではなく、男ばかり七人のいとこにーーその称賛のまなざしにーー囲まれている(エルゼリのバラの庭に集まるのが、男の子ばかりなのが思い合わせられる。彼らは、エルゼリに気に入られたエドガーに因縁をつけるーーそして帰り討ちに遭うーーほどに彼女に夢中なのだ)。


『八人のいとこ』には、別の意味でエルゼリに似た「ピース大おばさん」もいる。結婚式の朝、婚約者の死の報せを受け、みんなはやさしいピースがそのまま死んでしまうかと思いました(本が手元に見つからないので記憶で書いている)という、しかしその打撃に耐えて生きのび、いつも微笑を浮べて他人に尽し、その名の通り穏やかで、いつも手仕事にいそしむ老婦人……エルゼリ以上にあらゆる葛藤を避けた、恋人を失った女である。


 オルコットの影響は確実にあるという気がしてきたが、影響関係抜きで、薔薇つながりでもう一つーー交際していた男が町を去ると屋敷に閉じこもり、数十年間姿を見せなかったミス・エミリー(“A rose for Emily”)の場合だ。エミリーが死んだとき、町の人々は真実を知る(ちなみに、タイトルを除けば、こちらには薔薇は一本も出てこない)。


 フォークナーの短篇は極北だが、リアリズムというわけではない。リアルなのは、父親に愛されて育った娘が、自然過程によって別の若い男に心を移す、『ピカデリー7時』の方だ。清純そのものの美少女リリアは、すでにの目を盗んで恋人と待ち合わせるまでに成長している。「最愛の娘よ しあわせに わたしは遠くよりふたりのしあわせをいのる」という偽手紙で、父の敗北を完全なものにするエドガーだが、もともと、発端の、ポリスター卿宛ての電文「アスツク ポーツネル」で、彼の死の原因を作ってしまってもいたのだ。エドガーたちを待って旅行が中止され、リリアはポールと会えなくなり、ポールの同僚ラッドとクックは、主人が不在のはずのポリスター邸に盗みに入ってリリアの父と鉢合わせする。持ち去られた黒いトランクを百ポンドで買うという、エドガー代行のポリスター卿のメッセージに、「朝7時ピカデリー」と、リリアと恋人のポールが新たに逢引を約した時刻でラッドが応じるのは偶然ではない(「それにしても7時とはね 偶然にもデートの時間」とエドガーはとぼけているが)。


 午前七時、ラッドが持って現れるポリスター卿の黒トランクは、彼の換喩であり、彼自身だ。エドガーがわざと警察に情報を与えたので、リリアは“おじさま”がそこに現れるとあらかじめ警部から言い含められる。ポールが現れ、ラッドに抱えられたトランクが現れ、そしてあとには、若い二人へのポリスター卿の許しのメッセージが残される。彼とともに消滅した目的地の地図を持たぬまま、黒いトランクとともに、彼の行先だった地方へ旅するエドガーたち。「なんのために」と問うアランに、「なんということもなく」とエドガーは応えるが、そんなことはあるまい。それに続く、「その黒いトランクは彼だよ 彼の墓標だ」という科白によって、タイトルとして掲げられた「ピカデリー7時」に何が起こったかを読者にはっきり知らせるためだ。そこは恋人との待ち合せの場所であると同時に、おじさまとの再会、そして別れの、時と場所でもあった。これはよく企まれた話である。


# by kaoruSZ | 2021-04-10 09:21 | 批評 | Comments(0)

(2020年6月4日−7月4日の連続ツイートhttps://mobile.twitter.com/kaoruSZ/status/1268404851332939776 に加筆)


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『瀕死の探偵』は、ホームズが現場へ出向いて調査するのではなく、自分の寝室にこもって、他人をあやつり、引き寄せる話である。まず、家主のハドスンさんが彼の衰弱ぶりに恐れをなしてワトスンを呼びに行く。診察を拒む探偵はワトスンに犯人(もちろんそうは言わない)の名を教え、自分を治療できる唯一の男だからと呼びに行かせる。

 

 その男カルヴァートン・スミスは嬉々としてやってくる。自分が送りつけた、仕掛けのある箱(ドイルが非ホームズものの海洋小説で使った、犯人がその場にいなくても済む凶器のミニチュア版)が功を奏したと信じて。殺人(未遂)現場は、ホームズの私室である。犯人は凶器を送ることで遠隔殺人を試みたが、結局はそこへ来ることになるのだ。


 これ以前にスミスが、ホームズの調査と関心の対象となる事件を起こしていることは言うまでもない。財産横領のための甥殺しを、グラナダTV版はいとこ殺しに変え、別の短篇『唇のねじれた男』を巧みに(と脚本家は思っていよう)取り込んだ。しかも『唇のねじれた男』の目立つ要素(例の乞食道楽)を排する一方で、導入部の、メアリの友人の夫の悪徳――阿片吸引――をそのまま被害者ヴィクター・サヴェジに与えている。


 そもそも『唇のねじれた男』の「阿片窟から戻らぬ夫」は、その名を言えぬもう一つの悪徳を指し示すとともに、メアリから見れば友人の夫は馬車に乗せられ戻ってきたが、自分の夫は阿片窟にいたホームズと一緒に〈冒険〉に出てしまったのだから、何気ない導入部に見せかけて登場する悪に染まった夫とは、ワトスンの秘められた正体であり、その外在化なのだ。


 グラナダ版『瀕死の探偵』の、銀行家の夫の行状に苦しむサヴェジ夫人は、彼を悪徳に誘い込んだのはカルヴァートン・スミスだと初っ端から明言する。しかも夫は詩人になるという夢を捨てられずにおり、阿片が芸術的創造力を高めると信じているという。それは初めのうちだけでしょうと言う夫人に、その通りで、酷い禁断症状が残るだけだとワトスンが応じるのには微笑をそそられる。なぜなら、ワトスンこそ、文学を諦めて家庭と正業を持つことにした(『四つの署名』を精読すれば解ることだ)小説家志望者であるのに、まるで他人事(ひとごと)のようにそう言っているからで、グラナダ製作者はこのあたりかなり読めていたのだろう。もちろんエドワード・ハードウィックのワトスンは、結婚も、妻との死別も経験することなく、なんとなく開業医のふり(と作家のふり)をしながらホームズといるのだからそんな話とは無関係で、この回でも、『瀕死』の設定は彼らが同居していたのでは成り立たないからという理由で別居しているとしか思えない。


 ちなみにホームズに誘われるまま出かけてしまった『唇のねじれた男』のワトスンは、ついにはもっと遠いところへ二人で出発してしまってメアリに捜索願を出されることになるのだし、そこから帰ってはじめて、自分にとって本質的な創作を開始するのである。 


 関連する過去の私たちのツイートを以下に引いておこう。


鈴木薫@kaoruSZ · 20141228

誰もが知るとおり『唇のねじれた男』は二重のアイデンティティをめぐる話であり、メイクアップと濡れスポンジで二つの身分を行き来できるジキルとハイドのお手軽版である。見かけよりもずっと陰惨な話であることはここでは触れないでおくが、スティーヴンスンの小説とも、同様に先行作品である『ドリアン・グレイの肖像』とも共通するのは名を言わぬ悪徳の正体で今となってはドイル以上にワイルドがあからさまだったという事はない。醜悪な乞食と入れ替りに姿を消したセントクレアのより深刻な罪は、ワトスンが阿片窟を訪れる口実であるメアリの友人の夫のエピソードに移し変えられている。


2014125

まあ、drugsは同性愛の隠喩だったり置き換えだったり代用だったりもしますし。グラナダTV版ホームズの『瀕死の探偵』は、そこ完全にわかっていて、表題作に『唇のねじれた男』の併せ技やってた。


tatarskiy@black_tatarskiy· 2014921

昨夜のグラナダ「瀕死の探偵」私の見た範囲では「サセックスの吸血鬼」に次ぐホモ話だった。犯人がホームズの同類であることがダブルミーニングで示唆されていたのも同じ。「唇のねじれた男」からとった阿片窟ネタが混ぜてあったが、これが男色を示唆する二重の悪徳であるのは原作のそれと同じ。


原作の「瀕死の探偵」におけるホームズとワトスンの緊密な関係性を示す感情の昂ぶりや例の隠れ場所(寝台の下!)に示される物理的な距離の近さを例によって検閲した代わりに、事件の当事者たちの関係性(今回は被害者の銀行家と犯人であるその従兄)にホモエロティシズムを転嫁しつつ、ホームズに犯人として同類を狩らせることで、彼を正常な社会の守護者として位置づけつつ結局は抑圧と自己否定に陥らせる、というグラナダ版ホモ話のセオリー通りのいつものやり方だった(マジでこのやり口はジェレミーの命を縮めたと思うよ)ホームズが解決しても嬉しくなさそうなのも当然。


ちなみに私の見たエドワトに交代以降の範囲では「プライオリ・スクール」「恐喝王ミルヴァートン」「サセックスの吸血鬼」の3つが同様のグラナダ名物「めっちゃ後味悪い抑鬱ホモ話」なので再見する方は要注目。このシリーズそのものがジェレミー氏の命を啜って成り立っていた吸血鬼みたいなものだろう


 tatarskiyさんがダブルミーニングと言っているもののもう一つは、いうまでもなく、スミスもホームズもそれぞれの業界で「アマチュア」で、異端で、疎外されていることだ。この点の、原作にはない強調からは、グラナダ製作者が意識的にそうしたことがはっきり見てとれる。


 物理的な距離の近さといえば、グラナダ版でホームズが自分の病気がうつるから「近づくな」と言う台詞が、“Keep your distance”だった。なるほどこう使うのか、ディスタンス。二時間に引き延ばした、ラヴクラフトをくっつけたみたいなグラナダオリジナル『サセックスの吸血鬼』でも、退屈しかけたところで、突然ワトスンの口からiInfluenza epidemicという語が出たので、はっとして画面を注視したが、全く、意味なくタイムリーになってしまって……

 

 しかし、呼びつけておきながら距離をゼロにする直接の接触(診察という名目の)はあくまで拒む(感染という口実で)、この台詞は興味深い。「ベッドの下(!)」とは「ベッドの上」より、ある意味、さらにあからさまでさえあるが、原文を確認すると、ホームズがワトスンに隠れ場所として指定したのは、正確にはbehind the head of my bedで、ワトスンならずともMy dear Holmes!と呟きたくなろうが、どういう恰好でその隙間に収まったのか、まるでデリダが見つけて本に載せている絵葉書の、椅子を隔てて重なり合うソクラテスとプラトンではないか。


『瀕死の探偵』は、原作では実にコンパクトにホームズがワトスンに種明かしをして終るのだが、そこでは瀕死を装う方法は、三日絶食した以外は“there is nothing which a sponge may not cure”だと言っている。つまり、ドイル自身、ここで明らかに、ホームズがセントクレアの乞食メイクを濡れたスポンジの一拭きでぬぐい取る『唇のねじれた男』に言及していたのであり、グラナダ版の“加筆“はそれに応えた、原作にいっそう忠実なものだということになろう。また、ホームズが病気をもらってきた(と称する)のはイーストエンドのクーリーからということになっており、この舞台も『唇のねじれた男』と一致する。さらに、譫妄を装っての、海の底の牡蠣に関する探偵のうわごとも、読み返してみたらけっして無意味ではなかった。


“No doubt there are natural enemies which limit the increase of the creatures. ” 牡蠣の増殖を抑える天敵が存在する、とホームズは言うのだが、阿片窟でワトスンに出会った時の彼の言葉が、まさしく、「こっちは天敵を探しに来ている」だったではないか。


 そうなるとグラナダ版の、サヴェジ邸の食卓での、ある男性の発言――「ホームズさんにも敵がいるでしょう」に始まり、その敵の捜索がベッドまで行く(?)とか言って同席者に遮られる――のも明らかに意識的な『唇のねじれた男』への言及だとわかるが、このあたりはもう一度見てみないと不明なので宿題にしたい。もう一つ、(これも見返す必要があるが)ホームズがベッドで自分を巣の中心にいる蜘蛛に譬えていたような気がするのだが、記憶違いでなければ、そうなるとここでホームズは自分をまさしく「天敵」モリアーティに譬えていることになる。(モリアーティは『最後の事件』の時点ではすでに死んでおり、どこまでも追ってくるモリアーティとは、『最後の事件』の真相を隠しつつ顕すためのワトスンの創作であるとすでに私たちは読み解いている。大陸からロンドン警視庁に電報を打って、手入れは成功したがモリアーティは逃がしたなんて返電が来るわけないでしょう、もしもモリアーティが彼らを追って大陸に渡り、すでに彼らの間近に迫っていたのなら)。友人と天敵自己と他者の境界は、時として極めて曖昧なのである。


 老人に身をやつして阿片窟に潜入していたホームズに「僕は友人を探しに来た」とワトスンは言い、「僕は天敵の一人を探しに来た」と返されるのだが、グラナダ版『瀕死の探偵』は、原作では禿げて脂ぎった二重顎の背中の曲った小男と描写されるスミスを、長身のダンディ、従弟に対する悪魔的誘惑者にして、そのけじめをますます危うくしている。それはつねに敵として現れる同類を滅ぼす仕事しか与えられない悲劇的なブレットが、本来担うべき役割であった。


 イーストエンドの波止場で中国人船員からうつされた東洋の奇妙な病気と言えば、またしてもアクチュアルなリファレンスを持ってしまいそうだが、この病気は武漢から来たのではなく、リチャード・バートンのいわゆる男色帯や、ビエール・ロチの小説や、ドイル自身の短篇にもある幻想の日本から来たのであり、阿片の誘惑とともにコールリッジやボードレールと結びつく。それに対置されるのは、健全で正常な家庭生活だ。夫の死によって相続権を失い、屋敷をスミスに明け渡さねばならなくなったサヴェジ夫人と幼い二人の遺児のためにホームズの仕事があるところが、グラナダ版の、原作との大きな違いである。   

                             

 グラナダ版『唇のねじれた男』はハッピーエンドだが、もちろん(ここでは説明しないが)本当の話がそのように終ったはずはない。『瀕死の探偵』のラストは、取り戻された屋敷の広い芝生で、夫は失ったが(『唇のねじれた男』のジョン・セントクレアの運命も多分同じである)娘と息子が残された美しいサヴェジ夫人が、ホームズとワトスンを迎えてくつろぐシーンだ。ワトスンに促されてホームズにお礼を言う娘(tatarskiyさんが言うように、ホームズはけっして嬉しそうな顔はしていない)。原作はどうかと言えば、まずこの一家がいないのだからもちろんこんな場面はないし、すべてが芝居だったことを知り、安堵しながらも怒り心頭のハドスンさんがプンプンしながらホームズにお給仕するあの愛すべき場面もありはしない。健全な家庭と規範の回復で終るわけではない原作の『瀕死の探偵』では、断食を癒すのは母親代りのハドスンさんの料理ではなく、ホームズはいかにも独身者らしく、行きつけの「シンプソンズ」での食事にワトスンを誘うのである。


 グラナダ版『瀕死の探偵』の加害者と被害者の関係は、もう一組のホームズとワトスンとして彼らの関係を外在化したものに他ならない。規範からの麻薬/同性愛による逸脱は、もともと『唇のねじれた男』にあったもので、イーストエンド、スポンジ、東洋、天敵といった細部によって後者に目配せしている。


 原作のカルヴァートン・スミスの外見は、セントクレアの仮装同様、抑圧された悪としてのハイド氏の醜さを継承するものだろう。また、彼はスマトラの農場主だが、ここはアンダマン諸島、つまり、例のやはり醜悪さが強調されるトンガの故郷とも近い。ついでに言えばポーの動物犯人もこのあたりの出である。


 動物を同伴した東洋からの帰還者は、オランウータンを連れた船員にはじまって、ドイルではマングースを連れた「曲がった男」や、小人のトンガを連れた義足の男となったが、カルヴァートン・スミスはといえば、禿げ上がった大きな頭の片側にスモーキング・キャップをのせて、ワトスンが驚いたことには、子供の時「くる病」にでも罹ったように肩と腰が曲がっている彼自身が、小人であり曲がった男であり、両者を一身に兼ねているのだ。

 

 であれば、原作のホームズもまた、ハイドに比すべき隠された自己を、死にかけのゾンビメイクで表現しつつ、最後にはワトスンをベッドの下に隠して、ほとんど〈秘密〉と一体化するに至ったのだろう。


 ついでに言うと、『ライオンのたてがみ』における、図鑑による犯人同定は、T・S・エリオットに博物学の蘊蓄は推理ではないと腐されたが、実はホームズはすでに『四つの署名』で本棚から地誌を取り出し、アンダマン島人についての記述をワトスンに読んで聞かせている。また、ポーの『モルグ街の殺人』でも、犯人についての記述を、語り手はデュパンから渡された生物学者キュヴィエの記事で読み、黄褐色の体毛と指の痕という、語り手自らこれは人間のものではないと断言した特徴の持主を同定することになるのだから、彼らは皆、同じ身ぶりで、鞭の痕のような傷や、毒針や、異常に小さな足跡などを読み解いているのだ。


『モルグ街の殺人』まで遡って読み返さなければと思ってあれから読んだのだが、発見したことをまとめるひまがないまま日が経ち、今度は、直接の影響が歴然としている『這う人』に目を通したところ、これまたメモしておくべきことが多すぎた。高所からの出入りが一見密室を形成していたという点がポーと『四つの署名』で共通し、『這う人』では、蔦(『モルグ街』では避雷針)を上って高窓に至るのがポーからの明らかな引用なのはわかっていたが、忘れていたのは、博物学的な同定がここでも行われていたことだ。教授の秘密の箱から出てきた手紙に、ラングールという猿の一種の名があり、教授の娘の婚約者ベネット君はすぐさま棚から動物学の本を取り出して“the great black-faced monkey of the Himalayan slopes“と読み上げる。“it is very clear that we have traced the evil to its source.” 今ならたちまちネット検索できるし、実際、邪悪の根源の猿の黒い顔まで見られたが、むろんこれは濡れ衣である

 

 ベネット君が手を触れかけて教授が激怒したことのある小さな箱(『瀕死の探偵』と非ホームズものの『漆塗りの箱』にも、共通する細部がある)は、littleと言い条結構大きかったようで、空の薬瓶、中身の入っている注射器、外国からの手紙と、証拠一式が揃っている。注射器は、グラナダ版でああも繰り返しホームズの抽斗に入っているのを見せられたあとでは、見る者をはっとさせずにはいまい(原作では帰還以降のホームズはコカインをやめているから、ここは間違っているというか、そもそもグラナダ版ではホームズとワトスンの関係に歴史がないのでそうするしかなかったのだ)が、要するに平常人と異なる彼が倦怠を紛らすための麻薬であり、教授の醜態からもわかるように、ジキル博士の発見した、醜い猿ハイドへの変身薬でもある。プラハからの手紙には、別の意味ではっとさせられた。東欧への旅行とそれに続く文通とは、ドイルからラヴクラフトへの直接的な影響を示す証拠と思われるからだ。


 グラナダ版『サセックスの吸血鬼』は、原作に全く関係なくラヴクラフトの『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』を持ち込んだ上、同じくグラナダ製『プライオリ・スクール』をなぞって兄弟のうち兄を転落死させ、良い出来とは言い難かったが、ラヴクラフト自身は、『這う人』から確実に影響されていよう。さらに、ガウン姿で蔦に覆われた外壁を登るムササビめいた教授の姿は蝙蝠にたとえられており、積極的に吸血鬼への変身をなぞっている。


(ドイルとラヴクラフトの関係については、以前モーメンhttps://mobile.twitter.com/i/events/1063188959327481856 にまとめた中にもあるので参照されたい。)


 さらに、『這う人』の結末の犬は、まさしく『バスカヴィル家の犬』の自己引用だ。前にも書いたが、『犬』のサー・ヘンリーの喉からそれていた牙は、ブラム・ストーカーのホモエロティシズム漂う短篇『ドラキュラの客』から直接来ていよう(これについては「シャーロック・ホームズと桃の缶詰ーー『バスカヴィル家の犬』公的読解私的小史」と題したモーメントhttps://twitter.com/i/events/1264655233499553792 に言及あり)。また、飼犬に噛まれて死んだも同然になる父親はぶな屋敷にもいたし、犬にではないが動物に噛みつかれる父親としてはロイロット博士がいて、『這う人』の教授同様、娘の結婚を控えていた。教授の若い婚約者とは、ほとんど実の娘のアリバイにしか思えず、『ぶな屋敷』の父も娘の結婚を阻止しようとしていたのだった。


 ホームズものの晩期作品全般について言えることだが、あれらは表面の謎解きではなく(あるいはそれと絡んだ)、こうしたセルフパロディをこそ読み解くべき作品だろう。


 なお、原作では名前だけの婚約者がグラナダ版には登場して、教授に面と向かってあなたは私には歳を取り過ぎていると残酷なことを言ったり、若返りの血清を提供する猿どもがロンドンに連れてこられていたりと、原作では一人も出てこないのにグラナダ版では視界を満たすプライオリ・スクールの少年たち同様、無駄に画面を賑やかにしている。


2

 ところで、これから『モルグ街』を読み返すとtatarskiyさんに伝えた際に二つお題をもらった。「あの猿は何なの?」と、「なぜ被害者は老女とその娘で、たとえば夫婦ではないのか」である。ホームズに言われてダートムアへ調査に行くワトスンのように読みはじめた


 その前に一つ気づいたことがあるので書いておく。グラナダ版でホームズが抽斗に注射器を入れているのをワトスンが発見というのを何度も見せられた(おまけに、『這う人』を読んだらまた注射器が出てきた)せいで気づいたというべきなのだが、帰還以降、ホームズが抽斗に入れているはずのものは言うまでもなく注射器ではない。


『モルグ街の殺人』を読み返したら、語り手が、デュパンのような人との交際は自分にとってa treasure beyond priceになると思ったと言っているのに出会ったが、このあとに続くのは、落魄した貴種であるデュパンのために、費用は語り手持ちで古びた館を借り、二人の好みの内装にして同居することにしたという記述である。周知の通り、帰還したホームズは手を回してワトスンの自宅兼診療所を買い取らせ、彼をベイカー街に連れ戻すことになる。なにしろ後にさりげなくワトスンが洩らすには、診療所を破格値で買ったのはホームズの遠縁で、しかもその金はホームズから出ていたのだから、まさしくhis treasure of beyond priceのためにホームズが出費を惜しまなかったことがわかる。ドイルが、例の本題に入る前の余談と見せかけた記述で教えてくれるところでは、ワトスンの小切手帳はホームズの抽斗に入っており、その鍵はホームズが持っている。下宿代を折半するという散文的な理由で同居をはじめたホームズとワトスンだが、回り道のあげく、探偵と書き手のポジションは逆ながら、先達に追いつくことになったのだ。


 デュパンの経済的に優位な友人が彼を囲っていたように、ホームズも帰ったあとは、取り戻したワトスンを囲っている(職業作家となったワトスンは当然ながらドイルと同等の人気作家になり、やがて小切手帳に頼る必要はなくなったであろうが)。これが帰還以降、ホームズがコカインをやらなくなり、抽斗に注射器の入っていたはずがない理由である。


『モルグ街の殺人』に話を戻すと、被害者がなぜ女なのかはすぐにわかった。事件の際、駆けつけた人たちは室内から二種類の声を聞いている。一人は男で、フランス語を話していた。そしてもう一つは……もし、襲われたのが夫婦なら、フランス語の男の声には、被害者の一人である可能性が生じてしまう。それを排除するために被害者は女とされたのだ。女ではない男(man)の声と、男か女かわからない、人間(man)であることさえ不確かな声。この曖昧な声と対照的な、分節されたフランス語を話す声が絶対的に必要とされた理由も明らかだ。彼は唯一の目撃者(他の証人はドアの外から聞いただけ)であり、行為者が証言できない以上、起こったことは彼の口から語られる以外にないからだ。


 この犯人について、私はイノセントであるのを確信した。もちろん、残虐な行為はかれ(本来男女の区別のなかったこの日本語を用いることにしよう)がやったものであるが、それらはすべて主人の動作を「猿真似」した、結果として引き起こされたものでしかない。しばしば行われていることだが、かれをキングコングに繋げるのは、どう見ても不当だろう。女たちの殺され方に性的な象徴を読み取ろううとするマリー・ボナパルト以来の試みにもかかわらず、この犯人、いや猿はイノセントだ。かれは人間の女に性的な攻撃を仕掛ける擬人化の外にいる。また、交換価値の外にもいるから、室内の金貨を持ち去ったりしないし、責任能力がないので、罰せられることもない。経済的な優位に基づいてデュパンを囲っている語り手や、最後にはかれをパリ植物園附属動物園に「高く売る」ことになる所有者と違って、かれはイノセントなのである。以上で、あの猿は何なのかという問いにも答えたことになろうか。


 再び、「瀕死の」ホームズとカルヴァートン・スミスが対決している、あの寝室に戻ってみよう。『モルグ街』を再読して気がついたのは、動物の所有者である船員が、文字通り目撃者として現場に召喚されていたことだ。一方、ドアの外の証人は、全員が「聞えたもの」について証言している。『瀕死の探偵』のワトスンもまた、耳に特化された特異な証人である。ホームズのベッドの頭板の後ろ(と言えばいいのだろうか)に隠れて、ホームズと二人きりだとスミスに信じさせつつその話を聞き取る使命を負わされたワトスンは、その場にいながら、何が起こっているか見ることはできず、純粋な耳になっているからだ(この点、グラナダ版は、カーテンの蔭という、より伝統的で穏当な立ち聞きの場を彼に用意していた)。


犯行の一部始終を語った上、それとは知らず明りを点して下の通りで待機する警察に合図までしたスミスは、罠だったと知ると態度を一変させて叫び出す。被告席に行くのはホームズの方だ、自分は呼ばれて病気を治してやろうと来ただけであり、探偵の言葉は病的な嘘で、自分たち二人の証言の価値は同等だと。この分身ぶりは興味深い。『這う人』で教授を訪ねたホームズが、何の用かと問われて、自分もそう訊こうとしたところだと、まるで相手から呼ばれたためにやってきたかのように振舞うくだりを読んだばかりであればなおさら――


『這う人』でプラハからプロスベリー教授へ送られ、薬瓶や注射器とともに箱の中から見つかった手紙の差出人ローウェンスタイン博士は、その研究が同業者から受け入れらない学者だとワトスンによって同定されるが、グラナダ版がスミスに与えたアマチュア(と専門家から見なされる)科学者という属性には、これのこだまが聞き取れよう。


 このホームズのnatural enemy(にして同類)の一人、本来ならイーストエンドの阿片窟かそれに類する場所で見つかるはずがベイカー街までおびき寄せられ、通常はホームズが推理の結果として語るはずの犯行の詳細を探偵に代って自ら語った男は、警察に合図を送る役までホームズに代って実行した上、“Is there any other little service that I can do you, my friend? ”と、彼がホームズのenemyでなく、friendであることまで明かしている。


 むろんこれは皮肉で、直後にホームズの変容ぶりに言葉を失ったスミスの前で、“Do I hear the step of a friend?” とホームズが言うように、真の友人であるモートン警部と部下たちが踏み込んでくるのだが、これは表の筋であって、ホームズの同類がスミスであることは変らない。『モルグ街』の、動物と人間のペア――イノセントなオランウータンとその飼い主――が、互いに互いの真似をする(類人猿は主人の行為をまねて剃刀を振るい、船員は猿に倣って避雷針を上る)鏡像関係にあっただけなのに対し、同じ稀覯本を尋ねて秘められた場所で出会い、同じデカダン趣味の閉ざされた室内で闇の中に生き、パリの夜をさまよい歩くもう一つのペアが、ガチで同類なのと同じように。


 ところで、合図を送って警官たちを中へ引き入れ、犯人を捕えさせるというこの場面に見覚えはないだろうか。部屋は一階で警部はおなじみレストレードだったが、あの時も罠を仕掛けて、獲物を誘い出したのだ。そう、『空家の冒険』でモランを捕まえた時である。そこから、他の要素も思い合わせて、私は『モルグ街の殺人』を読み返す以前に、この連続ツイートをどう終らせるかだいたい見当をつけていた。『這う人』で蔦をつたって三階の窓に至るのは、二階の自室でドアに鍵をかけたまま拳銃の弾丸を頭に撃ち込まれて殺されていたロナルド・アデアの、窓の真下のクロッカスの花壇が全く踏み荒らされていないために外からの侵入が否定されるーー言うまでもなくこれは『モルグ街』のヴァリエーションだーー『空家の冒険』の裏返しだ。外部から室内を拳銃で狙い撃ちするのは不可能と思われた、その距離をゼロにするものがあったわけで、そしてホームズがワトスンに警告する例の “Keep your distance“でも判るように、『瀕死の探偵』は「距離を取ること」を主要なモチーフとして持っている。


『モルグ街』への回り道のあと、昨日ようやく『空家の冒険』を読み返した。すると――やはり記憶に頼らず現場[テクスト]をこの目で見るべきなのだ――『瀕死の探偵』が『空家』の反復であることを示す証拠が新たに二つ見つかった。


 その一。向かいの空家から221Bの窓を撃ち抜き、胸像の頭を粉砕したモランを引っ立ててゆくレストレードが、どういう罪で告発するのかとホームズに訊かれ、「もちろんシャーロック・ホームズ氏殺害未遂[the attempted murder]です」と答えるが、これは『瀕死の探偵』でモートン警部が、スミスにサヴェジ殺害の罪で逮捕すると宣言した時、シャーロック・ホームズ殺害未遂を加えることもできるよとホームズが笑いながら言うのと、ほとんど同じ台詞である。『空家』のホームズは、自分の名は出すな、栄誉はすべて君のものだと言って、逮捕された男はアデア殺しの犯人だと明かし、レストレードを驚かせる。


また、ホームズは、モランの特製の空気銃の標的とされることがわかっていたからロンドンには帰れなかった、かといってこちらから彼を撃てば被告席に着くのは自分の方だったとワトスンに言うが、『瀕死の探偵』では先に引いたようにスミスの方が、被告席へ行くのはホームズの方だと言い立てていた。(その二)


 これらはどう見ても先行する『空家』(時間的には後だが)との類似を読み取らせるため、わざわざ書き込まれたものである。これはいわゆる焼き直しではない。『空家』では成就されたものが、ワトスンの結婚二年目の『瀕死の探偵』では未遂に終った、その設定で、あらためて過去の話として書いたのだ。


アデア殺しをモランの仕業と知ってホームズがロンドンに戻ったとは、言うまでもなくドイルワトスンの作り話である。ホームズの帰還の理由はメアリの死以外にありえず、それに対してホームズが言葉でなく態度でワトスンにいたわりを示したなどというのも、ホームズをあまりにも人間味を欠いた異常な人物と読者に思わせまいというドイルワトスンの配慮であり、実際にはホームズはそんな態度は微塵も見せぬばかりか、二人の間でメアリの名が口にされることさえなかったろう(そもそもどう話題にしたらいいのか)。アデア殺しに相当する事件はあったろうし、モランのモデルもいたが、凶器は非現実的な特製空気銃ではなかったろう。レストレードがこの件でホームズと接触することはなく、たぶんスコットランドヤードは自力で事件を解決している。ワトスンが独り身になったと知って戻ってくるホームズに、そんなことにかかずりあっている暇がどうしてあったろう。


 だからホームズの呼子に応えて空家に入ってくるレストレードと配下はいなかった。取り押えられたモランもいなかった。そもそも事件の舞台はその家ではありえなかった。向かいの家は終始empty houseのままで、裏門から入ってゆくホームズとワトスンも、銃を組み立てて胸像とは知らずに狙うモランも、当の胸像も、跪いてそれを動かすハドスン夫人も存在しなかった。それらは皆、ホームズが空家の窓辺で、そこから見上げるようワトスンをうながしつつ、懐しい彼らの部屋を指して言った文句――the starting-point of so many of your little fairy-tales――にあるように、ワトスンの little fairy-talesを成立させるための細部だったのだし、そうやって再会した彼らが空家で語らっていること自体、そのお伽噺の一部だったのだ(そもそもホームズが死んだと信じて一人戻ってきたワトスンが書きはじめた短編連作の第一話は、ある夜、ベイカー街を通りかかって懐しい窓を見上げた彼が、そこにホームズの影を認めるところからはじまっていたではないか)。

                                      は では何が実際にはあったのか。fairy-taleに加工される前の、その四月の宵に本当に起こったこととは何なのか。解読される可能性がいかに低かろうと、手がかりは配置され、読み取られるのを百年以上待っている。『モルグ街の殺人』のエピグラフの言う、セイレーンはどんな歌をうたったか、アキレウスが女たちの中に隠れていた時にどんな名前を使ったかという問い同様、それはけっして解けない謎というわけではない。

 

 むろんその午後、ホームズが三年ぶりにワトスンの前に――古本屋の老人としてではなく――姿をあらわしたのは本当だ(古本屋老人と彼の書物については既述なのでこちらのモーメントhttps://twitter.com/i/events/1266130497844830208の最初のほうを参照されたい)。彼はワトスンを驚かした――昔、治安判事の老人が、息子が連れてきた恋人である青年に、「過去の恋人の幽霊」をそうとは知らず暴き出されて失神した時のように。

 

 その夜、彼らが馬車に乗ったのは、『唇のねじれた男』で、阿片窟を出たホームズの指笛に応えて、闇を貫く二つの明りとともに出現した馬車による短い旅の、反復であり、続きであった。彼らはベイカー街221の向かいの家に裏から入ったとされる。そこがどこか気づいたワトスンに、「なぜここへ」と問われ、「あの絵になる建物を見るのにうってつけの場所だからさ」(“Because it commands so excellent a view of that picturesque pile.)とホームズは答える。最上の観客席に案内されたと信じるワトスンと読者が見る、黄色く照らし出されたブラインドに浮かぶホームズの黒いシルエットは、モランを引き寄せる囮であると同時に、読者の目を惹きつけるべく用意された、プラトンの洞窟の壁の影でもある。


「ホームズの完全な複製」に驚いたワトスンは手を伸ばし、傍にホームズがいるのを確かめる。これは、その前にワトスンが不意に書斎に現れたホームズを前に気絶したあと、我に返ってその腕を摑み、「本当に君なのか」と叫ぶくだりの繰り返しである。「もう一度袖を摑むと、その下に細い筋張った腕が感じられた」「なんにしても幽霊ではないようだ」そうやって書斎で確認したホームズの身体をワトスンは、ここであらためて確かめ直しているのだ。しかもこれに先立ち、建物に入った時は「ホームズの冷たいほっそりした指が私の手首を堅く摑んで」奥へと導き、通りに面した部屋まで来るとホームズは、「私の肩に手を置いて耳元に唇を近づけている。つまり、のっけから“Keep your distance”を警告される『瀕死の探偵』と対照的に、『空家』での二人は、終始、過剰なまでに触れあっている。ワトスンが書斎で気を失ってホームズに介抱された時、『瀕死の探偵』のあの接触の禁止はあらかじめ帳消しにされていたのだし、その後も惜しみなく補償されつづけたと言うべきだろう。

 

 この一連の接触は、ベイカー街に人が賑やかに往来する宵の時間を、ポーの『群集の人』を思わせる観察者観客として過したあと、通りの人影も物音も絶えた中、ホームズがワトスンの口をいきなり手でふさぎ、部屋の隅の一番暗いところに引きずり込む時、最高潮に達する。「私を摑んだ指は震えていた。彼がこんなに昂奮しているのははじめてだった。しかし前の暗い通りでは、相変らず何も起こっていなかった」

 

 これはもちろんホームズが相方より鋭い感覚での接近に気づいたからだ(とされている)。それは、窓の外の人気のない街路という舞台では起らなかった。は彼らと同じく建物の裏から入り、同じ廊下を抜けて、街路に面した部屋という同じ空間に到達した。“the blackest corner of the room“に身を潜めた彼らが見るのは、開いたドアの黒さより黒い曖昧な影(the vague outline of a man, a shade blacker than the blackness of the open door)であり、一方、標的は明るいブラインドを地にくっきりと浮かぶ黒い影“hard black outline/the black man on the yellow ground”だ。


 窓を押し上げて屈み込み、直接街燈の光を受けた男の目は昂奮に輝き、顔はひくひくしている。『瀕死の探偵』のスミス同様、おびき寄せられた悪人はここでもホームズの分身であり、ホームズとスミスの寝室での対決と似たものが、ただしここではモランが我を忘れて注視する黄色地に浮かぶ黒い影という囮との間で起こっているのだ。

 

 街燈に剝き出しの顔をさらしつつ窓を押し上げた隙間から、黒い囮へ銃を突き出し、対象との距離を消滅させんとするモラン。影に沈んだ観客席から、その瞬間を目撃するホームズとワトスン。奇態な武器という点では、スミスが送ってきた、針が手に突き刺さるびっくり箱も、拳銃の弾を発射する空気銃も似たようなもので、スミスの箱も距離を廃棄するリモート犯罪の小道具だった。どちらの犯人もその方法で成功しており、今度はホームズに同じ手口を使おうとしていた。ベイカー街のホームズの部屋と空家とに、ホームズ、ワトスン、犯人の三者がそれぞれのやり方で配置された『瀕死の探偵』と『空家』とは、やはり、一見それと気づかれないが実は双子の関係にある。しかし、すでに述べたように『空家の冒険』は、そのpicturesqueな道具立ての実在が全面的に疑われる代物だ。

 

 あの深淵からどうやって生きて戻れたのかと、再会したホームズにワトスンは尋ねる。ホームズの答えは簡単明瞭だ。“ I had no serious difficulty in getting out of it, for the very simple reason that I never was in it.”そもそも落ちてないから、そこから出てくるのは別に難しくなかったよ。そして、モリアーティがどうなったか、実はあの時岩棚の上にはモランがいて等々と長広舌が続くが、すでに真実を読み取ってしまった者としては、「落ちてない」のついでに、モリアーティなんてそこには最初からいなかったのだから、崖の上での立ち回り云々も、岩棚の上からの攻撃も、切り立つ崖の昇り降りもあるわけがなく、そもそも僕たちがどこへ行こうと逃げられなかったのは、ヤードに問い合わせの電報を打ったら捜索願を出されていると返電が来た、君の奥さんからだけじゃないかとシンプルに答えてほしくなるが、むろん作家としての(登場人物ではない)ワトスンはそんなことは百も承知で小説を書いているのだ。

 

 この時はじめて読者に紹介されるセバスティアン・モラン大佐については、このあと、昔馴染みの居間に場所を移して、ホームズから説明される。棚の人名録をワトスンに取らせたホームズはページをめくり、Mの項からモランの記事を見つけてワトスンに手渡す――と、これはもう完全に『モルグ街』のデュパンにはじまる一連の身ぶりの反復で、『四つの署名』『ライオンのたてがみ』『這う人』と繰り返される、博物学的同定をやっているのだ。『這う人』のラングールはHymalayan slopesに生息していたが、モランにはHeavy Game of the Western Himalayas『ヒマラヤの猛獣狩』なる著書があり(と人名録に書かれている)、ここでも地理的近接性が見てとれる。モランは虎狩りのハンターだが、「このおあつらえむきの避難所からは、監視者が監視され、追跡者が追跡される。あの痩せた影[胸像]は囮で、私たちがハンターなのだった」とワトスンが言うように、モラン自身が獲物でもあり、実際、捕まった時の彼は「荒々しい目と逆立った口髭で虎そっくり」と描写される。


 ところで、先ほどの博物誌による同定のリストに共通するものは、それが全く信用がおけない、実際には存在しない、架空の生物のいかがわしい記述だということだ。オランウータンは狂暴な動物ではなく、アンダマン島人への見方は偏見に基づくもので、そこまで危険で怪物的なクラゲはおらず、ラングールの血清は回春薬にはならない(詳細は略すが実はアイリーン・アドラーもここに入る)――そして間違いなくモランについてもそううなのだ。モランは物語の辻褄合せのために、突然、ライヘンバッハの岩棚の上に置かれ、空家に出現させられたが、実際にはモリアーティとは出会ったことすらあるまい――ただ、ホームズが開いてワトスンに渡す人名録のMの項以外では。


 そしてモランが、黄色く照らし出されたブラインドに浮かぶ黒い囮を射抜いた瞬間、「ホームズは射撃手の背中に虎のように飛びかかった」というシンプルな比喩は、モランがホームズの分身――『瀕死の探偵』のスミスのような――であることを端的に表現していよう。


the blackest corner of the room

the vague outline of a man

a shade blacker than the blackness of the open door

hard, black outline

the black man on the yellow ground

すでに引いた断片だが、『空家』の待ち伏せの場でのblacknessの濃さがただごとでないのに、今回原文を見て気がついた。黄色地に鮮やかに浮かぶ影が分身と判明したからには、これはどうしてもアレと比較してみなければなるまい。このように、ひと色の背景にくっきりと浮かぶ人影を見る場面が、ホームズものにはもう一箇所ある。実は自分で八年前にそのくだりについて以下のように書いていた。


“ワトスンがこの時「麓のあたりまで降つてから見かえ」るともう滝は見えず、「山のいただきあたりに滝へゆく道がうねうねとうねつているのだけが見える」。その道を「ひどく急いでゆく男があつた。その姿は緑のバックのなかに黒くはっきりと見えたのを思いだす」――黒くはっきりと見える幻。(…)“his black figure clearly outlined against the green behind him”とまるで切り抜いて緑の背景の上に置いたような「影」。

 

 自分で読み返して驚いた。black figureoutlineもすでに出ているではないか。(https://kaorusz.exblog.jp/19707256/ 『空家』のgroundが黄色であるのに対して、これは「緑のバック」だ。groundfigure、日本語では地と図になるが、「図」単独では黒いシルエットという感じはあまりしない。延原訳は日本語としては自然だが、現象としては不自然な気がして、それでこの時も原文を見たのだと思う。逆光で影になっているのでは、clearly outlinedとならないのではないかと思ったのだ。


 背後の緑が蔭にならずに見分けられるのなら、人間だけが、切り抜いた影のように真っ黒につぶれて見えるのは異様な感じだ。“影は「坂道をとぶように登つてゆく」が「まもなくそのことは忘れて、病人のことばかり考えながら道を急いだ」“――病人とは末期の結核のdying English lady、むろん偽手紙の中の虚構であり幻に過ぎないが、彼女がメアリの代理として、ホームズと滝へ飛び込むことからワトスンを救ったのは明白だ。そして滝の方角を振り向いたとき彼が見たのは、一緒に死ぬためホームズの下へ戻ってゆく彼自身の姿でなくてなんだろう。


一人戻ったワトスンは作家ー芸術家になり(グラナダ版のサヴェジがなれなかったものだ)、助けられなかったメアリを、フィクションの中に瀕死の英国婦人として書き込んだ。そして三年後、本当にメアリが死ぬとホームズは帰ってきた。ホームズを殺したことでストランド誌は大量の定期購読解約に見舞われたが、そのような素朴な読者を納得させる筋書になら、後付けで作られた人名録の記述でしかない(とはいえその命名には、ここには書かないが別の意味も隠されている)、モランが有効だったろう。しかしドイルーワトスンの真の才能は、表面上の物語に還元されない、メアリを麓で死にゆく英国婦人、〈私〉を山の上の滝へ急ぐモリアーティに置き換え、緑のgroundに黒いfigureの反復を、誰にでも見える場所に黄色のgroundに黒いfigureの標的として堂々と掲げて、誰にも気づかれないという、ポーのG大臣を地でゆく大胆な手際にあったのである。




今回連続ツイートをまとめるにあたって気づいたことを一つ。「死にかけている」と偽って人を引き寄せる手口なら、むろん先行作品にあったのだ。他でもない、ワトスンを麓の旅館へ戻らせた「瀕死の英国婦人」である。あの時の“成功“がその後三年間彼らを引き離すことになった。そして『空家』は彼らの距離がゼロになる話だった。『瀕死の探偵』は、『最後の事件』と同じ策略が成功する話であり、その結果はホームズとワトスンの、「ベッドとその後ろ」という奇妙な形での“再会“だ。妥協形成的な奇妙な実現であり、距離がゼロになることはなかった。表面上は成功裡に終る『瀕死の探偵』は、実は「失敗した『空家の事件』」と呼ぶべき一件であろう。


# by kaoruSZ | 2021-03-18 06:57 | 批評 | Comments(0)