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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

(2020年6月4日−7月4日の連続ツイートhttps://mobile.twitter.com/kaoruSZ/status/1268404851332939776 に加筆)


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『瀕死の探偵』は、ホームズが現場へ出向いて調査するのではなく、自分の寝室にこもって、他人をあやつり、引き寄せる話である。まず、家主のハドスンさんが彼の衰弱ぶりに恐れをなしてワトスンを呼びに行く。診察を拒む探偵はワトスンに犯人(もちろんそうは言わない)の名を教え、自分を治療できる唯一の男だからと呼びに行かせる。

 

 その男カルヴァートン・スミスは嬉々としてやってくる。自分が送りつけた、仕掛けのある箱(ドイルが非ホームズものの海洋小説で使った、犯人がその場にいなくても済む凶器のミニチュア版)が功を奏したと信じて。殺人(未遂)現場は、ホームズの私室である。犯人は凶器を送ることで遠隔殺人を試みたが、結局はそこへ来ることになるのだ。


 これ以前にスミスが、ホームズの調査と関心の対象となる事件を起こしていることは言うまでもない。財産横領のための甥殺しを、グラナダTV版はいとこ殺しに変え、別の短篇『唇のねじれた男』を巧みに(と脚本家は思っていよう)取り込んだ。しかも『唇のねじれた男』の目立つ要素(例の乞食道楽)を排する一方で、導入部の、メアリの友人の夫の悪徳――阿片吸引――をそのまま被害者ヴィクター・サヴェジに与えている。


 そもそも『唇のねじれた男』の「阿片窟から戻らぬ夫」は、その名を言えぬもう一つの悪徳を指し示すとともに、メアリから見れば友人の夫は馬車に乗せられ戻ってきたが、自分の夫は阿片窟にいたホームズと一緒に〈冒険〉に出てしまったのだから、何気ない導入部に見せかけて登場する悪に染まった夫とは、ワトスンの秘められた正体であり、その外在化なのだ。


 グラナダ版『瀕死の探偵』の、銀行家の夫の行状に苦しむサヴェジ夫人は、彼を悪徳に誘い込んだのはカルヴァートン・スミスだと初っ端から明言する。しかも夫は詩人になるという夢を捨てられずにおり、阿片が芸術的創造力を高めると信じているという。それは初めのうちだけでしょうと言う夫人に、その通りで、酷い禁断症状が残るだけだとワトスンが応じるのには微笑をそそられる。なぜなら、ワトスンこそ、文学を諦めて家庭と正業を持つことにした(『四つの署名』を精読すれば解ることだ)小説家志望者であるのに、まるで他人事(ひとごと)のようにそう言っているからで、グラナダ製作者はこのあたりかなり読めていたのだろう。もちろんエドワード・ハードウィックのワトスンは、結婚も、妻との死別も経験することなく、なんとなく開業医のふり(と作家のふり)をしながらホームズといるのだからそんな話とは無関係で、この回でも、『瀕死』の設定は彼らが同居していたのでは成り立たないからという理由で別居しているとしか思えない。


 ちなみにホームズに誘われるまま出かけてしまった『唇のねじれた男』のワトスンは、ついにはもっと遠いところへ二人で出発してしまってメアリに捜索願を出されることになるのだし、そこから帰ってはじめて、自分にとって本質的な創作を開始するのである。 


 関連する過去の私たちのツイートを以下に引いておこう。


鈴木薫@kaoruSZ · 20141228

誰もが知るとおり『唇のねじれた男』は二重のアイデンティティをめぐる話であり、メイクアップと濡れスポンジで二つの身分を行き来できるジキルとハイドのお手軽版である。見かけよりもずっと陰惨な話であることはここでは触れないでおくが、スティーヴンスンの小説とも、同様に先行作品である『ドリアン・グレイの肖像』とも共通するのは名を言わぬ悪徳の正体で今となってはドイル以上にワイルドがあからさまだったという事はない。醜悪な乞食と入れ替りに姿を消したセントクレアのより深刻な罪は、ワトスンが阿片窟を訪れる口実であるメアリの友人の夫のエピソードに移し変えられている。


2014125

まあ、drugsは同性愛の隠喩だったり置き換えだったり代用だったりもしますし。グラナダTV版ホームズの『瀕死の探偵』は、そこ完全にわかっていて、表題作に『唇のねじれた男』の併せ技やってた。


tatarskiy@black_tatarskiy· 2014921

昨夜のグラナダ「瀕死の探偵」私の見た範囲では「サセックスの吸血鬼」に次ぐホモ話だった。犯人がホームズの同類であることがダブルミーニングで示唆されていたのも同じ。「唇のねじれた男」からとった阿片窟ネタが混ぜてあったが、これが男色を示唆する二重の悪徳であるのは原作のそれと同じ。


原作の「瀕死の探偵」におけるホームズとワトスンの緊密な関係性を示す感情の昂ぶりや例の隠れ場所(寝台の下!)に示される物理的な距離の近さを例によって検閲した代わりに、事件の当事者たちの関係性(今回は被害者の銀行家と犯人であるその従兄)にホモエロティシズムを転嫁しつつ、ホームズに犯人として同類を狩らせることで、彼を正常な社会の守護者として位置づけつつ結局は抑圧と自己否定に陥らせる、というグラナダ版ホモ話のセオリー通りのいつものやり方だった(マジでこのやり口はジェレミーの命を縮めたと思うよ)ホームズが解決しても嬉しくなさそうなのも当然。


ちなみに私の見たエドワトに交代以降の範囲では「プライオリ・スクール」「恐喝王ミルヴァートン」「サセックスの吸血鬼」の3つが同様のグラナダ名物「めっちゃ後味悪い抑鬱ホモ話」なので再見する方は要注目。このシリーズそのものがジェレミー氏の命を啜って成り立っていた吸血鬼みたいなものだろう


 tatarskiyさんがダブルミーニングと言っているもののもう一つは、いうまでもなく、スミスもホームズもそれぞれの業界で「アマチュア」で、異端で、疎外されていることだ。この点の、原作にはない強調からは、グラナダ製作者が意識的にそうしたことがはっきり見てとれる。


 物理的な距離の近さといえば、グラナダ版でホームズが自分の病気がうつるから「近づくな」と言う台詞が、“Keep your distance”だった。なるほどこう使うのか、ディスタンス。二時間に引き延ばした、ラヴクラフトをくっつけたみたいなグラナダオリジナル『サセックスの吸血鬼』でも、退屈しかけたところで、突然ワトスンの口からiInfluenza epidemicという語が出たので、はっとして画面を注視したが、全く、意味なくタイムリーになってしまって……

 

 しかし、呼びつけておきながら距離をゼロにする直接の接触(診察という名目の)はあくまで拒む(感染という口実で)、この台詞は興味深い。「ベッドの下(!)」とは「ベッドの上」より、ある意味、さらにあからさまでさえあるが、原文を確認すると、ホームズがワトスンに隠れ場所として指定したのは、正確にはbehind the head of my bedで、ワトスンならずともMy dear Holmes!と呟きたくなろうが、どういう恰好でその隙間に収まったのか、まるでデリダが見つけて本に載せている絵葉書の、椅子を隔てて重なり合うソクラテスとプラトンではないか。


『瀕死の探偵』は、原作では実にコンパクトにホームズがワトスンに種明かしをして終るのだが、そこでは瀕死を装う方法は、三日絶食した以外は“there is nothing which a sponge may not cure”だと言っている。つまり、ドイル自身、ここで明らかに、ホームズがセントクレアの乞食メイクを濡れたスポンジの一拭きでぬぐい取る『唇のねじれた男』に言及していたのであり、グラナダ版の“加筆“はそれに応えた、原作にいっそう忠実なものだということになろう。また、ホームズが病気をもらってきた(と称する)のはイーストエンドのクーリーからということになっており、この舞台も『唇のねじれた男』と一致する。さらに、譫妄を装っての、海の底の牡蠣に関する探偵のうわごとも、読み返してみたらけっして無意味ではなかった。


“No doubt there are natural enemies which limit the increase of the creatures. ” 牡蠣の増殖を抑える天敵が存在する、とホームズは言うのだが、阿片窟でワトスンに出会った時の彼の言葉が、まさしく、「こっちは天敵を探しに来ている」だったではないか。


 そうなるとグラナダ版の、サヴェジ邸の食卓での、ある男性の発言――「ホームズさんにも敵がいるでしょう」に始まり、その敵の捜索がベッドまで行く(?)とか言って同席者に遮られる――のも明らかに意識的な『唇のねじれた男』への言及だとわかるが、このあたりはもう一度見てみないと不明なので宿題にしたい。もう一つ、(これも見返す必要があるが)ホームズがベッドで自分を巣の中心にいる蜘蛛に譬えていたような気がするのだが、記憶違いでなければ、そうなるとここでホームズは自分をまさしく「天敵」モリアーティに譬えていることになる。(モリアーティは『最後の事件』の時点ではすでに死んでおり、どこまでも追ってくるモリアーティとは、『最後の事件』の真相を隠しつつ顕すためのワトスンの創作であるとすでに私たちは読み解いている。大陸からロンドン警視庁に電報を打って、手入れは成功したがモリアーティは逃がしたなんて返電が来るわけないでしょう、もしもモリアーティが彼らを追って大陸に渡り、すでに彼らの間近に迫っていたのなら)。友人と天敵自己と他者の境界は、時として極めて曖昧なのである。


 老人に身をやつして阿片窟に潜入していたホームズに「僕は友人を探しに来た」とワトスンは言い、「僕は天敵の一人を探しに来た」と返されるのだが、グラナダ版『瀕死の探偵』は、原作では禿げて脂ぎった二重顎の背中の曲った小男と描写されるスミスを、長身のダンディ、従弟に対する悪魔的誘惑者にして、そのけじめをますます危うくしている。それはつねに敵として現れる同類を滅ぼす仕事しか与えられない悲劇的なブレットが、本来担うべき役割であった。


 イーストエンドの波止場で中国人船員からうつされた東洋の奇妙な病気と言えば、またしてもアクチュアルなリファレンスを持ってしまいそうだが、この病気は武漢から来たのではなく、リチャード・バートンのいわゆる男色帯や、ビエール・ロチの小説や、ドイル自身の短篇にもある幻想の日本から来たのであり、阿片の誘惑とともにコールリッジやボードレールと結びつく。それに対置されるのは、健全で正常な家庭生活だ。夫の死によって相続権を失い、屋敷をスミスに明け渡さねばならなくなったサヴェジ夫人と幼い二人の遺児のためにホームズの仕事があるところが、グラナダ版の、原作との大きな違いである。   

                             

 グラナダ版『唇のねじれた男』はハッピーエンドだが、もちろん(ここでは説明しないが)本当の話がそのように終ったはずはない。『瀕死の探偵』のラストは、取り戻された屋敷の広い芝生で、夫は失ったが(『唇のねじれた男』のジョン・セントクレアの運命も多分同じである)娘と息子が残された美しいサヴェジ夫人が、ホームズとワトスンを迎えてくつろぐシーンだ。ワトスンに促されてホームズにお礼を言う娘(tatarskiyさんが言うように、ホームズはけっして嬉しそうな顔はしていない)。原作はどうかと言えば、まずこの一家がいないのだからもちろんこんな場面はないし、すべてが芝居だったことを知り、安堵しながらも怒り心頭のハドスンさんがプンプンしながらホームズにお給仕するあの愛すべき場面もありはしない。健全な家庭と規範の回復で終るわけではない原作の『瀕死の探偵』では、断食を癒すのは母親代りのハドスンさんの料理ではなく、ホームズはいかにも独身者らしく、行きつけの「シンプソンズ」での食事にワトスンを誘うのである。


 グラナダ版『瀕死の探偵』の加害者と被害者の関係は、もう一組のホームズとワトスンとして彼らの関係を外在化したものに他ならない。規範からの麻薬/同性愛による逸脱は、もともと『唇のねじれた男』にあったもので、イーストエンド、スポンジ、東洋、天敵といった細部によって後者に目配せしている。


 原作のカルヴァートン・スミスの外見は、セントクレアの仮装同様、抑圧された悪としてのハイド氏の醜さを継承するものだろう。また、彼はスマトラの農場主だが、ここはアンダマン諸島、つまり、例のやはり醜悪さが強調されるトンガの故郷とも近い。ついでに言えばポーの動物犯人もこのあたりの出である。


 動物を同伴した東洋からの帰還者は、オランウータンを連れた船員にはじまって、ドイルではマングースを連れた「曲がった男」や、小人のトンガを連れた義足の男となったが、カルヴァートン・スミスはといえば、禿げ上がった大きな頭の片側にスモーキング・キャップをのせて、ワトスンが驚いたことには、子供の時「くる病」にでも罹ったように肩と腰が曲がっている彼自身が、小人であり曲がった男であり、両者を一身に兼ねているのだ。

 

 であれば、原作のホームズもまた、ハイドに比すべき隠された自己を、死にかけのゾンビメイクで表現しつつ、最後にはワトスンをベッドの下に隠して、ほとんど〈秘密〉と一体化するに至ったのだろう。


 ついでに言うと、『ライオンのたてがみ』における、図鑑による犯人同定は、T・S・エリオットに博物学の蘊蓄は推理ではないと腐されたが、実はホームズはすでに『四つの署名』で本棚から地誌を取り出し、アンダマン島人についての記述をワトスンに読んで聞かせている。また、ポーの『モルグ街の殺人』でも、犯人についての記述を、語り手はデュパンから渡された生物学者キュヴィエの記事で読み、黄褐色の体毛と指の痕という、語り手自らこれは人間のものではないと断言した特徴の持主を同定することになるのだから、彼らは皆、同じ身ぶりで、鞭の痕のような傷や、毒針や、異常に小さな足跡などを読み解いているのだ。


『モルグ街の殺人』まで遡って読み返さなければと思ってあれから読んだのだが、発見したことをまとめるひまがないまま日が経ち、今度は、直接の影響が歴然としている『這う人』に目を通したところ、これまたメモしておくべきことが多すぎた。高所からの出入りが一見密室を形成していたという点がポーと『四つの署名』で共通し、『這う人』では、蔦(『モルグ街』では避雷針)を上って高窓に至るのがポーからの明らかな引用なのはわかっていたが、忘れていたのは、博物学的な同定がここでも行われていたことだ。教授の秘密の箱から出てきた手紙に、ラングールという猿の一種の名があり、教授の娘の婚約者ベネット君はすぐさま棚から動物学の本を取り出して“the great black-faced monkey of the Himalayan slopes“と読み上げる。“it is very clear that we have traced the evil to its source.” 今ならたちまちネット検索できるし、実際、邪悪の根源の猿の黒い顔まで見られたが、むろんこれは濡れ衣である

 

 ベネット君が手を触れかけて教授が激怒したことのある小さな箱(『瀕死の探偵』と非ホームズものの『漆塗りの箱』にも、共通する細部がある)は、littleと言い条結構大きかったようで、空の薬瓶、中身の入っている注射器、外国からの手紙と、証拠一式が揃っている。注射器は、グラナダ版でああも繰り返しホームズの抽斗に入っているのを見せられたあとでは、見る者をはっとさせずにはいまい(原作では帰還以降のホームズはコカインをやめているから、ここは間違っているというか、そもそもグラナダ版ではホームズとワトスンの関係に歴史がないのでそうするしかなかったのだ)が、要するに平常人と異なる彼が倦怠を紛らすための麻薬であり、教授の醜態からもわかるように、ジキル博士の発見した、醜い猿ハイドへの変身薬でもある。プラハからの手紙には、別の意味ではっとさせられた。東欧への旅行とそれに続く文通とは、ドイルからラヴクラフトへの直接的な影響を示す証拠と思われるからだ。


 グラナダ版『サセックスの吸血鬼』は、原作に全く関係なくラヴクラフトの『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』を持ち込んだ上、同じくグラナダ製『プライオリ・スクール』をなぞって兄弟のうち兄を転落死させ、良い出来とは言い難かったが、ラヴクラフト自身は、『這う人』から確実に影響されていよう。さらに、ガウン姿で蔦に覆われた外壁を登るムササビめいた教授の姿は蝙蝠にたとえられており、積極的に吸血鬼への変身をなぞっている。


(ドイルとラヴクラフトの関係については、以前モーメンhttps://mobile.twitter.com/i/events/1063188959327481856 にまとめた中にもあるので参照されたい。)


 さらに、『這う人』の結末の犬は、まさしく『バスカヴィル家の犬』の自己引用だ。前にも書いたが、『犬』のサー・ヘンリーの喉からそれていた牙は、ブラム・ストーカーのホモエロティシズム漂う短篇『ドラキュラの客』から直接来ていよう(これについては「シャーロック・ホームズと桃の缶詰ーー『バスカヴィル家の犬』公的読解私的小史」と題したモーメントhttps://twitter.com/i/events/1264655233499553792 に言及あり)。また、飼犬に噛まれて死んだも同然になる父親はぶな屋敷にもいたし、犬にではないが動物に噛みつかれる父親としてはロイロット博士がいて、『這う人』の教授同様、娘の結婚を控えていた。教授の若い婚約者とは、ほとんど実の娘のアリバイにしか思えず、『ぶな屋敷』の父も娘の結婚を阻止しようとしていたのだった。


 ホームズものの晩期作品全般について言えることだが、あれらは表面の謎解きではなく(あるいはそれと絡んだ)、こうしたセルフパロディをこそ読み解くべき作品だろう。


 なお、原作では名前だけの婚約者がグラナダ版には登場して、教授に面と向かってあなたは私には歳を取り過ぎていると残酷なことを言ったり、若返りの血清を提供する猿どもがロンドンに連れてこられていたりと、原作では一人も出てこないのにグラナダ版では視界を満たすプライオリ・スクールの少年たち同様、無駄に画面を賑やかにしている。


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 ところで、これから『モルグ街』を読み返すとtatarskiyさんに伝えた際に二つお題をもらった。「あの猿は何なの?」と、「なぜ被害者は老女とその娘で、たとえば夫婦ではないのか」である。ホームズに言われてダートムアへ調査に行くワトスンのように読みはじめた


 その前に一つ気づいたことがあるので書いておく。グラナダ版でホームズが抽斗に注射器を入れているのをワトスンが発見というのを何度も見せられた(おまけに、『這う人』を読んだらまた注射器が出てきた)せいで気づいたというべきなのだが、帰還以降、ホームズが抽斗に入れているはずのものは言うまでもなく注射器ではない。


『モルグ街の殺人』を読み返したら、語り手が、デュパンのような人との交際は自分にとってa treasure beyond priceになると思ったと言っているのに出会ったが、このあとに続くのは、落魄した貴種であるデュパンのために、費用は語り手持ちで古びた館を借り、二人の好みの内装にして同居することにしたという記述である。周知の通り、帰還したホームズは手を回してワトスンの自宅兼診療所を買い取らせ、彼をベイカー街に連れ戻すことになる。なにしろ後にさりげなくワトスンが洩らすには、診療所を破格値で買ったのはホームズの遠縁で、しかもその金はホームズから出ていたのだから、まさしくhis treasure of beyond priceのためにホームズが出費を惜しまなかったことがわかる。ドイルが、例の本題に入る前の余談と見せかけた記述で教えてくれるところでは、ワトスンの小切手帳はホームズの抽斗に入っており、その鍵はホームズが持っている。下宿代を折半するという散文的な理由で同居をはじめたホームズとワトスンだが、回り道のあげく、探偵と書き手のポジションは逆ながら、先達に追いつくことになったのだ。


 デュパンの経済的に優位な友人が彼を囲っていたように、ホームズも帰ったあとは、取り戻したワトスンを囲っている(職業作家となったワトスンは当然ながらドイルと同等の人気作家になり、やがて小切手帳に頼る必要はなくなったであろうが)。これが帰還以降、ホームズがコカインをやらなくなり、抽斗に注射器の入っていたはずがない理由である。


『モルグ街の殺人』に話を戻すと、被害者がなぜ女なのかはすぐにわかった。事件の際、駆けつけた人たちは室内から二種類の声を聞いている。一人は男で、フランス語を話していた。そしてもう一つは……もし、襲われたのが夫婦なら、フランス語の男の声には、被害者の一人である可能性が生じてしまう。それを排除するために被害者は女とされたのだ。女ではない男(man)の声と、男か女かわからない、人間(man)であることさえ不確かな声。この曖昧な声と対照的な、分節されたフランス語を話す声が絶対的に必要とされた理由も明らかだ。彼は唯一の目撃者(他の証人はドアの外から聞いただけ)であり、行為者が証言できない以上、起こったことは彼の口から語られる以外にないからだ。


 この犯人について、私はイノセントであるのを確信した。もちろん、残虐な行為はかれ(本来男女の区別のなかったこの日本語を用いることにしよう)がやったものであるが、それらはすべて主人の動作を「猿真似」した、結果として引き起こされたものでしかない。しばしば行われていることだが、かれをキングコングに繋げるのは、どう見ても不当だろう。女たちの殺され方に性的な象徴を読み取ろううとするマリー・ボナパルト以来の試みにもかかわらず、この犯人、いや猿はイノセントだ。かれは人間の女に性的な攻撃を仕掛ける擬人化の外にいる。また、交換価値の外にもいるから、室内の金貨を持ち去ったりしないし、責任能力がないので、罰せられることもない。経済的な優位に基づいてデュパンを囲っている語り手や、最後にはかれをパリ植物園附属動物園に「高く売る」ことになる所有者と違って、かれはイノセントなのである。以上で、あの猿は何なのかという問いにも答えたことになろうか。


 再び、「瀕死の」ホームズとカルヴァートン・スミスが対決している、あの寝室に戻ってみよう。『モルグ街』を再読して気がついたのは、動物の所有者である船員が、文字通り目撃者として現場に召喚されていたことだ。一方、ドアの外の証人は、全員が「聞えたもの」について証言している。『瀕死の探偵』のワトスンもまた、耳に特化された特異な証人である。ホームズのベッドの頭板の後ろ(と言えばいいのだろうか)に隠れて、ホームズと二人きりだとスミスに信じさせつつその話を聞き取る使命を負わされたワトスンは、その場にいながら、何が起こっているか見ることはできず、純粋な耳になっているからだ(この点、グラナダ版は、カーテンの蔭という、より伝統的で穏当な立ち聞きの場を彼に用意していた)。


犯行の一部始終を語った上、それとは知らず明りを点して下の通りで待機する警察に合図までしたスミスは、罠だったと知ると態度を一変させて叫び出す。被告席に行くのはホームズの方だ、自分は呼ばれて病気を治してやろうと来ただけであり、探偵の言葉は病的な嘘で、自分たち二人の証言の価値は同等だと。この分身ぶりは興味深い。『這う人』で教授を訪ねたホームズが、何の用かと問われて、自分もそう訊こうとしたところだと、まるで相手から呼ばれたためにやってきたかのように振舞うくだりを読んだばかりであればなおさら――


『這う人』でプラハからプロスベリー教授へ送られ、薬瓶や注射器とともに箱の中から見つかった手紙の差出人ローウェンスタイン博士は、その研究が同業者から受け入れらない学者だとワトスンによって同定されるが、グラナダ版がスミスに与えたアマチュア(と専門家から見なされる)科学者という属性には、これのこだまが聞き取れよう。


 このホームズのnatural enemy(にして同類)の一人、本来ならイーストエンドの阿片窟かそれに類する場所で見つかるはずがベイカー街までおびき寄せられ、通常はホームズが推理の結果として語るはずの犯行の詳細を探偵に代って自ら語った男は、警察に合図を送る役までホームズに代って実行した上、“Is there any other little service that I can do you, my friend? ”と、彼がホームズのenemyでなく、friendであることまで明かしている。


 むろんこれは皮肉で、直後にホームズの変容ぶりに言葉を失ったスミスの前で、“Do I hear the step of a friend?” とホームズが言うように、真の友人であるモートン警部と部下たちが踏み込んでくるのだが、これは表の筋であって、ホームズの同類がスミスであることは変らない。『モルグ街』の、動物と人間のペア――イノセントなオランウータンとその飼い主――が、互いに互いの真似をする(類人猿は主人の行為をまねて剃刀を振るい、船員は猿に倣って避雷針を上る)鏡像関係にあっただけなのに対し、同じ稀覯本を尋ねて秘められた場所で出会い、同じデカダン趣味の閉ざされた室内で闇の中に生き、パリの夜をさまよい歩くもう一つのペアが、ガチで同類なのと同じように。


 ところで、合図を送って警官たちを中へ引き入れ、犯人を捕えさせるというこの場面に見覚えはないだろうか。部屋は一階で警部はおなじみレストレードだったが、あの時も罠を仕掛けて、獲物を誘い出したのだ。そう、『空家の冒険』でモランを捕まえた時である。そこから、他の要素も思い合わせて、私は『モルグ街の殺人』を読み返す以前に、この連続ツイートをどう終らせるかだいたい見当をつけていた。『這う人』で蔦をつたって三階の窓に至るのは、二階の自室でドアに鍵をかけたまま拳銃の弾丸を頭に撃ち込まれて殺されていたロナルド・アデアの、窓の真下のクロッカスの花壇が全く踏み荒らされていないために外からの侵入が否定されるーー言うまでもなくこれは『モルグ街』のヴァリエーションだーー『空家の冒険』の裏返しだ。外部から室内を拳銃で狙い撃ちするのは不可能と思われた、その距離をゼロにするものがあったわけで、そしてホームズがワトスンに警告する例の “Keep your distance“でも判るように、『瀕死の探偵』は「距離を取ること」を主要なモチーフとして持っている。


『モルグ街』への回り道のあと、昨日ようやく『空家の冒険』を読み返した。すると――やはり記憶に頼らず現場[テクスト]をこの目で見るべきなのだ――『瀕死の探偵』が『空家』の反復であることを示す証拠が新たに二つ見つかった。


 その一。向かいの空家から221Bの窓を撃ち抜き、胸像の頭を粉砕したモランを引っ立ててゆくレストレードが、どういう罪で告発するのかとホームズに訊かれ、「もちろんシャーロック・ホームズ氏殺害未遂[the attempted murder]です」と答えるが、これは『瀕死の探偵』でモートン警部が、スミスにサヴェジ殺害の罪で逮捕すると宣言した時、シャーロック・ホームズ殺害未遂を加えることもできるよとホームズが笑いながら言うのと、ほとんど同じ台詞である。『空家』のホームズは、自分の名は出すな、栄誉はすべて君のものだと言って、逮捕された男はアデア殺しの犯人だと明かし、レストレードを驚かせる。


また、ホームズは、モランの特製の空気銃の標的とされることがわかっていたからロンドンには帰れなかった、かといってこちらから彼を撃てば被告席に着くのは自分の方だったとワトスンに言うが、『瀕死の探偵』では先に引いたようにスミスの方が、被告席へ行くのはホームズの方だと言い立てていた。(その二)


 これらはどう見ても先行する『空家』(時間的には後だが)との類似を読み取らせるため、わざわざ書き込まれたものである。これはいわゆる焼き直しではない。『空家』では成就されたものが、ワトスンの結婚二年目の『瀕死の探偵』では未遂に終った、その設定で、あらためて過去の話として書いたのだ。


アデア殺しをモランの仕業と知ってホームズがロンドンに戻ったとは、言うまでもなくドイルワトスンの作り話である。ホームズの帰還の理由はメアリの死以外にありえず、それに対してホームズが言葉でなく態度でワトスンにいたわりを示したなどというのも、ホームズをあまりにも人間味を欠いた異常な人物と読者に思わせまいというドイルワトスンの配慮であり、実際にはホームズはそんな態度は微塵も見せぬばかりか、二人の間でメアリの名が口にされることさえなかったろう(そもそもどう話題にしたらいいのか)。アデア殺しに相当する事件はあったろうし、モランのモデルもいたが、凶器は非現実的な特製空気銃ではなかったろう。レストレードがこの件でホームズと接触することはなく、たぶんスコットランドヤードは自力で事件を解決している。ワトスンが独り身になったと知って戻ってくるホームズに、そんなことにかかずりあっている暇がどうしてあったろう。


 だからホームズの呼子に応えて空家に入ってくるレストレードと配下はいなかった。取り押えられたモランもいなかった。そもそも事件の舞台はその家ではありえなかった。向かいの家は終始empty houseのままで、裏門から入ってゆくホームズとワトスンも、銃を組み立てて胸像とは知らずに狙うモランも、当の胸像も、跪いてそれを動かすハドスン夫人も存在しなかった。それらは皆、ホームズが空家の窓辺で、そこから見上げるようワトスンをうながしつつ、懐しい彼らの部屋を指して言った文句――the starting-point of so many of your little fairy-tales――にあるように、ワトスンの little fairy-talesを成立させるための細部だったのだし、そうやって再会した彼らが空家で語らっていること自体、そのお伽噺の一部だったのだ(そもそもホームズが死んだと信じて一人戻ってきたワトスンが書きはじめた短編連作の第一話は、ある夜、ベイカー街を通りかかって懐しい窓を見上げた彼が、そこにホームズの影を認めるところからはじまっていたではないか)。

                                      は では何が実際にはあったのか。fairy-taleに加工される前の、その四月の宵に本当に起こったこととは何なのか。解読される可能性がいかに低かろうと、手がかりは配置され、読み取られるのを百年以上待っている。『モルグ街の殺人』のエピグラフの言う、セイレーンはどんな歌をうたったか、アキレウスが女たちの中に隠れていた時にどんな名前を使ったかという問い同様、それはけっして解けない謎というわけではない。

 

 むろんその午後、ホームズが三年ぶりにワトスンの前に――古本屋の老人としてではなく――姿をあらわしたのは本当だ(古本屋老人と彼の書物については既述なのでこちらのモーメントhttps://twitter.com/i/events/1266130497844830208の最初のほうを参照されたい)。彼はワトスンを驚かした――昔、治安判事の老人が、息子が連れてきた恋人である青年に、「過去の恋人の幽霊」をそうとは知らず暴き出されて失神した時のように。

 

 その夜、彼らが馬車に乗ったのは、『唇のねじれた男』で、阿片窟を出たホームズの指笛に応えて、闇を貫く二つの明りとともに出現した馬車による短い旅の、反復であり、続きであった。彼らはベイカー街221の向かいの家に裏から入ったとされる。そこがどこか気づいたワトスンに、「なぜここへ」と問われ、「あの絵になる建物を見るのにうってつけの場所だからさ」(“Because it commands so excellent a view of that picturesque pile.)とホームズは答える。最上の観客席に案内されたと信じるワトスンと読者が見る、黄色く照らし出されたブラインドに浮かぶホームズの黒いシルエットは、モランを引き寄せる囮であると同時に、読者の目を惹きつけるべく用意された、プラトンの洞窟の壁の影でもある。


「ホームズの完全な複製」に驚いたワトスンは手を伸ばし、傍にホームズがいるのを確かめる。これは、その前にワトスンが不意に書斎に現れたホームズを前に気絶したあと、我に返ってその腕を摑み、「本当に君なのか」と叫ぶくだりの繰り返しである。「もう一度袖を摑むと、その下に細い筋張った腕が感じられた」「なんにしても幽霊ではないようだ」そうやって書斎で確認したホームズの身体をワトスンは、ここであらためて確かめ直しているのだ。しかもこれに先立ち、建物に入った時は「ホームズの冷たいほっそりした指が私の手首を堅く摑んで」奥へと導き、通りに面した部屋まで来るとホームズは、「私の肩に手を置いて耳元に唇を近づけている。つまり、のっけから“Keep your distance”を警告される『瀕死の探偵』と対照的に、『空家』での二人は、終始、過剰なまでに触れあっている。ワトスンが書斎で気を失ってホームズに介抱された時、『瀕死の探偵』のあの接触の禁止はあらかじめ帳消しにされていたのだし、その後も惜しみなく補償されつづけたと言うべきだろう。

 

 この一連の接触は、ベイカー街に人が賑やかに往来する宵の時間を、ポーの『群集の人』を思わせる観察者観客として過したあと、通りの人影も物音も絶えた中、ホームズがワトスンの口をいきなり手でふさぎ、部屋の隅の一番暗いところに引きずり込む時、最高潮に達する。「私を摑んだ指は震えていた。彼がこんなに昂奮しているのははじめてだった。しかし前の暗い通りでは、相変らず何も起こっていなかった」

 

 これはもちろんホームズが相方より鋭い感覚での接近に気づいたからだ(とされている)。それは、窓の外の人気のない街路という舞台では起らなかった。は彼らと同じく建物の裏から入り、同じ廊下を抜けて、街路に面した部屋という同じ空間に到達した。“the blackest corner of the room“に身を潜めた彼らが見るのは、開いたドアの黒さより黒い曖昧な影(the vague outline of a man, a shade blacker than the blackness of the open door)であり、一方、標的は明るいブラインドを地にくっきりと浮かぶ黒い影“hard black outline/the black man on the yellow ground”だ。


 窓を押し上げて屈み込み、直接街燈の光を受けた男の目は昂奮に輝き、顔はひくひくしている。『瀕死の探偵』のスミス同様、おびき寄せられた悪人はここでもホームズの分身であり、ホームズとスミスの寝室での対決と似たものが、ただしここではモランが我を忘れて注視する黄色地に浮かぶ黒い影という囮との間で起こっているのだ。

 

 街燈に剝き出しの顔をさらしつつ窓を押し上げた隙間から、黒い囮へ銃を突き出し、対象との距離を消滅させんとするモラン。影に沈んだ観客席から、その瞬間を目撃するホームズとワトスン。奇態な武器という点では、スミスが送ってきた、針が手に突き刺さるびっくり箱も、拳銃の弾を発射する空気銃も似たようなもので、スミスの箱も距離を廃棄するリモート犯罪の小道具だった。どちらの犯人もその方法で成功しており、今度はホームズに同じ手口を使おうとしていた。ベイカー街のホームズの部屋と空家とに、ホームズ、ワトスン、犯人の三者がそれぞれのやり方で配置された『瀕死の探偵』と『空家』とは、やはり、一見それと気づかれないが実は双子の関係にある。しかし、すでに述べたように『空家の冒険』は、そのpicturesqueな道具立ての実在が全面的に疑われる代物だ。

 

 あの深淵からどうやって生きて戻れたのかと、再会したホームズにワトスンは尋ねる。ホームズの答えは簡単明瞭だ。“ I had no serious difficulty in getting out of it, for the very simple reason that I never was in it.”そもそも落ちてないから、そこから出てくるのは別に難しくなかったよ。そして、モリアーティがどうなったか、実はあの時岩棚の上にはモランがいて等々と長広舌が続くが、すでに真実を読み取ってしまった者としては、「落ちてない」のついでに、モリアーティなんてそこには最初からいなかったのだから、崖の上での立ち回り云々も、岩棚の上からの攻撃も、切り立つ崖の昇り降りもあるわけがなく、そもそも僕たちがどこへ行こうと逃げられなかったのは、ヤードに問い合わせの電報を打ったら捜索願を出されていると返電が来た、君の奥さんからだけじゃないかとシンプルに答えてほしくなるが、むろん作家としての(登場人物ではない)ワトスンはそんなことは百も承知で小説を書いているのだ。

 

 この時はじめて読者に紹介されるセバスティアン・モラン大佐については、このあと、昔馴染みの居間に場所を移して、ホームズから説明される。棚の人名録をワトスンに取らせたホームズはページをめくり、Mの項からモランの記事を見つけてワトスンに手渡す――と、これはもう完全に『モルグ街』のデュパンにはじまる一連の身ぶりの反復で、『四つの署名』『ライオンのたてがみ』『這う人』と繰り返される、博物学的同定をやっているのだ。『這う人』のラングールはHymalayan slopesに生息していたが、モランにはHeavy Game of the Western Himalayas『ヒマラヤの猛獣狩』なる著書があり(と人名録に書かれている)、ここでも地理的近接性が見てとれる。モランは虎狩りのハンターだが、「このおあつらえむきの避難所からは、監視者が監視され、追跡者が追跡される。あの痩せた影[胸像]は囮で、私たちがハンターなのだった」とワトスンが言うように、モラン自身が獲物でもあり、実際、捕まった時の彼は「荒々しい目と逆立った口髭で虎そっくり」と描写される。


 ところで、先ほどの博物誌による同定のリストに共通するものは、それが全く信用がおけない、実際には存在しない、架空の生物のいかがわしい記述だということだ。オランウータンは狂暴な動物ではなく、アンダマン島人への見方は偏見に基づくもので、そこまで危険で怪物的なクラゲはおらず、ラングールの血清は回春薬にはならない(詳細は略すが実はアイリーン・アドラーもここに入る)――そして間違いなくモランについてもそううなのだ。モランは物語の辻褄合せのために、突然、ライヘンバッハの岩棚の上に置かれ、空家に出現させられたが、実際にはモリアーティとは出会ったことすらあるまい――ただ、ホームズが開いてワトスンに渡す人名録のMの項以外では。


 そしてモランが、黄色く照らし出されたブラインドに浮かぶ黒い囮を射抜いた瞬間、「ホームズは射撃手の背中に虎のように飛びかかった」というシンプルな比喩は、モランがホームズの分身――『瀕死の探偵』のスミスのような――であることを端的に表現していよう。


the blackest corner of the room

the vague outline of a man

a shade blacker than the blackness of the open door

hard, black outline

the black man on the yellow ground

すでに引いた断片だが、『空家』の待ち伏せの場でのblacknessの濃さがただごとでないのに、今回原文を見て気がついた。黄色地に鮮やかに浮かぶ影が分身と判明したからには、これはどうしてもアレと比較してみなければなるまい。このように、ひと色の背景にくっきりと浮かぶ人影を見る場面が、ホームズものにはもう一箇所ある。実は自分で八年前にそのくだりについて以下のように書いていた。


“ワトスンがこの時「麓のあたりまで降つてから見かえ」るともう滝は見えず、「山のいただきあたりに滝へゆく道がうねうねとうねつているのだけが見える」。その道を「ひどく急いでゆく男があつた。その姿は緑のバックのなかに黒くはっきりと見えたのを思いだす」――黒くはっきりと見える幻。(…)“his black figure clearly outlined against the green behind him”とまるで切り抜いて緑の背景の上に置いたような「影」。

 

 自分で読み返して驚いた。black figureoutlineもすでに出ているではないか。(https://kaorusz.exblog.jp/19707256/ 『空家』のgroundが黄色であるのに対して、これは「緑のバック」だ。groundfigure、日本語では地と図になるが、「図」単独では黒いシルエットという感じはあまりしない。延原訳は日本語としては自然だが、現象としては不自然な気がして、それでこの時も原文を見たのだと思う。逆光で影になっているのでは、clearly outlinedとならないのではないかと思ったのだ。


 背後の緑が蔭にならずに見分けられるのなら、人間だけが、切り抜いた影のように真っ黒につぶれて見えるのは異様な感じだ。“影は「坂道をとぶように登つてゆく」が「まもなくそのことは忘れて、病人のことばかり考えながら道を急いだ」“――病人とは末期の結核のdying English lady、むろん偽手紙の中の虚構であり幻に過ぎないが、彼女がメアリの代理として、ホームズと滝へ飛び込むことからワトスンを救ったのは明白だ。そして滝の方角を振り向いたとき彼が見たのは、一緒に死ぬためホームズの下へ戻ってゆく彼自身の姿でなくてなんだろう。


一人戻ったワトスンは作家ー芸術家になり(グラナダ版のサヴェジがなれなかったものだ)、助けられなかったメアリを、フィクションの中に瀕死の英国婦人として書き込んだ。そして三年後、本当にメアリが死ぬとホームズは帰ってきた。ホームズを殺したことでストランド誌は大量の定期購読解約に見舞われたが、そのような素朴な読者を納得させる筋書になら、後付けで作られた人名録の記述でしかない(とはいえその命名には、ここには書かないが別の意味も隠されている)、モランが有効だったろう。しかしドイルーワトスンの真の才能は、表面上の物語に還元されない、メアリを麓で死にゆく英国婦人、〈私〉を山の上の滝へ急ぐモリアーティに置き換え、緑のgroundに黒いfigureの反復を、誰にでも見える場所に黄色のgroundに黒いfigureの標的として堂々と掲げて、誰にも気づかれないという、ポーのG大臣を地でゆく大胆な手際にあったのである。




今回連続ツイートをまとめるにあたって気づいたことを一つ。「死にかけている」と偽って人を引き寄せる手口なら、むろん先行作品にあったのだ。他でもない、ワトスンを麓の旅館へ戻らせた「瀕死の英国婦人」である。あの時の“成功“がその後三年間彼らを引き離すことになった。そして『空家』は彼らの距離がゼロになる話だった。『瀕死の探偵』は、『最後の事件』と同じ策略が成功する話であり、その結果はホームズとワトスンの、「ベッドとその後ろ」という奇妙な形での“再会“だ。妥協形成的な奇妙な実現であり、距離がゼロになることはなかった。表面上は成功裡に終る『瀕死の探偵』は、実は「失敗した『空家の事件』」と呼ぶべき一件であろう。


# by kaoruSZ | 2021-03-18 06:57 | 批評 | Comments(0)

獅子の鬣異聞

「小説家っていうのは、要するに職業的な嘘つきの一種だな」午後の心地よいけだるさの中で寝そべって煙草を吹かしていたシャーロック・ホームズが言った。


 私たちはサセックスの終の棲処と定めた陋屋の居間に、水入らずでいた。敷物も、壁に掛けた絵も、野草を摘んで投げ入れた花瓶も二人で選んだものだ。開いた窓からは薄く雲のかかった青空が見え、さわやかな風が甘い香りを運んでくる。ホームズの蜂たちはこの瞬間も、短い夏に開いたばかりの花花を訪れて、花粉にまみれて働いていることだろう。二年前、再婚した妻が亡くなったので、私はついにロンドンを引き上げて、先に隠棲していたホームズの許へ移ってきたのだった。


「勝手に本気にしてしまうのは読者の方だよ。小説家はむしろ、これはフィクションだ、作り話だ、自分は事実を語ってはいないとことあるごとに言ってるんだが」と私は言った。「僕たちがミルヴァートンの家に押し込み強盗に入ったと信じている連中の多さを見たまえ」


「僕が女中を誘惑して婚約した――これは婉曲な言い方だが――と君が嘘八百を並べた、あの話かね」ホームズは片方の眉を上げた。


「だって、コックといい仲になって情報を取ったなんて、書けないじゃないか」


――馬丁だよ。それに、いい仲なんて、誤解される言い方はよしてほしいな。そうそう、君の足をつかんでもう少しで塀の上から引きずり下ろすところだった庭師の下働きの子、彼にも最初、粉かけたんだけと靡かなくてね」


「そうなのか。二十年目にしてはじめて聞いたぞ」


「二十年ではきかないだろう。あれから二十五年にはなる」


 殺人罪の時効も過ぎた、とは二人とも言わなかった。ホームズがあの時ミルヴァートンを射殺したのは私たちの関係を守るためだったが、その後もそれは生やさしい道ではなかったし、私の再婚もそのためだった。


「僕は非難してるんじゃないんだ。嘘を書いて真実を伝えてしまう小説家の凄さに感服してるんだ」とホームズが言った。「たとえば『ミルヴァートン』で言えば、ウィンドウに飾られた女の写真。あれを持ってくることで、あの話が一気に、そのかみの『ボヘミアの醜聞』と関連づけられる」


「しかしそれを読み取ってくれた批評家が一人もいないんだからな」私は嘆息した。


「まあ、世の中、馬鹿のほうがはるかに多いんだから。批評家といえども、大半はただの馬鹿ということさ」特有の尊大さでホームズは続けた。「関連づけというのは、探偵術にとっても極めて重要なことだ。あの女が男と判れば、元の話に一歩近づける」


「それもこれも、君が女装してミルヴァートンを撃ったとは書けなかったからさ。でも、僕たちが何のためにあれをしたかも含めて全部書けたとしても、それでも、それがいい小説になるとは限らない」と私は言った。「真実を書こうとすれば紙はペンの下で燃え上がってしまうだろう、とポーは言っている。普通これは、本心を書くことに抵抗する羞恥心とか見栄とかを指していると思われているようだが、そんな浅薄な話だとは思えないな。書き手の中にある切実な感情や情動の強さといったものは、書かれたものがそれと同様の強度を持つことを保証しない。小説はあくまで言葉で書くものだからね」


「ははあ、君はこう言いたいんだね。僕の書いた『獅子の鬣』が、心あまりて言葉足らずの典型だと」


「とんでもない。そんなことは全く頭をよぎりもしなかったよ」と私は言った。「君の書いた二つの作品にはいたく感心している。『白面の兵士』のジェイムズ・ドッドとゴドフリー・エムズワースの関係はわかる人にはわかるように書けているし、執事が、坊っちゃんは死んだのかと訊かれて、「お亡くなりになったのでしたらどんなによかったか」と口走り、君を振り切って部屋から走り出て行くところでははっとしたよ。彼にとって男色関係に陥るとは、死よりも悪い業病に罹るに等しいことがよく表われている」


「前にもそうほめてもらってその時も言ったと思うけど」とホームズは言った。「あれを書いた時、僕は、老人の言ってるのはただレプラのことだとしか考えていなかったんだ」


「自分で意識している必要は必ずしもないんだ」と私は言った。「天性の作家とは、むしろ何も考えないで書いて、それなのに結果として辻褄が合い、意味を産み出してしまう人さ。これは、君の推理が実は直観に依存していることにも通じる話だと思う。君は一瞬で全体がわかってしまって、凡人に理解させるための推理をあとから組み立てるだろう?」


 ホームズが頷くのを見て私は言葉を継いだ。「僕は小説家だけど、君の書いたものからこうした構造を見て取るのは、僕の中の批評家さ。他人の作品だからわかるんだ。自分で書く時にはわかっていないことのほうが多い」


「君の中の批評家先生はよくわかっておいでだと思うけど」ホームズは皮肉っぽく言った。「あれを書いた時の僕の切実な感情とば、君が勝手をして僕を置き去りにしたことに対するものだよ。そのことを「私はひとり寂しく過ごしていた」と書いたけど、あまりにも芸がない言いまわしで何も伝わらないと君なら言うだろうね」


「それは掛け値なしの本物で、黄金色の蜜の滴りのように純粋で、何の飾りもない率直な吐露には違いないけれど」と私は言った。「〈本当のこと〉を書いてもそれだけでは強度を持たないというさっきの例は、君のその独白についてならあてはまるかもしれない。君がなぜそんなに寂しがっているのか、僕たちの関係の歴史を知らない人にはわかるまい。とはいえ、あれを入れておいたことで、僕たちの未来の伝記作者にとっては、あの小説はよい手がかりになるんじゃないか」


 今でこそそんなふうにこだわりを捨てて話題にできるようになったが、私の再婚にあたっては、ホームズの了解を得ることが最大の難関だった。あらかじめそれがわかっていたし、さらにいえば説得が不可能なこともわかっていたから、私は彼に知られぬようにこっそりことを運び、知らせたのは結婚式の日取りが決まってからであった。私の短篇『高名な依頼人』は、実はその顛末を変形して書いたものだ。


 サセックスに隠退したホームズは私の訪れを今か今かと待っていたが、私は新しい妻の手前、毎週末を彼と過すことなど思いもよらず、訪問は間遠になりがちだった。『白面の兵士』は、ホームズが二人の青年の関係を羨みつつ、私のいない寂しさを吐露した短篇で、もう一つの『獅子の鬣』はと言えば、勘のいい方はもうおわかりだと思うが、女と結婚しようとした男が死をもって罰せられる話である。


 ゲイブルズ校のハロルド・スタックハーストがどんな人間かは、人里離れた教育施設で寄宿生の若者たちと女っけのない生活をその歳までしているという記述だけで、これもわかる人にはわかったに違いないが、私と疎遠になったと感じ不満を持っていたホームズが、『獅子の鬣』事件当時、彼と関係を持っていたとは、小説を読まされるまで私の知らないことであった。夏の初め、いつもより早い時間に普段より遠くまで朝の散歩の脚を伸ばしたハロルドは、朝日を受けて一面に輝く海からあらわれた全裸のホームズに出会ったという。引退するまでハドスンさんの賄付下宿を離れなかったホームズと同じく、ハロルドもまた成熟した男性に要求される役割を忌避して、生涯をあたかも学生のまま、同性との交流の中でのみ過ごすかに見える男たちの一人だったのである。『獅子の鬣』を書いた頃にはすでにホームズは彼とは終っており、スタックハーストはかの短篇で重要な役割を果たす数学教師イアン・マードックと、安定した関係を築くことに成功していた。この二人とは、私がサセックスに落ち着くようになってから親密になり、ハロルドももう現役は退いたけれど、私たち二組はしばしば互いの住まいを行き来して楽しい時をともに過してもいる。


 しかし、『獅子の鬣』をはじめて読んだ時、私を捉えたのは恐怖であった。背中一面の、よくしなう鞭で打たれたか、灼熱した針金でも押しつけられたようなみみず腫れ、はげしい苦悶、そして死。マードックに好意を寄せられながら気づくことなく、女性と結婚の約束をした科学教師フィッツロイ・マクファースン、すなわち「顔立ちのよいすらりとした若者」に与えられたのは、水辺でのそのような苦痛に満ちた最期であった(むろん元になった事件は実際に起きているのだが、ホームズはそれを巧みに――良い作家は誰でもやることだが――換骨奪胎している)。


『獅子の鬣』がなぞっているのは、一言でいうなら、キュベレー女神の愛人でありながら他の女と結婚しようとしたアッティスが、女神の力によって正気を失い、自らの性器を切り落す話であろう。もちろんホームズは、そんなことは全く意識せずに書いているのであるが。


 ホームズの謎解きがJ・G・ウッドの『野外生活』を参照してのものに過ぎないことは、最初から評判が悪かった。人々は、名探偵にはもっと独自の解決法を求めるのであり、海辺の動物や水中の植物を図鑑と照らし合わせるような、夏休みの宿題をやる小学生じみたやり方はお気に召さないのである。しかしここでは、書き手としてのホームズの才能が十二分に発揮されているのだと私には思える。ウッドが記述しているサイアネア・カピラータは、「黄褐色の膜と繊維組織がゆるくからみついている掌に余るような塊」に過ぎない。一方、ホームズの語るそれは「ライオンのたてがみからちぎりとられた毛の塊」と見える、水面下三フィートの岩棚に横たわる物体だ――「黄色の房にところどころ銀色が混じったその毛むくじゃらの生き物はゆらゆらと揺れながら、ゆっくりとそして重々しく膨れたり縮んだりして、脈打っていた」ホームズとスタックハーストが力を合わせて大きな丸石を水中に落すと、石は岩棚の怪物を下敷きにし「黄色い膜のようなものがひらひらとその下からあらわれて」「石の下から濃い油のようなものが浮き、石のまわりの水を汚しながらゆっくりと表面まで上がってきた」


 はじめて読んだ時私はぞっとした。それがこの世の(生き)物――ウッドの本や動物図鑑に記載されているような――とはとても思えなかった。どこか宇宙空間から、私たちの惑星とは違う世界からそれはやって来たのではあるまいか。見たままを書いたとホームズは言うだろうが、こうした記述には何かそれ以上のものがあり、私たちが通常「現実」と呼んでいる言葉以前の世界、正確には、共通の思い込みで成り立っているので言葉なしでも了解できるかに錯覚される卑俗な世界から独立した、言葉によってはじめて近づける第二の現実を指し示しているように思えるのである。


『獅子の鬣』には思いがけない反響もあった。ウィーンで投函された一通の手紙が、ベイカー街からサセックスへ転送されてきて、ホームズの頭をしばし悩ませた。「獅子の鬣と名づけられたあの黄色い怪物を叙述しながら、もしや貴方は、ギリシア神話に登場するメドゥーサの首、あのゴルゴン三姉妹の末娘、見た者を石にする怪物についてお考えではなかったでしょうか、あの水中にひろがりゆらゆらと揺れる房とは、女性の長い黄色い髪とのダブルイメージではなかったでしょうか、この件について是非とも御教示賜りたく、非礼を顧みず書簡をお送りしてお尋ねする次第です」と、ホームズはドイツ語の構文をそのまま英語に適用したような、佶屈たる英文を私に反復してみせた。


「そんなことは僕はちっとも考えてやしなかったから、そんなことはないという簡単な返事を書いてやったよ」


「いや、僕は考えていたよ、ホームズ」と私は言った。「はじめて見せられた時から、あれは君の女嫌いのあらわれではないかと考えていた」急いでつけ加えるなら、今ではそう解したのはいささか単純過ぎたと思っている。なぜなら、裏切った男の結婚を阻止する恐しいキュベレー女神が彼であるなら、あそこでホームズが殺しているのは彼自身であるからだ。そもそもキュベレー自身、両性具有であったのが男性器を切除されて女神になったのである。


 数年後、「メドゥーサの首」と題する論文を読んだ時、私はその著者が、ホームズに手紙をよこしたウィーンの医師であることに気がついた。蛇と化して頭をもたげるメドゥーサの髪とは勃起男根の象徴であり、斬首=去勢に対抗するために複数化した男性器で、メドゥーサの首をまのあたりにした者(男)が石に化すとは、彼の男根が石のように硬くなって、それゆえ自分はまだ去勢されていないと思えることだという。メドゥーサの首は女性器であり、男根の不在に直面した男が、それでもなお自分は去勢されていないと主張しようとする結果が、蛇と化した髪や「石化」であるのだ。


 私はホームズにこの文章を読ませたいと思いながらもためらった。彼が、こうした主張をはなから受けつけず、一笑に付すのではと恐れたのだ。しかし、実際に、これを含む論文集を見せたところ、彼は件の論文を熱心に最後まで読んで、「なかなか面白かったよ。この男のやり方には僕の方法との共通性が感じられる」と呟いた。「僕の描いたサイアネア・カピラータは確かにメドゥーサの首だともし返事をしてやっていたら、どうなっていたんだろうね、ワトスン。ここには僕のケースも入り、僕は彼のケースブック(症例研究/事件簿)に載せられるという、光栄に浴することになったのかしらん」


# by kaoruSZ | 2020-05-31 13:28 | 文学 | Comments(0)

 停泊している船の最奥部に胎児のように潜んでいた密航希望者が発見され、甲板に連れ出される。長い垂直の移動は前週に見た『コンクリート⋅ジャングル』の三次元空間ーーそこで予想される運動は上から下への墜落だーーを微かに想起させもするが、男にも他の者たちにもさしあたりそんなことは起らない。


 密航の代金を提示する船長。出航は真夜中、彼はそれまでに金を作って戻らなければならない。石と砂と石造りの建造物の共同体は闇の中に引きこもっていた男にとっての見なれぬ異物ーーいや、彼こそがストレンジャーでありアウトサイダーであり、名前も持たず、売るものといっては一丁の拳銃があるばかりの、通行人、よそ者、傍観者だ。荒涼たる無縁の風景の中から彼と私たちにとって最初に見わけられ、意味と名前と顔を持つ者として現れるのは一人の少年だが、男の出発は拳銃が売れるか否かにかかっているのに、売買を持ちかけた老人にあっさり断られその可能性は早々に閉ざされてしまっているので、少年ジャコモとともに崩れかけた廃墟のような建物に登り、危うい足場をたどるのを見ると、どの道この男に出発は不可能であり、やはり最後は墜落だろうかと不吉な予感が胸をかすめないでもない。

 ジャコモは彼と似た者だ。二人とも盗みをしたーー少年はミルクを、男はチーズをーーばかりではない。拳銃を金に換えられなかった男と同様、少年もまた「売ることができなかった」ので盗んだのである。日々の労働で彼と妹を養う貧しい母から洗濯物の配達を命じられた少年は、ジョバンニのように母親の下に牛乳を持ち帰る使命をも負う者だ。ところが、途中で仲間の少年たちからビー玉遊びに誘われると、妹の制止もきかずに、牛乳代を賭けにつぎ込んでしまう。ビー玉という資本は殖やされた。しかし相手が難癖をつけてビー玉の買取りを翌日に延ばしたために、仕方なく、牛乳代を翌日払いにしてくれるよう、牛乳屋の女店主に申し出る羽目になる。それなら牛乳も翌日だとにべもなくあしらわれて、少年は隙を見て牛乳の出る蛇口に持参した瓶をあてがい、コックをひねってまんまと牛乳をくすね取る。男が同じ店に来て売り物のチーズをいきなりぱくつき、騒ぎ立てる相手を黙らせようとして殺してしまうのはこの直後である。


 少年は騒ぎを自分の盗みのせいと思い込み、男が自分を助けてくれたと誤解する。仔犬のようについて来る少年を、男ははじめ追い払おうとするが、父子を装って警察の目をごまかせると知って、少年の母の禁じたサーカス(移動遊園地)に入る。これは男の子に替えた『シベールの日曜日』だろうと私が思いはじめたのはこのあたりだったろうか。勿論『シベール』は男をイノセントな弱者とすることで成立していたし 、幼いシベールは彼の母たる役割まで負わされていたのだが、ここでは夢を見ているのは、父ではなく息子の方だ。少年に触発されたのだろうか、不意に男は、彼自身が子供であった時の思い出を語り出す。彼自身の父についてのこの記憶は奇妙なものだ。父に命じられて二人の男が大きな石を穴を掘って埋めようとしたが、その石に自分たちが潰されそうになる。その時自分が、彼らを二人とも助けたというのだ。この述懐がいかなる幼児記憶の変形されたものであるかは知る由もないが、確かなのは、クライマックスで高所に宙吊りになり墜落を実現してしまいそうになった少年を引き上げる彼の臂力が、すでにこの挿話によって保証されていたということだ。

 玩具の大砲に弾みをつけてスロープを一気に上らせ、最高点まで行けば商品がもらえるゲームを見た少年は、周囲の人々に、お父さんならできるよと誇らしげに告げる。期待に応えて、男は無雑作な身ぶり一つで苦もなく大砲を頂点に至らせ、発射させおおせる。見あやまりようもない男根象徴は、彼が少年の理想の父-男としての地位についたことを、過不足なく示すものだろう。しかし、現実の父を持たぬ少年は、自分が母をめぐって父と対立するものであることをまだ知らない。不在の父という空位の座を占めた男は、女を介さない直截的な欲望の対象として彼の前に立っている。言いかえれば、少年にとって父の大砲の発射とはそれ自体として完結した運動であって、その先に想定される目標をまだ知らないのだ。
 
 逆に言えば、父の欲望の対象は当然のこととして女であることを知らないので、見つめあう目のように彼に愛し返されることを期待しながら、少年はまっすぐ彼を見つめる。名前のない流れ者の父は、母と妹の「女たちの地獄」(ランボー)を永久に離れて彼とともに船出することへの憧れを少年にかき立て、ここではないどこかで彼ともに生きることにまで、その夢は膨れ上がるのだ。


 いうまでもなく男の方は、こうした少年の熱狂の何一つ共有しない。映画のはじめの方で、少年は老人に連れられた廃馬の行き先が、老人の言うような、老馬のための楽園ではなく、屠殺場であるのを見てしまった。しかし自分のためにはまだ、神と男が生きる緑の楽園を信じうるのだ。少年の静かな熱狂を男は利用し、警察の追及を逃れて、洗濯屋の顧客の使用人である、通いの女中の住いへ逃げ込む。昼間、少年はこの女に、奥様の洗濯済みナイトガウンを彼女の自宅へ届けるように言われて当惑した。実は彼女は以前から奥様の衣類をくすねていたのであり、怪しんでいた主人にこの日現場を押えられる。

 
 彼女もまた、無名の男やジャコモと同様、盗みをする者である。そして彼女もまた、司直の手には渡されない。服はお前のものにしていい、その代り、と主人は言う。今夜家へ帰るとき、私がお前を送って行こう。この姦計を女はどうにかして逃れようとするが、主人は言葉巧みにすべての逃げ道を閉ざす。男や少年と違って彼女の場合は、盗みと売ることの順序が逆転しているのだ。目の前で演じられるこの会話と成立した取り引きは、少年には理解不能だが、彼女は少年にも男にもできなかった「売る」ことを、その意思に反してではあるが、実現しようとしていたのである。


 女が遅くまで帰宅しないことを知ると、男はジャコモに案内させて彼女のアパートの部屋に身を潜め、屋根を伝って港へ脱出するルートを探しに行かせる。そのあいだに主人に送られて女中が帰ってくるが、あたりには人が集まり警察が入口に立つものものしさ、主人はびびって彼女を一人で行かせる。アパートの入口で殺人犯の潜伏を知らされ、訪問者の予定はあるかと訊かれた彼女は、ないわと答えて笑いながら階段を登る。しかし、主人の手から逃れられたと信じて自室に入ったところで、今度は別の男の手に落ちることになる。荒々しくねじ伏せられようとした彼女は、手荒にしないでと言い、むしろ進んで愛人のように振舞いはじめる。衝立の後ろで以前くすねた主人の妻のものであろうナイトガウンをまとって彼を誘うのだ。それはそこにいるのが主人であったとしても同じようにしたはずの身ぶりであり、男が入れ替わっただけの疑似恋愛の演技であると同時に、“母”と対立する彼女の娼婦性を観客に印象づける。


 一方、ジャコモは、屋根を越えた向うの港に、真夜中に出航する船を見る。“父”と自分をla-basに運ぶ船が停泊しているのを屋根の上から少年が確認するのを捉えたキャメラが室内に戻ると、そこでは女が鏡の前でくつろいだ様子で髪をブラッシングしており、傍の椅子で男は顔を上向け、疲れ切ったように身をのけぞらせている。明らかな“事後”のサインーーベッドに裸の男女がいる場面を禁じるコードのために変形された隠蔽記憶のような。偵察に出された少年がすぐに戻ってくる状況で、しかしそんなことは現実には起こりえない。『カサブランカ』のかつて恋人だった男女が性交したはずがないように。昼の屋外はイタリアン・レアリズモの世界だったが、夜の室内はそうではない。男がまどろんだのを見澄まして女は立ち上がるが、ドアの方へ行きかけると男がはね起きて飛びかかり、押え込んで後ろ手に縛り上げる。本来ならこれに先立って起こったはずのシーンがはじめて再現されるまさにその時、少年が入ってくる。それがあとに置いてきたはずの母のあまりにも早い回帰とは、昼の母からは隠されている彼女のもう一つの顔だとは知るはずもないが、女に襲いかかる“父”を見て、その顔は怒りと嫌悪にゆがむ。ドアを叩く音でこの緊張は中断される。諦めの悪い主人が下に来ていることが警官によって知らされ、ともかく玄関まで下りて相手を確認してほしいという警官に、拳銃で脅されている女は、着替えるので時間をと答える。

 女を置いて男とジャコモは屋根に上がる。男は少年に言い訳する。あの女は裏切者だ。賞金目当てに俺を売ろうとしのだ。またしても「売ること」のモチーフ。それにしても、これはどう見ても不当な言いがかりだ。家に侵入していた男に傷つけられるのを恐れて従順に身をまかせるふりをしただけの女が、隙を見て逃げ出そうとするのは当然だ。いずれにしても、変形された“原光景”の目撃は、少年と“父”との一体性に確実に罅を入らせ、彼は男が逃亡に自分を利用しているだけではないのか、そもそも自分を助けてくれたというのも思い込みではないかと疑いはじめる。そしてそれはまさしくそうなのだ。

 夜の港で眠る船は、少年の「どのようなかすかな欲望をも満たすために 此の世の果から」(ボードレール)来たのではないし、少年ともに船出して年老いた馬の行くような楽園で暮らしたいと、男が思っているわけでもない。それを知って男から離れようとして、少年は足を踏み外し、庇から両手でぶら下がる。地上から見上げる母の悲痛な顔。彼がどのようにして引き上げられるかは前に述べた。屋根の上に一人取り残された男に、射手の銃口が向けられる。

 売れないために手元に残っていた拳銃、それを狙撃手に向けたため、彼は銃弾を浴びることになる。少なくとも狙撃手はそう主張する。そして墜落。女はこのあいだに自分で縛めを解き、手すりにすがるようにして階段を降りてくる。上がって来た主人と出会った彼女は、あいつはお前に何をしたんだという問いには答えず、差し出された男の手を激しく拒む。彼女もまた売りそこなったのだ。


 戻ってきた息子を、お金がかかってもいいから明日はサーカスに行かせてやるのだと母は言う。しかしそれを聞いても少年の顔は暗いままだ。家へ向かう彼の前に友だちの少年が現れ、並んで歩きながら、冒険の細部を聞きたがる。だが、彼らともはや共有することのできない経験をしてしまったジャコモの表情は変らない。相手が、明日ビー玉遊びをしようと言うと、ようやく笑顔になる。

 これを、少年にとって男が、事件が、あるいは希望のない結末が、相対化されたと思ってはなるまい。今日、彼の得たビー玉は、明日になれば仲間に買い取ってもらえるはずなのだ。彼の手元に入るはずの金銭、それは、明日まで支払いを待てずに彼に牛乳を盗まれた女店主に、もはや返す必要のないものだ。サーカスに行くのにそんなものは持って行くな、棄てろと言われても少年が拒んだので、男は無雑作に牛乳壜を自分のポケットに突っ込んだ。むろんその壜は、男と一緒に屋根から落ちたりしなかった。少年とともに無事母の下に戻ってきた。牛乳の代金が支払われなかったことを、母親はいつまでも知らぬままだろう。男の、より大きな罪が少年の罪を覆い隠し、女店主に金を払うことも不可能にしたので、ビー玉の(牛乳の)代金は彼の手元に残ることになった。彼は資本を得たのだ。男が、女中が、女店主が失敗した「売る」ことに、彼だけが成功した。あの地母神の名を持った少女は、日曜日に会っていた男を警官隊に殺されて絶望するしかなかったが、少年は違う。なぜなら少女と違って、少年はやがて成長して自らが男になりうるもの、自らが拳銃を売る未来を持ったものだからだ。



# by kaoruSZ | 2019-05-30 01:01 | 批評 | Comments(0)

ツイッター上で書いていた『アナ雪』関連のツイートをまとめてみた。さんざん「女性へのエンパワ!流石アメリカ!ディズニー!」みたいに持ち上げられてたけど、作品自体をあらためて検分してみたらフェミどころか日本語ツイッターにもゴロゴロしてるようなレベルの陳腐な“政治的に正しい”ミソジニーの煮凝りでしかないのにウンザリした。何処も同じどころかある意味日本より酷いと思うし、なんでも向こうの方が優れていると思うのは間違いであること、どれほど予算を費やして技術的にはきらびやかな表現を作り込んだところで、ミソジニーの凡庸さはどこの国でも驚くほど似通った陳腐な欺瞞しか生み出さないことをよく教えてくれる見本だろう。アンデルセンの『雪の女王』との価値の違いは私が言うまでもない話だが、最後におまけとして補足しておいた。


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アナ雪って「政治的に正しい寓話」として評価されることを商業的にあざとく狙って作られてて、ほとんどの観客はそういう狙い通りに「政治的に正しい寓意」を読み取って喜んでるけど、画面の中の作中世界そのものを注視すれば実はそういう寓意が寓意として成り立ってなくて、妙にチグハグで破綻した感じ。


ぶっちゃけ「何が言いたいの?」としか反応のしようがない。無理なく読み取れる寓意が成り立ってないから「超能力は超能力だし王族は王族だろ?」としか返事のしようがない。あれを「女性の置かれてきた立場の象徴()」とか思えと言われても、「あらかじめそう思いたい人」にしかそうは思えないでしょ。


要するに王子様との愛とかの物語の定型を「政治的に正しく否定してみました」というだけで、そういうメタレベルのご都合主義以外にちゃんとした中身がない。「女同士仲良くさせてみました」とかもそういう「政治的に正しい否定形・逆バージョン」でしかなくて、逆説的に定型に依存してるだけ。


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アナ雪も本当に問題なのは親との関係だろうと思ったが、あっさり親を殺して直接対決させず姉妹愛()だの王子様はいらない()だのに話をずらして誤魔化した感じでモヤった。子供が“よい子”でなくなることを本質的に許さない感じの妙に頑強な保守性が不気味だった。


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アナ雪あらためて視聴したんだけど、アナに対する胸糞悪い“馬鹿な女”叩き=処罰の手段として、エルサの意味不明な親からの抑圧による精神的発育不全の問題を「全部アナが悪い」ことにしてアナの責任として処理してるだけのチグハグだった。これ百合とか欠片もないだろ。


あのエルサの魔法の力自体、なんのメタファーにもなってない意味不明な代物で、結局は「本人の気分次第で制御できなくなって暴走する、殺傷能力ありまくりの超能力で下手すれば一国が滅びる大規模災害」という見たままの意味以外を読み取るのは無理がありすぎる。


だから冒頭のエルサの魔法で姉妹で氷遊び→アナに魔法が当たって瀕死のくだりも「そりゃ悪気がなくてもあんな冷凍ビーム食らったら人は死ぬよ気をつけろよ」って印象以外持ちようがないし、「子供がマッチ持ち出して火遊びして大怪我」並みの「当たり前やろアホか親が躾けろ」としか言いようがない。


なのに「魔法が当たったのが頭だからアナからエルサの魔法に関する記憶を消せば助かる」とかいう理屈がくっつけられてアナがエルサの魔法について忘れて姉妹が引き離されて可哀想みたいな展開に持っていってるのが意味不明。最後まで見てもあのエルサの魔法って物理的な脅威以外の意味性はないのに、いきなりここでだけ精神的な何かのメタファーみたいな思わせぶりをしてるだけで、それを物語世界がこの後アナを悪者扱いしてエルサをその被害者として扱っていい根拠にしてるんだよね。


親たちの対応も「他人に知られないように魔法の力を隠せ」とエルサを徹底的に他人から遠ざけて強迫観念を植え付けただけにしか見えないけど、普通に考えたら精神状態によって自分でもコントロールできなくなる殺傷能力を精神論だけで押さえ込めなんて非現実的なことを押し付けるなんてありえなさすぎる。


しかもそうやってエルサの情緒不安定の原因を作った親たち自体がいきなり事故死したことになって、結局その後全ての責任は本質的に何の関係もないアナに押し付けられるんだから理不尽だし意味不明すぎる。普通に考えて妹は親じゃないし、姉に対する親の責任を負う義務なんかあるわけがないだろ。


あと普通に考えて「自分が抑圧され他人から遠ざけられていた間も抑圧されずのびのび育った妹」に対して姉の方が羨望や嫉妬やわだかまりを抱かない方がおかしいと思うし、妹の方だって年端も行かない子供の頃のおぼろげな記憶以外ではろくに交流のなかった姉が、自分の恋愛に頭ごなしに無理解な態度をとった揚句、物理的な殺傷能力を暴走させて遁走したら、無条件に信頼し自分には加害しないと能天気に信じて探しに行くとかありえないだろ。


この通りまともなリアリティのある感情や関係性があの姉妹には全然ないからどっちにも共感できないし、作中ではハンスとの関係ばかり「会ったばかりで相手のことをろくに知りもしないのに惚れ込んで結婚したがる馬鹿女」としてdisられてたけど、エルサとの関係の方がリアリティなくて馬鹿馬鹿しいだろ。


アナがハンスに夢中になる経緯の方がまだ遥かに説得力があった。エルサの煽りを食らって孤独で世間知らずだったアナにとって「自分も兄弟にかまってもらえず孤独だった」と言う自分と似た境遇の人間を理解者と感じて夢中になるのは普通に納得できるし、それを愚かと言うならその原因を作った親にこそ非があるし(そもそもアナまでエルサと一緒に世間から遠ざけておくのがおかしいし必然性がないご都合主義なんだけど)、悪意はなくともその更に原因になったエルサに妹を責めて被害者面する権利はないのに、作中では一方的にアナが愚かで悪いことにされる。


あと今回あらためて見て一番唖然としたのがドワーフたちがアナに向かって「会ったばかりの見た目のいい社会的地位のある男=王子様に夢中になる女は愚か。臭くて汚い見た目の悪い男でも外見に惑わされずに中身のよさで選べ」とマジで凡庸なミソジニー非モテ男みたいな説教をコーラスする場面。


作中では「会ったばかりでよく知りもしない王子なんかより自分たちが養子として育てたクリストフを選べ」という文脈だったけど、会ったばかりでよく知りもしないのはハンスもクリストフも大差ないし、この段階ではアナもクリストフもお互いに対して恋愛感情を持っていたわけでもないのに、こういう「片方には他に意中の人がいる男女を周りが勝手にくっつけようとする」状況は現実ではセクハラでしかないだろという意味でも突っ込んだ。後からハンスがわかりやすい悪役になってそれが原因のアナの窮地をクリストフが救ったことでアナとくっついたことになってるから誤魔化されてるけど最低。


本当はハンスが唐突にわかりやすい悪役になること自体がアナ=“愚かな女”にダメージを与えて罰するための話の都合でしかないし、作中でのアナはハンスが王子だから好きになったわけじゃないのに、製作者のメタレベルでの「王子様からの愛に憧れる女ざまぁ」という悪意が見え見えで反吐しか出ない。


マジで製作者の意図が日本語ツイッターに掃いても捨てきれない程いるミソジニー非モテ男と百合豚が融合してるタイプのクズそのまんまで気持ち悪い。アナ雪ヨイショしてる言説ではエルサばかりが目立つけど、本編の本筋はアナ=“愚かな女”が罰せられる話で、エルサは実質そのための道具の一つでしかない。


とはいえ最後のアナとエルサの真実の愛()も、本当は「幼少期に親から与えられているべきだった肉親に対する無条件の信頼感」を妹を痛めつけて引き出しただけで、言うまでもなくそんなものは他人との恋愛関係以前の基礎的な感情的安全の確保でしかないから、「こんなものが女性同性愛だとかエルサがレズビアンだとか言うならレズビアンを馬鹿にしてるだろ」としか言いようがない。どう見ても「幼少期から他者との関係性を全て奪われ肉親からの愛にすら恵まれなかった人間が、唯一残された肉親とようやく心が通い合った」というだけで、「今までは物理的にも精神的にも他者から隔絶されて肉親とすら交流を持てないでいたけど、これから漸く肉親以外の他人とも交流が持てる可能性がある」レベルの人間に「男に興味がなくて妹を愛してるんだから同性愛者に違いない」って完全におかしい。


もっとも製作者は、そうやってあらかじめ他者との関係性を奪われ肉親の愛にさえ飢えた設定の女キャラを(無理のある成り行きで)妹=唯一の肉親の女と仲良くさせ「真実の愛」という言葉を口にさせることで、政治的に正しい百合豚的解釈をしたがってる世間様に都合よく誤解させることを狙ったんだろうが。


最初に書いた通り結局この作品は「エルサに対する親の不適切な養育方針によって植えつけられた彼女の強迫観念と対人恐怖・孤立」と「王子様=理想的な男に愛されたがる“平凡で愚かな女”であるアナを“政治的に正しく”罰したいという製作者の欲望」という全く無関係な問題を一緒くたにしてるだけで、アナを罰したい製作者のミソジニーはわかりやす過ぎるくらいだけど、エルサの方の「親からよい娘像を押し付けられ本当の自分を抑圧される」メタファーとして読ませようとしてる魔法の力どうのについては先述した通り完全に破綻してるし(結局物理的な脅威として以外の意味が成立していない。雪だるま作ったり氷の城作ったりスケートリンク作ったり演出には便利な楽しげな使い道があったところで、本質が本人の気分次第でコントロール不能になることさえある他者に対する物理的脅威であることに変わりないし警戒するなという方が無理があるし、何かの才能とかのメタファーにもなっていない)そもそも世間一般的に言う「よい娘像」だとか「女らしさの押し付け」って、普通は「努力や優秀さを認めてもらえず女らしくないとされる地位にはつけてもらえない」ことだから、女は王になれない国でもなく女王という余人が望んでも得られない地位と権力をあらかじめ約束されている時点で凄くチグハグ。


結局製作者の一貫した考えがあったのは「アナ=“愚かな女”を“政治的に正しく”罰してやりたい」という陳腐なミソジニーだけで、エルサについては「アナのような“男に愛されたがる愚かな女”ではない“イノセントな被害者”が、その場その場でそれらしく見えればそれでいい」としか思ってなかったんだろう。


それが見えてしまうと本当に空虚なだけ。こんなものを本気で女同士の愛だの百合だの騒いでた連中には軽蔑や嫌悪感を通り越してヒンヤリした気持ちになるだけだし、この世界の“正しさ”はどこまでミソジニーに汚染されてるんだろうと一人の女としてあらためて暗い気持ちになる。


あと子供の教育には間違いなく悪い。同じディズニーでもどう考えても昔のシンデレラや白雪姫でも流しておいた方がいいよ。それか本当のアンデルセンの雪の女王の絵本でも読んでやる方がいい。



~おまけ アンデルセンの『雪の女王』について~


本当のアンデルセンの『雪の女王』の雪の女王、本当はカイ=“自然の神秘”や“世界の秘密”を探求しうる研究者や芸術家になりうるものとしての男(少年)にとっての、果てしない探求の対象である自然と世界の秘密を象徴する(普通の人間にとっては残酷な面を持つ)“女神”で、ゲルダ=生身の少女はそうした“自然の神秘の女神”に心を奪われた男を取り戻すために、男のために無限の忍耐と自己犠牲=母性を発揮できることを試練の旅を通して証明し、“女神”の秘密を求める果てしない探求に疲れ果てた男の元に辿りつき彼を無条件に受け入れてみせることで文字通り彼の心を取り戻す話。


要するに「研究熱に取り付かれて彼女をないがしろにした身勝手な理系オスと、どんなに冷たくされても耐え忍び男が研究に疲れ果てた時に迎えに来てくれた献身的な彼女」の話で、「カイは悪魔の鏡の欠片が目に入ったから心が歪んだ」なんて口実もいいところでしかない。


こうやって意味内容だけ抜き出せば単に超保守的な男女関係の寓話だけど、当然ながら作者の才能のお蔭で多彩で飽きさせない細部のある幾つもの短編の集まりとして面白く読めるし描写自体が美しいから名作なわけだし、保守的な男女関係の寓話という本筋の意味内容も「男を主体にしたこの世界の構造と女の位置づけ」を端的に示してくれている資料としては役に立つ。言うまでもなく某アナ雪にそんなものはないし、あるのは時間が経てばいずれ風化する当世限りのチグハグな“政治的な正しさ”だけだから比ぶべくもない。


# by kaoruSZ | 2018-10-09 02:40 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(31)

※下の文章は以前こちらの記事http://kaorusz.exblog.jp/22596833/に書いた話の補足的な内容になっています。

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小野不由美嫌いな話は前からしてるけど、十二○記だの悪○シリーズだの読む前に『緑の我が家』と『過ぎる十七の春』をセットで読めば作者の凄まじい母親憎悪マザコンミソジニーは丸わかりなのである意味おすすめ。本人がこの2作が自分の原点とマジで言ってるし。

本質的に「思春期を迎えた少女の母親への憎しみ」でしかありえない話を少年におっ被せてるだけだから「少年の心理」としてはリアリティないし小説としても出来がいいとは思わないんだけど。「母親憎悪+少年への自己投影」に『緑の我が家』の方は“母”=“汚らわしい女”と異性愛への憎悪の反対物としてBL(とあまり言いたくないが)要素が入ってて、まあ単に通俗。

自分の女嫌いの本当の原因である「社会と男様の女性蔑視」は絶対直視せず女性性を抑圧して名誉化して逃げてるだけなんだよね。あとこの2作共ホラーなので彼女の描くホラー的要素の核が凡庸なJホラー的ミソジニーで、そういう意味でも名誉なのがわかる。http://bit.ly/2jdOCn1

余談ながら某君の名はの作者のアニメ映画『言の葉の庭』というのは思春期の少年にとっての(自らの性の目覚めと同期した)「“母”もまた“女”であり、“女”は“母”ではない」ことを知ってしまったことによる“母”の喪失という男性のヘテロセクシュアリティの原点(父親が不在の『ハムレット』のバリエーション)と、(靴職人を目指す主人公の少年にとっての「女物の靴を作ること」に象徴される)“母”=失われた永遠の女性への憧憬こそが作家に作品を作らせ続ける、というベタな男性作家の自画像話としては、抑圧されたミソジニーからの逃避も含めてリアルで興味深かった(同作者としてはキモ度低いし)

要は少年を描いても「母=女への嫌悪と不信感だけてんこ盛りで(リアル男ならそれと表裏一体で存在してしかるべき)女性性への憧憬がまるでない」から不自然で感じが悪いだけなんだよね。女としての“女”への反感や怒りは女のものとして描くべきで、男の口を借りてもミソジニーへの加担にしかならない。

長野まゆみや24年組の一部の作家とかもそうだけど、http://bit.ly/2jedb3m
http://bit.ly/2jdJCyF男性同性愛表象の文化的な価値やそれが女性作家にも描けるかという話と、女性作家の描いた男性同性愛作品に“女”や“母性”への嫌悪や忌避が多く見られることは全く別問題で本質的に無関係だし、本当に問題なのは「女性が“母”になること以外の可能性や尊厳を認めない男様仕様の社会からのミソジニー」と、http://bit.ly/2eW7fulそれが抑圧に抗して作家になった女性のことも総じて深く傷つけていて、しかもそういう怒りを直接露にすることを許されていないという、何重にもクソな男様からの抑圧であって、それを「やっぱり女性は一見男の同性愛なんか描いているように見えても、本質は“少女”としての母親への複雑な気持ちなんですよね~少年(男)に見えても本当は少女(女)ですよね~」と本質化しておもちゃにする男目線の偏見は最低最悪のクズだし、http://bit.ly/2eUtp04そういう偏見を“フェミニズム的な評価”としてありがたがって内面化していた連中がセクマイ様に同性を叩き売る女衒クズだったのも当然なんだよね。http://bit.ly/2eUqg0a

「女が男性同性愛表象を描くこと」そのものの価値と権利を正面から要求できない腰の引けた貞淑さと、男様からの“女”としての承認を求める男尊女卑な権威主義の悪魔合体の結果が「BLのフェミ的読解()に群がるクズ共の大量発生」だったわけで、個別の作家・作品への妥当な読解と男様への本当の批判は今でもろくに存在しない。毎度のことだがクソ茶番。


# by kaoruSZ | 2017-09-10 02:11 | 批評 | Comments(0)